1人が本棚に入れています
本棚に追加
一人の独身男の独白
ある日。
昼食のために俺は、見知らぬ飲食店に、ぶらりと入ってみた。
ちょっと小洒落た店だが、レストランというほど立派でもない。大衆食堂と呼ぶべきだろうか。
店内にはテレビが設置されており、ちょうど、お昼のニュース番組が流れていた。
注文した料理が来るまでの間、何とは無しに、その番組を見ていたのだが……。
テレビに映し出されていたのは、二十代にも三十代にも見える女性アナウンサー。薄黄色のスーツで身を固めた、爽やかなお姉さんだ。
「本日未明、板橋区のアパートで‥‥‥」
原稿を読み上げるアナウンサーの説明によると、殺人事件が発生したということらしい。
夜中にバタバタと騒音が激しく、下の階の住人が文句を言いに出向いたところ、ちょうど事件の直後だったという。しかも、どう見ても犯行直後だというのに、容疑者はそれを隠そうともせずに、ドアを開けて対応したのだった。
その住人がドアの隙間から目にしたのは、おそるべき犯行現場。そして、見るも無残な惨殺死体。彼は、驚いて警察に通報した……。
そんな感じのニュース内容だった。
「なお、容疑者は犯行を否認しており……」
店内では、俺の他にも、そのテレビに目を向ける者たちがいた。
例えば、右斜め前に座っている二人組。まだ若いのに、初々しいカップルというより、熟年夫婦のような雰囲気を醸し出していたのだが……。
「うわあ。酷い話だな。食事時に流すニュースじゃねえよ、これ」
顔をしかめる男に対して、女の方は、平気な顔をしている。
「そうかしら?」
「『そうかしら』って、お前……」
男は一瞬、絶句してから、
「殺人事件だぞ! なんとも思わないのか?」
「いやいや、そんな大げさな……」
「なんてこと言うんだよ! あんなに優しかったお前が、そんな……。付き合い始めた頃とは、まるで別人じゃないか……!」
「あら。私には、あなたの感性こそ理解できないわ。私に言わせれば……」
二人は、喧嘩になってしまったようだ。
確かに。
男の『食事時のニュースではない』という言葉には、俺も同意したい部分はある。だが、どちらかといえば、俺は女の意見の方に賛同したい気持ちだった。
そんなことを思いながら、カップルの諍いからテレビへと、俺は視線を戻す。
ちょうど画面には、連行されていく容疑者の様子が映し出されていた。
「確かに俺がやった! でも、それでも! 俺は殺していない!」
容疑者が叫んでいる。
矛盾しているようにも聞こえるだろう。まともな精神の持ち主ではないようにも見えるだろう。
この犯人は心神喪失者ではないか。罪には問えないのではないか……。もしかしたら、そう思う人もいるかもしれない。あるいは、そうほのめかすために、わざわざこの場面をニュース映像として使ったのかもしれない。
しかし。
俺には、なんとなく、この容疑者の心境が理解できる気がした。
おそらく、俺も彼も。
そして、先ほどのカップルの女性も。
ある意味、同類なのだろう。
そう。
実は俺は、この世界の人間ではない。
この世界とよく似た並行世界から、この世界に迷い込んでしまった人間だ。
ただし。
この世界と、俺の元の世界は、本当に『よく似て』いる。
ほとんど同じようなものだ。
だから。
俺と同じ立場でありながら、まだ「いつのまにか自分は別の世界に紛れ込んだ」ということに、気づいていない者だって大勢いるはずだ。
そう。
人間誰しも。
知らないうちに並行世界に移動している可能性があるのだ。
ただ、気づいていないだけで。
この容疑者は、きっと、そんな一人だ。
喧嘩になったカップルの女性も、おそらく、まだ気づいていないのだ。
俺は、気づいていてよかった、と思う。
まあ、俺だってまだ、全てを理解しているわけではないが……。
元の世界とこの世界の違いとして、一つだけ、わかったことがある。
それは、この世界ではダッチワイフに人権がある、ということだ。
所有しているダッチワイフに致命的な損害を与えたら殺人罪、壊れたからといって捨てたら死体遺棄罪が適用される。
何故そんな制度になっているのかは知らないが、少なくともこの世界では、それが常識であり、そこに誰も疑問を差し挟まない。
俺は「自分がダッチワイフのお世話になるような人間ではなくてよかった」と、つくづく思う。
でも。
俺が何気なく使っている品々の中にも、この世界では『人権』のあるものが存在するかもしれない……。
そう考えると、怖くなる。
だから。
最近、俺はモノを大切に扱うようにしている。
(「ダッチワイフ殺人事件」完)
最初のコメントを投稿しよう!