孤狼 第一章

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四、内野茶屋街  内野とは平安京の頃、大内裏があったところである。北野天満宮の南となるこの地は、大閤秀吉が聚楽第を造営した時、武家地として整備された。その後、拠点が伏見城に移ると畑地に戻るが、江戸期に入ると北野天満宮や愛宕山への参詣者を相手として煮売茶屋が開かれ始めた。これがその後、幾度かの取り締まりを経て発展する花街の基となる。やがて茶屋街には茶立女と称する娼婦が置かれ、花街としての様相を帯びるようになった。当時、幕府は公認の花街である島原を擁護するため、他の花街となる清水、祇園、八坂、北野には店に一人と定めたのである。これは表向きのことで幾人もの茶立女を抱える店も現れた。北野には、花街として室町時代からの歴史を残す上七軒があるが、先の西陣焼けで焼失していた。内野の花街においても、一時大きな打撃を被ったが次第に回復し、女を集め始めていたのである。この後、享保の末頃には、正式な茶屋株を免許されている。  女衒に連れられた娘達が、船岡山から南に千本通りを下っている。あちらこちらで騒がしい普請の中に、規則正しい機織りの音も聞こえている。雨が止み、雲の切れ間からは落暉が眩しく辺りを照らしていた。  これが京の都か。通りを気忙しく歩く人、普請場でたむろする人、物売りに販ぐ人・・・・・。絹江は、かつて篠山の町中で見た光景とは較べようも無い人の多さに驚くばかりである。傍を歩く須美の顔にも物珍しさを隠せないが、それが怖さにも繋がっているようだ。 「絹江さん、こんなに人がいやはる。うちらは、これからどないなことになるんやろ」  絹江は答えることが出来ず、ただ辺りを見回すばかりであった。  古着屋や古物屋が多い中立売通りを越え、千本通りから西に入る。家並が櫛比(しっぴ)する通りには、煮物の匂いに加え格子戸から漏れる脂粉の匂いが混じり、異様な雰囲気を醸している。それに、所々から三味線や太鼓の音が聞こえ、人通りに呼び掛ける遣手婆の声が喧(かまびす)しく響いている。絹江は、おおよそ花街の様子を思い描いていた。だが、目の前にはその見当を越えた騒々しさがあり、これが与えられた桎梏かと茫然と眺めていた。  五番町と呼ばれる町並みの端にある集会所に入った。片隅にある長椅子に座らされた娘達の前には、煮売茶屋の亭主が立ち並んでいる。まるで品物を値踏みするかのような眼つきで見られているのが怖いのか、須美が震えながら涙を溢し始めた。 「須美ちゃん、大丈夫よ」 絹江は、思わず須美の肩を抱き寄せた。 「その娘、うちとこに頂けまへんかいな」  前の列にいた亭主が、絹江を見て女衒の頭に声を掛けた。 「かの屋はん、申訳ありまへんが、その娘は先約があって縁故みたいなもんどすわ。身請金も先に頂いてますねん」 絹江は、先約や縁故の意味が分からず、女衒の頭の顔を窺った。その時、集会所の引き戸が開き、男が辺りを見回すようにして入って来た。 「遅うなって、すいまへん」 「ああ丹波屋はん。お越しやしたか」 「お頭はん、約束の娘はどれどっしゃろな」 「その端に座っとる娘どす」 指差された絹江は驚いている。身寄りも縁も無い京に、何の縁故で約束されていたのか。丹波屋と呼ばれた男の顔を睨みつけた。 「丹波屋はんかいな。かなわんお人やな。それなら、こんなとこに連れてこんと、直にお店に行ってもろたら宜しおしたのに」  かの屋の亭主が、ぶつくさと文句を漏らしている。 「丹波屋はんは、まだこの先どすさかい、とりあえずここに入ってしもたんどす」  女衒の頭が弁解がましく話した。 「豪いすいまへんな。それでは先にその娘を連れて行きますさかい」  丹波屋の亭主が、絹江を連れ出した。集会所の中では騒めきが起こっている。それを打ち消すように女衒の頭の声がした。 「皆さま、お静まりを。四人の娘は、入れ札にて引き取り先を決めさしてもらいやす」  五番町の通りの中ほどに丹波屋がある。陽が落ちた通りを、それぞれの店先に置かれた行燈の火が薄明るく照らしている。往来の人波を避けながら、先を歩く丹波屋の亭主が店先に立ち止まった。 「ここどす」  入口には丹波屋と白字で染め出した紺の暖簾が掛かり、四間足らずの間口の大半が格子戸になっている。その合間からは、百目蝋燭に照らされ椅子替わりの樽に座って酒を飲む数人の男が目についた。飯台には煮物や焼き魚が皿に盛られて並んでいる。ふと二階に目をやると、欄干に肘を突いた女が見下ろしていた。 「お入りやすとくりゃす」  促されて絹江は店の中に入ると、直ぐに飲み客の好奇な目に晒された。 「奥に行きまひょか」  店の奥行きは長く、鰻の寝床と称される京の家造りである。玄関脇の店の奥は、調理場になり調理台とおくど(竈)が備わっている。石畳の廊下を更に奥へ進むと、直ぐ右手に階段があり、二間続きの座敷が左手にあった。この奥には手水場や風呂場、使用人部屋が並び、突き当りの庭には井戸が設けられていた。  奥座敷には、この店の女主が待っていた。 「この娘さんが、了安さんの」  了安の名を聞き、絹江は誑(たぶら)かされたのではないかと思った。それは父親の療養にしても、あのような高直な薬を処方され、まるで身代にされたようなものと考えられたからであった。 「今日は、着かはったばかりでおます。まずはお風呂にでも浸かり、体を癒しとくりゃす」  絹江は、今更ながら身売りをしたことを悔いていた。しかしながら、引き返す訳にもいかず、言われるがままに湯に浸かり、夕餉を口にして、二階の奥の間に身を横たえた。源吾は、如何にしているのか。父上の病は、どこまで進んでいるのか。思い悩む疲れた体に、睡魔が這い寄るように迫って来た。  翌朝、目覚めた時には明るさが増していた。枕元に支度されていた肌襦袢と花柄の小袖に腕を通している。何年かぶりの感触に身震いする思いであったが、これが京での惨めな暮らしの始まりかと心内は沈んでいた。  階段を登る微かな足音が聞こえ、女主が顔を見せた。 「絹江はん、お目覚めどすか」 「はい、今先に。それにこんな好い物を揃えて頂き有難うございます」 「そんなもん当たり前どすがな。それよりおつむを何とかせなあきまへんな」  こう言うと女主が部屋の隅にあった鏡台を絹江の前に置いた。小引き出しよりびんつけ油を取り出し、絹江の豊かな髪に着け櫛を器用に使って丸髷を結い上げた。 「これで宜しおすやろ。わてのお古どすけど、櫛をおつむの天辺に刺しときましたさかい。それにしても別嬪さんどすな。これでは男衆はんがほっとかはらしまへんな」  男衆と聞いて、絹江は胸が痛んだ。やはりそうなるのかと。 「丸髷は嫁がはった女子はんが結う髷どすけど、はんなりと若作りに結わしてもらいましたえ。これで動きやすうなりますさかい」 「動きやすくするとは、私は何をいたしますのか」 「先ずはうちらの稼業に慣れてもらわなあきまへんさかい、内々から始めてもらいますえ」「内々とは、どんなことでございますか」 「調理場の手伝い、風呂焚き、掃除、洗濯なんかどすな。それに、わてのかいもんにも付き合ってもらわななりまへんな。ついでにゆうときますけど、京にもはようなれてもらわなあきまへん。私などとお武家はんの娘言葉は、改めてもらわななりまへん」 「どのように言えば」 「うちで宜しおす。それで肝心なことをゆうときますけど、店には決して顔を出さんようにしておくれやす。店のもんにもゆうてきかしてますさかい」 「それは何故に」 「まあ、宜しおす。ほなら早速、下に降りてもらいまひょか」  調理場の片隅で遅めの朝餉を食べている。亭主が若い板場を使い煮物の調理を始めていた。隣の座敷には、卓袱台の器をかたずける年増の女と男の子の身支度をしている女主の姿が見えていた。 「絹江はん、朝餉をはよ済ましてこっちへきとくなはれ」  慌ただしく飯を掻き込んだ絹江は、茶碗と箸を片付け座敷に座った。 「こちらはんを引き合わせときますけど、通いで来てもろてますお松はんどす」  お松が、軽く頭を下げた。 「これからは、お松はんに教えてもらいなはれ。それと昼餉を二階に居たはる桐野はんに届けといとくりゃす。わては直ぐにこの子を連れて出掛けななりまへんさかい」  いそいそと女主が男の子を急かして出て行った。 「あんなに急いで、どこに行かれますのか」 「ああ、北野の天神さんどすわ。息子はんの学業の向上を祈願されたはりますのや。今は、お寺なんぞで学んでいやはりますが、その内に石田はんとこに入れてもらおうと考えたはるさかい」 「石田さんですか」 「わてらにはよう分かりまへんが、商いの心を教えたはるそうどす」   石田梅岩。丹波国桑田郡東懸村(亀岡市)の農家の次男に生まれ、二十歳を過ぎて京の呉服商の奉公人になる。内面的な苦悩を経験し、問題の諸思想を独学。小栗了雲と出会い自己と万物の一体性について開悟(かいご)を得て、享保十四年(一七二九年)車屋町御池上がるの町家で講席を開いた。士農工商という身分社会の中で「商人の売買するは天下の相なり」と述べ、その職分が何ら見劣りするもので無いとした。その一方で「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」とも述べ、商人の社会的な責任を重んじた。   「あんまり無駄話をしとると、女主はんに叱られますさかい、座敷や風呂場、手水場の掃除をはよ済ませまひょか」  絹江はお松に従い、奥深い家作りの各所を手際よく掃除している。その姿は、お松の目には奇特な行いと映っていた。 「よう動かはるさかい、随分はよに終わりましたな。ちょっと一服しまひょか」  お松が、奥庭の井戸から釣瓶で汲み上げた水を湯呑に入れた。 「女主はんに聞いとりますけど、絹江はんは丹波の山奥からきやはったんどすか」 「そうです。八丁山と言って山深い辺鄙なとこです」 「それで身売りどすかいな」 「父上の薬代に」  絹江は言葉途中で俯いた。 「すいまへんな。嫌なことを思い出させてしもうて。そやけど女主はんが、店に出したらあかんとゆうたはるんで、その内にきっとええことがおますさかい」  絹江は、慰みとも思える言葉に小さく頷いている。 「わてらとちごおて、豪い美しいお方どすけど、言葉遣いは直さなあきまへんな」 「はい、女主さんにも言われています」 「そうどっしゃろ。まずさっきの、父上はてておやどすな。お礼は、おおきに。謝るときは、かんにんとかすんまへん。後は、どすとかさかいを、上手いこと繋げたら宜しおすのや」 「そうどすな」 「そやそや、そんな具合にゆいなはれ」  お松が笑った。絹江は少しばかり心が和む気がした。  昼前、二階から桐野が手水を使いに降りて来た。大きな欠伸をし、お松と絹江を一瞥(いちべつ)しただけで二階へ上がって行った。 「絹江はん、昼餉を二階へ持って上がっとくなはれ。あれの愚痴を聞くのも精進やと思わなあきまへんな。あれでもこの店の稼ぎ頭どすさかい、怒らさんように頼みます」  若い板場から頼まれた。  支度された一汁一菜とご飯が乗せられたお盆を掲げ、絹江は二階へと上がった。二階は奥に二間とおくど(竈)の上が吹き抜けになる板の間を挟み表には十畳の部屋がある。その襖の前で部屋内へ声を掛けた。 「昼餉をお持ちしました」 「中に入っとくなはれ」  桐野の声で襖(ふすま)を開ける。臙脂(えんじ)色の壁に取り巻かれ、壁際に敷かれた布団の衾(ふすま)が紊乱(びんらん)と打ち捨ててある。半身で窓際に座る桐野が艶然(えんぜん)と微笑んでいた。 「お前はんは、ゆうべ連れて来られた子やな」  絹江は、跪(ひざまず)いたままで茫然と見ている。 「こんなとこに来るんは初めてどっしゃろ。直ぐに慣れますさかい、はよ持って来なはれ」  促されておずおずと部屋内に入り、桐野の前にお盆を置いた。絹江は布団の方に目を遣った。 「ゆうべの二人目の客がしつこうてな、そのまんまでほったらかしや。後で片付けるさかい気にせんときやす」  身売りとはこのようなことかと、絹江はむしろ冷めた目で見ていた。 「お前はん、綺麗なお顔をしたはるな。ここの亭主の目はたかおます」 「いえ、私などの田舎者には桐野さんの足元にも及びません」  絹江は桐野を見た時から、女子としての妖艶(ようえん)さ、質の良さに、これは敵うものでは無いと思っていた。 「お上手なことをゆわはる。うちは西陣の機織屋の娘。火事で焼け出され、こないなとこに来てしもうた。お前はんは、お武家はんの娘やな。言葉遣いで分かりますさかい。これなら、うちは直ぐにでもお払い箱になりますやろ」 「いえ、私は内々のことをやるように言われてまして、店に顔を出すことを止められております」 「なんやて、ほな掃除や片付けかいな」 「はい」 「そら勿体無いことしやはるな。お前はんどしたら直ぐにでも売れっ子にならはるはずどすけどな」  桐野が煮物に箸を付けた。 「そや、分かりましたえ。お前はんは、うちみたいにけちなお店者の相手やのうて、大店の主をあてにしとるんや。ここの亭主の考えそうなことや」  飯を食べ、汁を飲んだ。 「まあええは。お前はんがどうなろうとうちの知ったことや無い。仲ようやりまひょやないか。分からんことがあったら、遠慮のう聞いとくれやす」  この時、外の通りから叫ぶ声が聞こえた。 「あの小娘が、身投げしよった。番所に知らしとけ」  桐野が通りを覗いた。 「かの屋はん。どうしやはりました」  斜め向かいの店先で、下人に口汚くわめいていた男が答えた。  「ゆうべ高い金払ろうて身請けした須美とゆう女子が、井戸に身を投げよりましたんや」  慌てていたのか、女子の名前まで口にした亭主が口元を手でふさいだ。 「ようあることどす。しかたおまへんな」  須美と言う名前を聞いて、絹江は心を締め付けられた。昨日まで、丹波の山中から一緒に歩いて来た娘がいきなり死ぬとは。小袖の裾をぎゅっと握り絞めていた。 「お前はんな、一年もここにいたら何遍も聞くことや。何があったか分かりまへんが、あんまり気にしとったらあきまへんえ」  絹江は泣いていた。あのあどけない顔を思い出すにつけ涙が止まらなかった。これが花街の宿命なのかと。
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