蒼天

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「だったら? つうかあんた、失礼だな」  久しく人物は撮っていないから、最近のモデルなどほとんど知らない。しかしこれだけのモデルに対してカメラマンが顔を知らないと言うのは、侮りと取られてもしかたない。  俺程度、肖像権侵害で訴えられたら一発で干上がる。  暑さによらない汗がじわりと滲んだ。 「いや……済まない。その、かっ……」  そうだ、どうして思い及ばなかった? これだけのルックス、髪型も服装も洗練され……なぜ素人ではないと気づかなかった? 「……勝手に撮って済まなかった」  喉に粘液が絡んでいるようで、声が出にくい。 「今さら?」  冷えた光を放つ茶の瞳を見返し、ゴクリと喉が鳴るような気がした。  が、実際は空唾を飲み込んだだけだ。 「公表はしないから……」 「当たり前でしょ」 「……ぅ……」    俺は写真しか無い人間だ。他の仕事をしたことが無い。  それだけでは無い。家族との縁が薄く身内と呼べる存在は皆無。恋人と呼べるような存在も長くいないし、仕事以外で逢う友人もいない。  他にできることなど無く、誰にも頼れない。つまり写真で食えなくなるような真似をすべきでは無い。しかし…… 「ギャラ払う、だから良ければ……」  これからも。  そうだこれからも彼を撮りたい。  そんな希望を乗せた声に彼は眉を顰め一歩踏み出す。 「は? なに言ってんの?」  少し掠れた高めの声が剣呑な響きを帯び、自然に一歩後退した。 「凝り性の素人ってんならまあ、条件次第じゃ許してやっても良いかなあとか思ったけどさ、あんたプロなんだ?」  睨み付けたまま、一度下ろしていた手が再び、俺に向かって真っ直ぐ伸びる。殴られるのかと思い、無自覚に首を縮めると手のひらが上になり、誘うように指が動いた。 「データ壊す。カード寄越せ」 「え、いや。……い、いやそれは」  無自覚にカメラを守るように腕の中に抱え、首を振っていた。  ────無理だ、諦めるなんて…… 「なに、カメラごと壊した方がイイってか?」 「いやだから……その、ああギャラ払うよ! だから」 「はあ?」 「済まない、君のギャラはどれくらい……」  あの奇跡。  森、蒼天、そして彼……今日撮ったもの────ダメだ、これはどうしても持って帰る。手放すなんて、諦めるなんて、そんなことは────無理だ、絶対に。  手のひらを向けたまま、青年の目が細まる。 「……なめてんの?」 「いや言い値で払う! そ、そう! 意に沿わないなら公表しない! 個人的に持つだけにする、そう約束する! だからカードは……」  真っ直ぐな眼差しが冷えていく。だが……撮っただけ、データとしてこの中に入っているだけ、まだ見ていないのだ。ぜんぶじっくり見て手を入れて仕上げて、そのつもりで──── 「信用出来るわけないだろ」 「あ……そう、か、……い、いや、だが……」  ────だが諦められるわけが無い……! 「……せめて、……そうだプリント」 「は?」  だが、……そうだ叶わないならせめて! 「データは渡す! せめてプリントさせてくれ、それならいいだろ?」  縋るような気持ちで言っていた。  できれば持ち帰りたい。データで持ち帰って仕上げたい。が……背に腹はかえられない。 「ふーん?」  だが彼の瞳はさらに冷え込んだ色を帯び、くちもとが皮肉げに歪んだ。 「声もかけずにいきなり撮って? やめろつっても激無視で? 俺の顔も知らないとか超失礼なこと言って誤魔化そうとしたカメラマンが、なーに約束するって?」 「いや、そう思うのも分かるが……」 「分かるが? だからなんだっつの」  プロの顔を無断で撮影、制止の声も無視してへらへら撮りまくり、あげく相手を知らないとしらを切る。はなからギャラを踏み倒し撮り逃げするつもりと取られても仕方ない。 「信用出来るかよ。プリントを悪用しないって保証、無いよな? だって見てないとこでこっそりデータコピーしてプリントするとか? やられちゃったらさ、俺素人だし分かんないかもしんないじゃん? 信用できるわけないだろ。無茶言わないでもらえますー?」  彼の言う通りだ。俺ならそんなカメラマンを信用しない。  知人からそんな話を聞いたら絶対に信用するなと言うだろう。だが…… 「た……っ、頼む……」  恥も外聞も無く、俺は頭を下げていた。 「俺は何ヶ月もここに通ってたんだよ! この山にも何度も来たし何百枚撮ったか分からない、だけど今日は……! 今日は最高の画が撮れたんだ! こんなのはもう二度と撮れない、まさに奇跡的な……!」  あれをぜんぶ諦めるなんて……絶対に無理だ。諦められない。  「そんな最高の……、だからどうしても……! 全部手放すなんて! できない……絶対に!!」 「知るかよ」  彼の画も諦めたくない、だが 「だっ、だから君の写真は渡す! データ消去だってなんだって」  しかしそれが無理ならせめて! あの森の画を! あの蒼天を! 「だから頼む、それ以外は……、頼む! プリントさせてくれ!!」 「んなこと言って、こっそり俺のデータとっとくとかすんだろ? 分かってんだよ」 「そんなことはしない! 疑うなら一緒に行こう。すぐそばで監視していてくれ、プリントしたらすぐカードを渡す。それならいいだろ?」 「は? 一緒に……て、あんた」 「今日撮った画をぜんぶ諦めるなんて絶対にできない、しちゃいけないんだ! これを諦めたら俺は…………! だから、なんでもする! 君の納得いく方法に従うから、頼む……! プリントだけ、させてくれ!!」 「……なんて顔してんだよ」  自分がどんな顔をしてたか、そんなのは分からない。  だが彼の目の圧が弱まった。  期待を込めて見返していると、目をそらして横を向く。ふて腐れた少年めいた表情を浮かべ、眉を寄せた横顔に見入ってしまう。  最初にシャッターを押したときの、放心していたあの顔、その後の挑戦的な表情、そのどちらとも違うこの表情。  ああ、これもいい────いや  慌てて奥歯を噛みしめ、胸元に抱えたままのカメラを構えたい衝動と戦う。  ────ダメだ。  今また写真を撮ったら、確実に交渉は決裂する。ウズウズする指を抑えようと必死に耐える。  だがこの青年の表情が、蒼天を背景にしたままの肌や髪が、どうしても刺戟する。  ────無くした、いや捨てたはずの……  ふぅっと息を吐いた。  こめかみから流れる汗を手の腹で拭う。  しかし目を逸らせない。逸らしたくない。撮れないなら、せめてこの画を記憶しておきたい────
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