思い出

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 狭い区画の中には嗚咽や鼻を啜る音が響いている。  ひとつひとつ開く箱には、忘れようとしていた父が、母が、弟が、妹がいた。  肉体では無いところに刻みつけられた深い傷は、既に膿を流し尽くし、乾いてかさぶたになっていたはず。  けれど箱を開く度、かさぶたに細かい傷が刻まれる。そこから滲み出る膿のように、目から流れるものは止まらなかった。時々思い出したように袖で顔を拭い、次々箱を開いていく。  妹には髪型や服装など、気付くと『それはやめろ』『こうしろ』などとくちを出していた。弟が憎まれ口をきけば蔑んだ目を向けて『能なし』『バカ』などと辛辣に返していた。しかし父や母とは何年も、まともにくちをきくことすら無かった。  けして仲良し家族というわけでは無かったはず。良い思い出ばかりでは無かったはずなのに、思い出されるのは、優しく美しい光景や言葉や表情ばかり。  永遠に失ったのだと思い知らされているからか、なにを失ったのかも分かっていなかった自分を哀れむ心持ちからか、あるいは二度と会えない顔を思い出し悼む気持ちからか。  頬を伝うものは途切れること無く、誰もいない区画に座り込んで、嗚咽を堪えることもせずに、俺は思い出を辿った。  どれくらい時間が経ったのか、疲労を感じて袖でグイッと顔を拭い、床に座り込んだまま顔を上げる。ようやく涙が少し乾いてきた。さんざん泣いて水分が枯渇したのかも知れない。  換気口と照明だけの殺風景な天井を見上げて、ほう、と息を吐く。腰を上げると、よいしょと声が漏れた。苦笑しながら区画を出てトイレに向かう。  洗面台に水を流し、手で掬ってバシャバシャと顔を洗う。袖でグイグイ擦ったからか、目や頬が火照っていて、水の冷たさが気持ち良い。渇きを覚え、掬った手から水を飲む。喉を通る冷たさに何度も飲んで、胃に染みる感覚から腹が減っていると気付きつつ、またバシャッと顔を洗う。  顔を上げると、鏡には濡れそぼったおっさんが映っていた。  こんな状態は予測していなかったが、ともあれひとりで来て良かった。情けなすぎる。ククッと笑いが漏れた。  頬を擦ると、ざりざりとした感触がある。顎もだ。  毎日髭を剃る習慣は無いし、手入れが大変らしいので髭を蓄える気も無い。気が向くと剃る程度なので、わりと常に無精髭が残ってる。肩に掛かりそうに伸びた髪はボサボサ、床屋に行ったのは三ヶ月前だ。  父はいつもキレイに髭を剃っていた。二週間に一度は床屋に行き、いつも身ぎれいにしていた。こんな顔をしていたわけが無い。なのに……疲れ切ったようなオッサンの顔は、少し父に似ていた。  あの事故の時、父は確か四十六歳だった。あと二年で、その年になる。  くくく、と笑いが漏れた。笑んだ顔は、やはり父に似ている。  止まらない。笑いが止まらない。  いい年をして、なにをしている。逃げている場合か。  父の亡くなった年になったとき、こんな状態のままでいいのか。父に勝てるわけなどないけれど、いつまでも二十二歳のまま、足踏みしている状態で良いのか。  いいや、良いわけが無い。分かっていたことだ。  ずっとずっと、分かっていた。  なのに気付かないフリをしていた。  ずるずると気付かないフリで逃げていた。……怖かったから。  思い起こせば胸を締め付けると分かっているもの。胸苦しさや痛みを感じることを厭い、俺は二十二年間、受け容れることを逃げ続けていた。  けれど必要な時間だったのだ。分かっていた。  鏡の中の顔は徐々に険しくなり、俺を睨み付ける。  父に似ただらしない男が、無精髭を纏わせながら情けないと俺を怒る。いい加減吹っ切れとハッパを掛けるように、視線は鋭くなっていく。  ギュッと目を閉じた。  厳しい眼から逃れ、流したままの水でまたバシャバシャと顔を洗う。再度顔を上げると、鏡には濡れた髪が額や頬に張り付いた情けない顔が現れた。プッと吹き出してしまう。  なんだこの顔。  情けないにも程がある。  クスクス笑いながらペーパータオルで顔を拭き、部屋へ戻る。様々なものが投げ出されたままの惨状に眉尻が下がった。  適当に箱に放り込み、積み直す作業で(したた)か汗をかいた。  汗を拭いながらそこを出て鍵を掛ける。  泣いたからか、あるいは顔を洗ったからか、妙に気分はスッキリしていた。  フロントで鍵を返していると、「よっ」後ろから声がかかった。 「ほんとうに大丈夫だったみたいだな」  そう広くないロビーのベンチで、仕事してる筈の友人がヘラッと笑っていた。 「なんでいるんだよ」 「そりゃあ、なんかあったらマズイからだろ?」 「大丈夫だって言っただろ」  そう言いながら、はあ、と大きな溜息が出た。
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