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商店街らしきものを見つけては車を置き、カメラバッグを膝に乗せたままの彼を助手席に残してウロウロした。しかしある程度設備の整ったところなら、たいてい知っている。そういう場所を避けようと思えば、簡単には見つからないと分かっていた。
車に戻って「この町もダメだ」と告げると、彼はスマホを弄りながら言う。
「ふうん。じゃあ、次行こう」
妙に弛緩している様子が不気味だ。
ただスマホに夢中な様子で、焦れているようには見えず、残念そうな素振りもない。だからこそ、恐ろしい。なにをやり出すか分からない。膝の上のカメラバッグを車の窓から放り投げるだけで、機材ごと全てなくなる。それで彼の望みは叶うのだ。
そうした上で言を翻して肖像権侵害で訴えを起こすと言い出すかも知れない。カードを渡し解放されたとしても、名前や住所を押さえられたら……いつでも俺を干上がらせることができる。俺を終わらせるなど、彼にとって簡単なことなのだ。
だから彼を苛立たせるようなことは避けなければならない。慎重に言葉を選ぶのだ。不審を抱かせる行動をしてはいけない。
エアコンが効いているのに、背中やこめかみや首筋には粘つく汗がじんわりと滲み続け、シャツもじっとり重くなっている。早くこの状態から解放されたい。
「もうさあ、諦めなよ。カード渡せばそれで終わるんだから」
助手席から聞こえた気のない声。諦めれば楽になるという声が頭を過ぎった。しかし
「イヤだ。絶対に諦めない」
反射的に答えていた。
こんな抵抗に意味があるのか分からなくなってきているのに、それでもやはり、あの画を諦めたくはない。
その思いも全く弱まらない。
「なんだってそんな頑張るんだよ」
「今諦めたら、絶対ダメな気がするんだ」
「なにそれ」
彼は呆れたように声を上げる。
「諦めちゃえって~、楽になろうぜ~?」
「いや」
自分に言い聞かせるかのような、抑えた声が漏れた。
「……俺はもう諦めない……二度と」
「あ~めんどくさいなアンタ」
チラッと目をやると、下唇を突き出した子供のような横顔が見え、思わずくちもとが緩んだ。
「……おまえいくつだ?」
「は? 関係ある?」
子供じみた表情はそのまま、生気に満ちた目線でこちらを見る青年。
敵わないな、と、自然に思えた。
「あるさ」
あの時光を浴びた『彼女』も、こんな目をしていたような気がする。
俺だって、若い頃はこんな目をしていたのかも知れない。けれど……
「俺は諦めたんだよ。ちょうどお前くらいの頃だ」
「だからなに? 俺はアンタじゃない。分かってる?」
分かってる。
────が、そんな感傷などクソ食らえだ。
「俺は、生活のためじゃない、金にならない写真を撮るんだ」
「は? 意味分かんない」
だろうな、と苦笑が滲む。
彼のように輝くものを持つ若者には分からないに違いない、感傷でしかないもの。
しかし俺の場合、それは苦い後悔とセットになっている。あのとき『彼女』に対して感じた、敗北感に似たなにか。それはなにより強い感情を育み……俺を変えてしまった。けれど納得していたはずだった。
「なんかあったぽいけど」
「ああ、まあな」
「ふうん。やっぱあったんだ」
だが、いつからだろう。考えるようになっていた。
あの時、写真を生活の手段にするという選択をしなければ、諦めずに進んでいたなら、今ごろどうなっていたのだろう。度々湧きあがるその思考は、鈍くも重い後悔に塗れて、これで良いのかと俺を苛み続けている。
「……じゃあさ、どうせ暇なんだし、聞いてあげる」
「……はは……」
さして興味もなさそうな声に、思わず乾いた笑いが漏れた。ハンドルを握る手からも力が抜ける。
そうして初めて自覚した。必要以上にぎっちりハンドルを握っていたことに。
────そうか、俺は緊張していたのか。
その自覚に深い息を吸って吐き、気づくと自嘲気味の声で言っていた。
「……俺はまあ、挫折したカメラマン……いや写真を撮る職人だ。今は物撮りメインで、仕事で人物は十五年くらい撮ってない」
「へ? でも俺のこと撮ったじゃん。もっとくれ的なこと言ったし」
「人物を撮ったのは本当に…………久しぶり、だったんだよ」
無自覚に苦い笑いを纏いながら、俺は記憶を探った。
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