鴇色

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 町が秋の色に染まり始めて、しばらく経ったある日。  俺は昼前から庭を整える作業に没頭していた。  収穫の終わった夏野菜の残骸を抜き、空いた畑を耕して肥料をまいてよく混ぜる。雑草を抜き、枯れた花を摘み、落ちた葉を掃いて、一息ついた。  こうした庭の手入れも慣れたものだ。最初は虫が出る度に騒いでいたなと、いつもからかう町人たちも、珍しく今日は来ない。  台所へ入り、手を洗う。コーヒーメーカーに豆をセットしてスイッチを入れ、コポコポ音を立て始めたのをしばらくボーッと眺めて、マグカップを手に縁側へ向かった。  は、と息を吐き、足を投げ出すように座る。  暑くも寒くもない、ちょうど良い季節。渡る風も心地良く、目を細めてコーヒーを啜り、湯気を顎に当てながら、目に映るものを見るともなしにぼーっと眺める。  秋晴れの空が、落ちて行く太陽に染まりつつあった。秋の色に染まり始めた木々の葉も、朱色に輝く陽光を受けている。  いいな、と思い、いつもポケットに入っているデジカメを手に取った。  まだ浅い紅葉が夕陽を受けて、赤や橙では無い鴇色(ときいろ)を帯びている。なかなかにキレイだ。  シャッターを押し、カメラをのぞいたままパンしていく。  空だけ、空と樹木、露光を変え、シャッター速度を変え、撮っていく。  ファインダーからのぞく視界の端に、人の影が入った。  町人が来たのかとカメラを下ろしてそちらへ顔を向け、  ──────固まった。  片手を腰に当てたバランスの良い立ち姿。町人では無い。  落ち行く太陽を背に、鴇色を帯びて不敵にニヤリと笑う男。  一瞬で、空気が変わったよう。  見慣れた庭先が、まるで違う世界になったよう。  表情にゆとりを感じさせるものを滲ませた男が、橙色の陽光を背に、半熟の鴇色を纏って堂々と立っている。 「シケたトコに住んでるんだな」  ──────彼、だ。 「手間掛けさせやがって。めっちゃ探したんだぞオッサン」  彼だ。間違えるわけが無い。ずっと見ていたのだ。  スクリーンで、テレビの画面で、雑誌などで……見る度に表情は違った。けれどだんだんに自信をつけていっているのが見て取れた。芝居だけじゃなく、言動にも自負と自信が見えてきていた。その度に、なぜか誇らしい心持ちになっていた。 「奢ってくれるんだろ、ウマイもん。逃げてんじゃねーよ」  若かったあの日、青い光を帯びて、不安を内包した危うげな表情だった。それが魅力的だった。 「まあ、こっちも色々あったんだけどさ。やっと時間できて部屋に行っても留守。何回も行ったのにずーっと留守。あんた名前も言わなかったし、写真家ってことしか分かんねーし、探しようも無くてさ、マジでまいった」  ……だが今、まったく違う色を纏い、彼は不敵に笑う。 「でも、見つけたぜ」  目の前まで歩み寄っってくるのを、縁側に座ったまま見上げる。  俺を見下ろしてニヤリと笑った男は、身をかがめ膝を折って、動けずにいる俺に覆い被さるように首に両腕を回し────  柔らかく……抱き締められると同時、耳元に、かすかに響いた囁き。 「やっと……見つけた」 「……諦めなかったんだな……」  いつか逢えたなら言おうと思っていた言葉。それが自然にくちをついた。  耳元に震えた溜息がかかり、継いで低い囁きが落ちる。 「あんたもな。……あのとき言った通り、諦めなかった。見てたよ、先生」 「……俺のこと、知ってるのか」  俺は彼の名前を知っている。有名俳優なんだから当然だ。しかしそんな有名人が、俺ごときを知っているなど想像もしていなかった。 「誰がスタジオとか建てたと思ってンだ?」  ハハッと笑い、続いた声に絶句した。 「………………え。じゃあ、あの話の有名人、……って」  言い終える前に両肩を掴んだ手に押され、声が途切れる。間近で笑む彼を見上げた。 「あんな寝顔撮ってたなんて、反則じゃねえ?」 「……あ。はは……写真集、見てくれた、んだ」 「当たり前」  彼はニヤリと笑みを深め、少し声が低くなる。 「つうか俺の写真は誰にも見せないとか言ってなかったか?」 「み、見せてない。あれは、君と分からないだろうと────」 「まあな、俺も最初は気付かなかった。けど……」  また抱き締められて、また声は絶えた。 「あの森の写真があった。貰ってったのと同じのが。マジで……ビビった。やっと見つけたって、しばらく震えが止まらなかった」  そう囁いた声も、震えていた。  俺は、ただ頷いた。  ──────探して……くれていた。  そのことに胸がつまり、何も言えなくなっていた。
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