蒼天

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 小さく呻き、舌打ちを発しながらカメラを下ろす。  里山はたいした大きさじゃ無い。なにも考えずに進めばいずれ、開けた高台に出ることも当然知っていた、なのに失念していた。  再度舌打ちしつつ、いったん焼けた目が取り戻した視界に映った蒼天に、またカメラを構える。  ──────これだ、これだから面白い。  鮮やかな、深い蒼。この色を……  露出を調整する。世界は青いフィルターを纏った。  さっきまで神秘的な深い緑だった森は蒼を帯びた黒の額縁となる。  興奮と共に足を踏み出した。たった一歩進んだだけで額縁が消え去り空と大地が開ける。  ギラギラと太陽が照りつける空。青みの灰と蒼白の色付きを乗せた雲。大地を覆うのはエネルギッシュに恵を謳歌する深緑。強靭で無慈悲で、絶対的。まるで神の視点であるかのような────  シャッターを押し続けながらパンしていく。一様ではなく微妙に変化を見せる空の蒼。ミリ単位で表情を変える太陽。  夢中で露出を変えピントを弄り、刻々違う表情を見せる空を写し取って行った。  これはフィルムでも撮ってみた方が。ああ、森の中もフィルムで……うん、面白いかもしれない。カメラバッグにはフィルムのカメラも入っている。そんなことが頭の隅に過ぎるが、カメラを下ろす気にはなれなかった。今、この奇跡のような瞬間の連なり。一瞬でも目を離したら、神の目を失う────  切り取る画面に、スゥッと一筋の白が現れた。  飛行機雲?  こんなところに飛行機なんて飛んでない……いや、これも一瞬で消える奇跡か?  蒼を斜めに切り裂くような白が、徐々に薄まって行く。待ってくれ、まだそこにいてくれ。焦燥に焼かれそうになりながら雲を追った視界に、唐突に割り込んできた────陽に透けたような。いや、濃い影を纏った────若い男。  風に遊ぶ明るい色の毛先。目を少し細めた横顔。妙な存在感。  空を見上げる眼差しは、届かぬ憧れを見つめる少年のように切なげで悲しげで、なにかを諦めてしまったかのよう。  太陽に向けて上げている手の指先が陽を受けて白く光り、肌はほの青く染まっていて、なぜか涼しげにすら見える。  本能でズームしていた。  レンズをのぞく習性を持つ者なら、誰もがそうするだろう。それほど際立つなにかがあった。  するりとした肌に、ぽつんと艶を帯びるくちもとのほくろ。  いや、目尻近くにもある。くちもとのほくろは艶黒子といったか。目尻近くの泣き黒子は、たしか多情。良くも悪くも女を泣かす顔貌。  何者だろう。そう考えながら、ほう、と息を吐きだしてシャッターを押した、そのときまで呼吸は止まっていた。息を呑んでいた、というのが正しいか。生理的な欲求などどこかに飛んでいた。  一度動いた指はシャッターを押し続ける。音に気づいた青年の眼差しが動いた。顔がこちらに向く。  生命感の無い儚げな彫像だった男が、一転して生気を纏った。  いい目だ。  瞳は挑戦的な色を帯び射貫く。くちびるが血の気の多そうな形に歪む。  若さ故の傲慢に無垢な少年が見え隠れする。  いい。  この顔もいい。全て写し撮りたい。 「なに」  少し高い掠れた声。ああ声もイイ。  彼が一歩踏み出した。 「動かないで」  シャッターを押し続けながら、夢中で声をかける。 「は?」 「その位置、」  光線の入りが良いんだ。奇跡的なほど。 「動かないで。あと少し……いや」  表情を強請る声をかけようとした瞬間、瞳が強い色を放つ。同時に口角が上がって薄い唇が笑みを形づくった。  放心したようだった顔が一気に不敵になる。この表情。これだ。 「……やめてくんない?」 「良いな……」 「やめろって言ってんだけど、イイ男過ぎて止まんねえか?」 「ああ、最高だ」  声を返しながらシャッターを切る。 「しゃれになんねーからマジでやめろって」  僅かにしかめた眉、目元とくちもとから笑みの気配が消えた。  決めた露出でズームバック。  首が長い。広すぎない肩幅。スラリとした手足。  軽いジャケットにシャツ。山の中を歩くにはずいぶん洒落ている。暑くないのか。  彼の背景には消えかけた飛行機雲が走っている。さらに何枚か撮った。  満足感と共にカメラを下ろす。 「ありがとう。いい画が撮れた」 「はあ?」  久しぶりに人物を撮った。  これは帰ってからじっくり見よう。加工を入れても面白そうだ。  どこか呆けたようだった表情が、不満げなものに変わる。  またファインダーを覗いた。はっきりと怒りの表情。コレも良い。思わずシャッターを押していた。 「なんなの? 俺やめろ、つったよな」 「ああ、いきなり悪かった」  確かに失礼だったか、そう思い至りバッグに手を突っ込んで名刺入れを探す。 「思わずというか、止まらなかった。奇跡的に光線が良かったんだよ。青みを帯びた君の肌や髪の……」 「ていうかデータカード寄越せ」  こちらに向けて手を差し出し、きつく睨み付ける目を光らせて青年は言った。   「タダで撮らせてやるかつーの、ふざけんな。つうか気合い入ってねー顔はNGなんだよ」 「……ぁ……君は……」  まずい。  背中に冷たい汗がつつっと流れたのを感じつつ、バッグを探っていた手が止まる。  いまどき人物を撮るに、一般人でも肖像権に気をつけるのは鉄則だ。 「……モデル、か?」  ましてプロなら……。
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