孤狼 第一章

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五、孤狼の叫び  源吾は三日三晩、父親の枕元で泣き過ごした。涙も枯れ喉元もひりひりと痛む。目の前には、口から血を流した父親の遺骸が横たわっている。その血の色も褐色を帯びていた。水を求めて小屋の外に出る。谷水を口に含むと、喉の痛みを消し去るように胃の腑へと落ち込んでいた。  斜の岩陰に動くものが見えた。 「黒か」  呼び掛けると、唸り声を上げている。 「お前も来てくれていたか。もう心配はいらんぞ」  再び、唸り声が聞こえた。 「ああ、これから如何にするか。とうとう一人になってしもうた」  溜息とも思える声を上げた時、下手に人影が見えた。 「黒、山に戻れ。下から人が来たようや」  黒の姿が消え去った。 「源吾、この二、三日顔を見なんだが、どうかしたか」  下手の集落の山人が、親し気な顔で現れた。 「ああ喜助さんか。実は、親父(おやじ)が亡くなってしもうた」 「悪いと聞いていたが、やっぱり駄目やったか」  喜助が小屋の間口で手を合わせた。 「それでどうするんじゃ」 「どうするとは何だ」 「遺骸のことじゃ」 「ああ、そうだ。そこまで頭が回らんかった」 「仕方ない奴じゃ。下の者に頼んで荼毘(だび)に付すか」 「そうしてもらえれば助かります」 「山人の礼儀じゃ。気にするな」  翌日、小屋の前には枯れ木が重ねられた上に、父親の遺骸が寝かされた。 「火付けは、源吾がやるか」  山人の一人が持って来た熾火(おきび)が喜助から、源吾に手渡された。下の枯草に火を入れると、直ぐに火勢が増した。暫くすると父親の遺骸が火と煙に包まれ、それに向かって山人が皆で手を合わせている。 「わしたちは、これで下に戻る。お骨になるまで半日は掛かるじゃろ。飛び火にだけは気を付けろ」 「分かっておる。もしそうなっても、これで消してやる」  源吾は、懐より小石を取り出した。 「ああ、そうであったな。どれ、戻るとするか」  一人ずつ頭を下げて戻って行く。その山人に向け、源吾は深くお辞儀をしていた。  源吾は一晩、荼毘の傍で干し肉を噛み砕きながら、うつらうつらして過ごしている。これからを如何にするか、何を為すべきか。姉がおれば直ぐにでも答えが出そうなことだが、今は居ない。忘れていた奉公人身請書を小屋内へ探しに走った。 「奉公人身請書。身上不如意に付き。年季五年。身請金十五両。奉公人八丁山絹江。丹波屋」 残り火に翳(かざ)し、奉公人身請書を見るとこんな文字が浮かんだ。 「姉上とは五年の歳月の間、会うことが叶わないのか」  身請奉公の意味も分からない源吾は、迷妄(めいもう)していた。  朝日が山巓を照らし始めている。荼毘が燻るだけとなり、源吾を包んだ初冬の冷気が木の葉に露を煌(きらめ)かせていた。 「父上」   燃え殻の中に、崩れ落ちた父親の遺骨に向かって源吾は叫んだ。 「怨念至願」  この時忽然(こつぜん)と、山巓から轟いた狼の凄まじい遠吠えが、澎湃(ほうはい)と山々に木霊(こだま)していた。
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