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二、別離
翌年の秋、源吾は田圃を見下ろす斜の木に登り、四、五人の男に前後を囲まれて歩く娘達の列を眺めている。そこには昨夜、踏ん切りをつけるように話した姉が、京へ奉公に上がる姿があったからである。
多くの稲を浮塵子(うんか)に枯死させられた田圃の片隅には、稲架に掛けられた稲穂が虚ろな姿をさらしている。脇の畦道にはそれを嘲るかのように、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の赤い花が群咲いていた。
後に享保の大飢饉(享保十七年・一七三二年)と呼ばれ、徳川実記では百万人近くの餓死者を出した厄災が、丹波の奥地にも及んでいた。
源吾は夕刻まで炭焼き窯に向かっていた。そこに、姉が運んで来た獣肉が混ざった稗の雑炊を腹に収め終わった時、急に姉から西陣の織元へ五年の年季奉公話を聞かされた。
「姉上、何故急に京へ奉公なんぞに行かれますのか。私は嫌でございます」
「源吾、お前とは幼い頃から仲の良い姉弟として、よく学びよく遊びました。そして、母上が不幸に亡くなられてからは、互いに辛酸をも共にして来ました。だが、男子として生を受けたお前は、これから身を立てることを勘考せねばなりません」
日頃は、どんなに辛い時でも笑みを湛えた姉の優しい面立ちが、思いつめた峻厳(しゅんげん)な様相に変わっている。源吾は、思わず顎(あご)を引いていた。
「明日の朝、私は京へ向かいます。里の村で身請け奉公の前金として十五両(一両は、現在で十二万円から十三万円)を受け取ることになりますので、お前に渡します」
「姉上は金子のためだけで、奉公に出られますのか。ならば、もっと身を粉して炭焼きに励みます」
「お前の気持ちはよくわかりますが、父上の病の薬代には代えられません。その金子から五両は了安殿に渡しなされ。残りは後のため、そしてお前の身の立つために使いなされ」
「姉上、あの薬料はそれほど高価なものですか」
「了安殿がかつて懇意にしていた京の薬種問屋から取り寄せて頂いている朝鮮人参で、強壮や造血に効用があると聞いております」
「それで、父上はそれをご存じですか」
「いいえ、父上には風邪のお薬としか伝えておりません。了安殿に父上の容体をお話ししたとき、直ぐに労咳と診立てられました。しかし、気が勝っておられる父上は風邪としか思われておりません」
「労咳ですか」
「了安殿は、そう長くは持たないと話されております。今、私が何とかしなければ了安殿に甘えてばかりで申訳も立ちません。父上の最後を看取る事無く、ここを出るのは親不孝の極めとなりましょうが、蓄えも無い暮らし向きでは仕方がないことです」
姉が泣き始めた。顔をふさいだ両手が震え、指の隙間から涙が止めどなく流れている。母上が亡くなった時にも泣くことがなかった姉。源吾は、こんな姉をかつて見たことが無い。落暉の名残が跪いて咽(むせ)び泣く姉を浮かび上がらせ、その姿に声を掛けることも出来ず、ただ号泣するばかりであった。
姉弟の父親は、篠山で郷士の子として生まれ、儒学の素養を積み武術にも抜きん出た力 量を持ち合わせていた。また土地の産物に対する造詣(ぞうけい)も深く、近隣の百姓衆からも慕われる人物であった。享保二年(一七一七年)、篠山藩では藩主松平信庸が亡くなり、嫡男信岑が後を継いでいた。この頃から引き続く凶作に減免を求める強訴もあり、藩では享保八年(一七二三年)、各郷に六論衍義(りくゆえんぎ)を配り忠誠を育ませようと企てていた。
六論衍義は、中国明の初代皇帝洪武帝が発布した父母への孝順、長上の尊敬、郷里への和睦、子孫の教訓、生理に安んじ、非違をするなかれの六論からなる。日本には八代将軍吉宗に献じられ、荻生徂徠が和訳し、室鳩巣が手習本として平易な和文に要約した。幕府は民衆教化の書として普及に努め、諸藩もこれに倣った。
このような折、儒学の素養を認められたのか、父親は士分として取り立てられ、農民教化の一端を担わされた。士官への憧れがあった父親は、この役目に精魂詰めて励んだが、後から考えると体(てい)のいい年貢取り立て役人に仕立てられていた。それというのも藩主信岑の幕府要職への就任の願いより多大の出費が必要であった。藩主に腰巾着の如く取り付く連中からは、凶作にもお構いなく高免の命が下達されて来た。この藩命に従い従順に取り組んでいた父親は、次第に疑問を覚え困窮する百姓の側に立った意見を上申するようになった。当然の如く上役から煙たがられ始めた頃、各郷を巡り歩いていた留守を見越して母親に詰め寄る藩士がいた。
藩の要職となる勘定奉行の次男、山脇久次郎。紙商の大店の娘であった母親は、美麗の持ち主で若い藩士から羨望(せんぼう)の目で見られていた。この輩の中で取り分けしつこく言い寄って来たのが山脇であった。奉行の家を権威として話を進める山脇には、商売の伝手(つて)としての見込みも考えた両親から頻りに婚姻を勧められた。そんな話には嫌気が刺していた母親は、店に訪れる誠実な父親を見初め、周囲の反対を押し切って嫁いだ。
元々、放蕩(ほうとう)の質であった山脇は、口惜しさを秘めて暇を飽かす部屋住みの連中を引き連れ、時につけ遊郭に入り浸っていた。十数年が過ぎ、親の肝いりで勘定方の吟味役になっていた山脇は、妻を娶らず城勤めの合間を見計らっての遊郭通いが続いている。そんな折に町中で買い物に行く母親と偶然出くわした。既に二人の子を儲けていたが、未(いま)だに美麗を失わず、むしろ成熟した女の色香を感じた。仄聞(そくぶん)するところによると、亭主は近い内にお咎めをくらい飛地に左遷されるはずである。そうなると、今の内に思いを遂げてしまわなければならない。母親と短い会話を交わす中で、胸裏をよぎっていた。取り巻き連中とも示し合わせ、父親が大怪我をしたと偽って連れ出し、町外れの古堂に連れ込んで母親を手籠めにしてしまった。悲嘆に暮れた母親が、己の迂闊(うかつ)さに茫然とし篠山川に身を沈めたのである。翌日の朝、川魚漁師から知らせを受けた町奉行所が探索したところ、母親の足取りから山脇達の関与が浮かび上がった。数日後に詮議の場が設けられ、勘定方の要職にあることより目付方も加わった。室内で吟味役と相対する山脇。縁側に座った父親の脇には、山脇を睨み据える二人の子供が控えている。彼の喉元の右にある大豆ほどの大きさの黒子が、その目に焼き付いていた。
子供には父親の大怪我で呼び出しがあったことが聞き取られた。しかし、合意の上の仕儀であるとの山脇の言い分に、町中で親しく話をする二人を見たという申し出が裏付けとなり、主人の不在に託けた藩要職への密通ではないかと判じられた。何分、遺書は無く入水の経緯は不明とされた。父親が、そのような如何(いかが)わしいことをする妻では無いと、怒りをぶちまけるように申し立てをしたが、取り合われることは無かった。山脇への仕置きは世情を騒がした罪で一月の謹慎、父親には飛地となる周山への転籍となった。これには山脇の父親となる勘定奉行の根回しが、功を奏した。
冤罪とも思える妻の遺骨を仕方なしに無縁寺へ納めた父親は、二人の子供を連れて周山に赴き代官所に参じた。ここには既に篠山での噂が飛び交い、白眼視された父親は職を致仕し、懇意にしていた薬師了安の取持ちで八丁山に籠ることにした。
父親には勉学の先達であった了安は、京で薬師の道に進んだ後、請われて周山の薬師となり、今は地井に隠棲していたのだ。父親の実直だが世故(せこ)に疎い人となりを知っていた了安は、人と無縁の暮らしをしたいとの父親の申し出を聞き、八丁山の地を示した。山中には四、五人の住まう平地があったが、父親は更に奥を目指した。斜に僅かばかりの平地を見つけると、周辺を切り開き炭焼窯と粗末ながらも小屋を作った。鬱積(うっせき)した情念を振り払うように働き、二人の子供にも訓育の労を惜しまなかった。このようにして四年の星霜が過ぎ、京都東町奉行所の見分があった翌年から体を崩し始めた。それは漸く降り積もった雪が溶け始め、蕗(ふき)の薹(とう)が芽吹く頃である。春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)と吹く朝、父親は胸を掻き毟(む)される咳き込みに襲われた。雪に閉じ込められ鈍った体に風邪でもひいたのかと軽く考えていた。それから何度かの苦しい咳に見舞われたが、炭焼きを本格的に始める若葉が匂う頃に喀血となって現れた。それでも仕事を欠かさない父親を見て、絹江が里の薬師了安を訪ねた。容体を聞くなり労咳と診立てた了安が、絹江に持たしてくれたのは強壮の効用で知られる朝鮮人参であった。この時代に漸く栽培が始められていたが、高価な品を京の伝手を頼って取り寄せてくれたのである。不治の病に侵された父親は暑い夏を何とか乗り切ったが、次第に痩せが目立ち始めた秋口には寝込むことになってしまった。
姉が曼珠沙華を抜き取り、こちらに向かって振りかざしている。膝切の単衣の懐には、先ほど姉から受け取った懐紙に包んだ十五両と奉公人身請書を入れているが、今はそのことすら気に掛けていない。赤子が母の姿を追い求めるように、列の先頭を歩く姉の姿を目に焼き付けていた。
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