吊り橋効果

1/1
前へ
/1ページ
次へ

吊り橋効果

     僕の通っている高校には、もう使われていない旧校舎がある。新校舎と呼ばれる棟――三階に僕たちの教室がある――とは、長い渡り廊下で繋がっている建物だ。  不整脈で入院していた僕は、初めての登校が、五月の連休も終わった頃になってしまった。休み明けの独特な雰囲気と同時に、当時クラスで話題になっていたのが、旧校舎の噂だった。 「知ってるか? あの旧校舎……。女生徒の幽霊が出るらしいぜ」 「昭和の時代に亡くなった、薄幸の美少女らしい。お前も一度、見に行ってみないか?」  面白半分に、そんな話を持ちかけてくるクラスメイトたち。  怖がっている気持ちが僕の顔に出てしまい、それを見て、さらに話を進めようとする者もいる中、 「やめてやれ。そいつ、怖がりなだけでなく、心臓が弱いんだから……。冗談じゃなく、命の危険になるぞ」  同じ中学だった知り合いが、きちんと止めようとしてくれた。  ただし、 「しかも、ただ『怖がり』なだけじゃない。そいつ、霊感あるらしいからな。俺たちと違って、本当にしまうんだよ。……大事(おおごと)になるだろう?」  と、おそらく親切心なのだろうが、余計な一言を付け加えてしまう。 「えっ? 霊とか見えるのか! そりゃあ、ますます……」 「噂の真相を確かめるには、絶好の人材だな!」  まだ友人とは呼べない、無責任なクラスメイトたち。彼らは、僕の気持ちなど置いてけぼりにして、勝手に盛り上がる。  それでも僕は。  頑として首を縦に振らなかった。  彼らの心霊調査とか肝試しとか、そういったものには決して近寄らなかったのだが……。 「嫌がってても……。どうせ、そのうち行くことになるぜ。旧校舎には」  その発言の意味を僕が理解したのは、体育の授業へ向かう時だった。  運動場は二年生や三年生が使うらしく、一年の体育は、体育館で行われる。この体育館が、旧校舎を越えたあたりに設置されていたのだ。  もちろん、ぐるっと迂回して行くのが正しいルートだ。しかし、近道しようと思ったら、旧校舎の中を突っ切る形になる。  そして。  急ぎの場合は、みんな、そちらの『近道』を使うのが通例となっていた。  あんな噂で盛り上がっていても、幽霊の存在なんて、誰も心から信じてはいなかったのだろう。仮に信じていたとしても、そこにあるのは好奇心だけで、恐怖心は皆無だったようだ。  僕は激しい運動を医者から止められていたので、体育の授業は見学だけ。それでも「授業は必ず相応しい衣服を着用した上で受講すること」という校則があったため、いつも運動着に着替える必要があった。これがなければ、クラスメイトより先に教室を出て体育館へ行けるのだが……。  ある日。  直前の授業が少し長引いて、教室を出るのが遅くなった。  時間がないということで、みんな走って体育館へ向かう。走れば旧校舎を迂回してもギリギリ間に合いそうだし、中には、走った上で『近道』を使う者もいた。 「お前も、遅れずに来いよ。まあ歩きでも、旧校舎ルートなら間に合うさ」  そう言い捨てて、先に行くクラスメイトたち。  僕は、医者から「心臓の負担になるから走るのもダメ」と言われていたのだ。  結局。  クラスメイトのアドバイスを受け入れて、嫌々ながら、旧校舎を突っ切るために、長い渡り廊下へ足を踏み入れた。  すると。  渡り廊下の、旧校舎に入る少し手前のところで。  髪の長い少女が、佇んでいた。  手すりを掴んで、ぼうっと外を眺めている。  僕の位置からは、横顔しか見えない。だが、物憂げな視線と相まって、その美しさは僕の心に深く刻まれた。  同時に。  彼女の着ている制服が、明らかに今のものと違うことも見て取れた。クラスの女子が来ているブレザーとは異なる、昔風のセーラー服だ。 「昭和の時代に亡くなった女生徒……」  クラスメイトから聞かされた言葉が頭に浮かび、無意識のうちに、僕の口から飛び出していた。 「あら? もしかして、私のこと、見えるのかしら?」  僕の言葉が聞こえたようだ。彼女は、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。  正面から見ても、やはり整った顔立ちだ。薄幸の美少女という噂は、間違っていなかったらしい。  それでも。  美少女と知り合えた幸福感よりも、幽霊と出会ってしまった恐怖心の方が上回る。僕は気づいていないふりをして、わざとらしくないように徐々に視線も逸らして、まっすぐ前だけを見て進む。 「ねえ、見えたのよね? ねえったら! 無視しないで、反応してよ!」  耳に入る言葉は無視して、とにかく歩く。旧校舎の中ではなく、ここに幽霊がいるのであれば……。とにかく渡り廊下さえ抜けてしまえば、大丈夫のはず!  弱っている心臓がドクンドクンと、早鐘を打つように鳴り響く。それも聞こえないつもりで、ちょうど彼女の横を通り過ぎようとした時。 「もしかして……。これも知覚できるのかしら?」  彼女がスーッと腕を伸ばして、僕の頬を撫でた。  その瞬間。  心臓が、限界に達して。  僕の意識は、暗転した。  次に気づいた時。  目の前にあったのは、彼女の顔だった。  倒れた僕の顔を、心配そうに覗き込んでいたらしい。 「ああ、良かった! 蘇生したのね!」  ……『意識を回復した』ではなく『蘇生した』だと?  身体中(からだじゅう)から嫌な汗が噴き出す僕に、彼女は説明し始めた。 「ここ、私の担当区域だから。死ぬ予定じゃない人が死んじゃうと、私が怒られちゃうのよねえ。私の力で蘇生できる程度の一瞬の死で、ほんと助かったわ」  彼女は、噂されていた通りの地縛霊であると同時に、この近隣一帯を担う死神なのだという。どうやら幽霊の世界も大変であり「成仏できないなら現世で働け」ということで、彼女は『死神』の仕事に就いているらしい。  地縛霊なので当然、このポイント――彼女が身を投げて死んだ場所――から動けないのだが、死神として、亡くなる者の魂を刈り取りに行く時だけ、ここから離れることも出来るそうだ。 「……そういうシステムなのよ」  にっこりと笑う幽霊に対して。 「はあ、そうですか」  一応は生き返らせてくれた恩人なので、もう無視も出来ず、適当に言葉を返しておく。  だが、悠長に彼女の相手をしている場合ではなかった。 「あのう……。僕、急いでいますので、これで!」  体育に遅れると困るので、駆け足にならない程度のギリギリで、僕は足早に立ち去った。 「じゃあ、またね〜!」  幽霊とは思えぬほど陽気な彼女の声を、背中に受けながら。  幸か不幸か、体育の授業には間に合った。  もちろん『間に合った』こと自体は、明らかに『幸』だ。  しかし。  あんなこと――心臓の一時的なストップ――があっても、それでも『近道』を使った方が早い、と判明したのは……。  ある意味『不幸』と言えるのではないだろうか。  だって。  その後、体育に遅れそうになるたびに、僕は渡り廊下を通って同じ目にあうことになるのだから。  何度も何度も、僕は彼女と出くわして、心臓停止と蘇生とを経験することになるのだから。  こうして。  また今日も、僕は……。  長い渡り廊下で、長い黒髪の幽霊(しにがみ)とすれ違って、心臓が止まる。  そして蘇生してもらい、その場を立ち去る。  でも。  こんなことが繰り返されるうちに……。  なんだか、幽霊(あのひと)のことが気になるようになってきた。  彼女との交流に、ささやかな幸せを感じるようになってきた。  これって……。  もしかすると、恋なのだろうか? (「長い渡り廊下で ――吊り橋効果――」完)    
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加