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六、笠松屋騒動
絹江は花街の殷賑(いんしん)に目を逸らすように、丹波屋の内々の仕事に励んでいる。お松の話によると、かの屋の一件は若造が須美に悪さを仕掛けたようだが、取り調べの裁許では鞭敲(むちたた)きだけで済まされたようだ。花街の定めで奉行所も厳しい仕置きを出来ないのか、それともかの屋が裏から手を回したのか、何事も無かったかのように店に出て働いている。須美の遺骸は夜の内に運び出され、紙屋川沿いの無縁寺に預けられたようだ。そして、丹波から共に来た娘達が客を取らされていると言う。こんな話を聞かされ、絹江は鬱々(うつうつ)とした日々を過ごしていた。そのような中にも、師走に女主の伴をして出掛けた千本釈迦堂の大根炊き、終(しま)い天神と呼ばれる北野天満宮の参詣では、出店の賑わいが心を癒(いや)していた。何れは、他の娘達と同じに客を取らされる身と心を戒めていたが、何かちぐはぐな気持ちも抱いていた。
それは、終い天神で北野天満宮に参詣した帰り道のことで、女主から息子の学業の手助けをして欲しいと頼まれた。父親譲りの儒学の素養を持つ絹江にとって、四書五経を読み通せる蘊蓄(うんちく)があった。年が改まり年賀の行事が終わる頃より、女主が整えた論語や孔子の素読が始まっていた。昼餉の片付けが済んだ暇時に、卓袱台を挟んで息子と絹江が向かい合っていた。
こんな折、女主に呼びつけられた。
「二十五日のお初天神さんに、一緒にきとくりゃすか」
「はい、おおきに。お伴させてもらいます」
たどたどしい京言葉に女主は笑っている。
北野天満宮は、菅原道真を祀る全国の天神社の総本社である。道真を讒訴(ざんそ)により大宰府へ左遷した藤原時平に変わり、宮廷の実権を握った藤原忠平によって創建された神社である。それは道真の怨念とも考えられる時平の非業な死が、忠平には道真を神として祀ることで守護されると考えたからに他ならない。道真の生誕の日(六月二十五日)、薨去(こうきょ)の日(二月二十五日)に因んで、毎月の二十五日を天神さんの日として参詣する慣わしになっている。秀でたる学識で右大臣にまで登った道真。その参詣の主たる趣(おもむき)は、道真を慕った学業成就である。
その日の前日、女主から真新しい振袖と帯が差し出された。
「絹江はん、明日はこれを着なはれ。それに紅でも差しとかはった方がようおすえ。鏡台の小引き出しに入っておますさかい」
絹江は振袖と帯を手に取ると、かつて篠山でも余り見かけなかった品物に、女主の顔を窺った。
「これは西陣の上物どすさかい」
振袖には梅の模様が織り込まれ、淡い青地に艶やかな色彩を帯びている。帯は金糸が縫い込まれており、赤地に旭日を思わせる仕上がりであった。篠山ならば、上士のしかも藩の重鎮にある者の息女が纏(まと)う品物と思えた。
「女主はん。こんな着物をうちが」
目の前の振袖と女主の顔を見比べ、絹江は唖然としていた。
「そうどす、それに今日は風呂に入り身綺麗にしときなはれ」
何故、このようなことになるのか、女主に問うても、ただ笑っているだけで事情を話してはもらえなかった。
「明日になれば分かることどす」
睦月の二十五日、京独特の気象である底冷がする朝であった。それも東山の山嶺に陽が登り旭光が射し込むと、徐に気温も上がり出した。
「絹江はん。着付けが済んでおましたら降りてきなはれ」
階下から女主の声が聞こえた。絹江は高価な振袖を損ねまいと恐る恐る階段を降った。
「ひゃー」
朝早くから店に来ていたお松が素っ頓狂な声を上げた。
「女主はん、ど豪い綺麗な娘はんにならはりましたえ」
女主も満足げに絹江を見た。
「ほんならぼちぼち出掛けまひょか。お前はんも支度は宜しおますな」
女主が亭主に声を掛けた。
丹波屋の亭主が先に立ち、女主に手を引かれた息子と絹江が後に続いている。七本松通りを北に進むと人通りが多くなり、道行く人が足を止めて絹江に見惚れている。
「豪い別嬪の娘はんやな。どこの娘はんや」
「前に歩いとるんは丹波屋やないか」
「そや、丹波屋や。そやけどあそこに娘はおったかいな」
「そんなことはどうでもええ。あの娘を見とると吉野大夫を思い出すわ」
「思い出すゆうて、お前はんは見たことあるんかいな」
「それもどうでもええこっちゃ。それほどぴか一な娘はんとゆうこっちゃ」
吉野大夫は花街が島原へ移転される前の六条柳町にあった頃の遊女であった。元和五年(一六一九年)十四歳で大夫となり、その聡明さに美しさを兼ね備え、歌道・茶道・香道から琴・琵琶・笙に至るまでの名手であった。吉野伝では、才智深く心情篤く、容顔艶麗にして花を欺き、一度口を開けば心融けざる者なく、一度見(まみ)えて迷はざるなしと、伝えられている。その名声は遠く中国にまで伝わったと言われ、井原西鶴の好色一代男のなかで「なき跡まで名を残し、前代未聞遊女なり」と称えられている。
七本松通りを北に進み一条通りを越えると今出川通りになる。この通りを左(西)に曲がると、直ぐ西方寺界隈に真盛(しんせい)町がある。ここから一丁ほど先が北野天満宮になり宮前の御前通りの南北にあるのが鳥居前町と社家長屋(しゃけながや)町である。この三町が上七軒の花街となり、文安元年(一四四四年)北野天満宮の社殿が焼失した後に足利義政が再建した折、残木を使って七軒の茶屋を建てたのが濫觴(らんしょう)となる。天正十五年(一五八七年)、太閤秀吉が大茶会の折に休息し、御手洗団子に賞誉をされ渡世となす免許を得る。この特権が江戸時代に至り茶屋株の免許に繋がった。
道の左右で行われている焼失した町家の普請を見ながら、今出川通りを西へと歩いている。北野天満宮の鳥居が現れ、多くの参詣者に加わり境内へと入った。本殿へと続く石畳の参道の脇には様々な屋台が並び、人通りに呼び掛ける声が喧しく響いている。そんな中を本殿へと進むと、絹江を見て呼び掛ける声を止める者、振り返って見惚れる者、その美麗は辺りの人々を止めていた。本殿で参拝を済ませる。
「絹江はん、何をお願いしやはりました」
女主が尋ねた。
「それは息子はんの学業成就どす」
「そうどすな。わては厚かましおすけど、それに加えて絹江はんのこともお願いしときましたえ」
「うちのことでおますか」
「そうどす、ほんなら茶店にでも寄って一服しまひょか」
参道脇の出店の裏側に回ると、松の木が点在する中に板屋根の出店が二軒あり、それぞれが店先で赤い毛氈(もうせん)を敷いた床几台を置いている。その床几台に腰かけて、団子を盛った皿を脇に置きながら茶を飲む二人の男が見えた。近づくと和服の上に同じ羽織を着て、重みを感じる年配者と若者であった。
「笠松屋はん、えらいお待たせしたようで、すんまへん」
丹波屋の亭主が年配者に詫びを言った。
「そんなことおまへん。わてらも今先に来たとこどすさかい。それでそちらのお方はんが了安はんの取持ちを頂いた娘はんどすか」
絹江は、軽く会釈をしたが、了安の名に不審を感じていた。
「参道を歩いたはるのをここから見させていただきましたが、ゆわずと知れたお綺麗な娘はんどすな。遅れましたが、わては中立売りの黒門で古着を商っとります笠松屋善兵衛とゆうもんどす。ここに居るのは嫡男の嘉兵衛どす。どうぞお見知りおきを」
嘉兵衛が面映(おもは)ゆい素振りで頭を下げた。
「どうもこいつ根は真面目なんどすが、初心な男どす」
「うちは絹江と申します。どうぞ宜しゅうにお頼みいたします」
顔を上げた嘉兵衛の頬が、薄っすらと朱に染まっていた。
「こりゃすっかり絹江はんの美しさにいかれとりますな。まあ、こちらにお座りやすとくりゃす」
床几台の向かい合わせに座り、追加で団子を注文すると善兵衛が話し始めた。
「わてのてておやは丹波篠山で農家の次男として生まれ、口減らしで京に出て参りましたんどす。古着屋に奉公したんどすが、苛めにおうて辞めおりました。そやけど、後は一念発起し棒手振から始めて一軒の店を持寄りましたんや。そこに嫁をもろて、二人で一生懸命に大きゅうしよりましたんが、今の店どす。わては二代目になりよります」
絹江は篠山と聞いて、ふっと同郷の好(よしみ)を感じた。
「実をゆうと、てておやが亡くなる三年ほど前どした。二人で篠山の実家へ参った折に、お城下で田城源右衛門はんにお会いしておりますねん。篠山の産物やら作柄などのご教示を賜っており、その蘊蓄と百姓衆への慈愛にすっかり惚れ込んでおりましたんや。そんな時、小さい弟の手を引いた絹江はんを見たんどす。可愛くてしっかりもんのお姿に、これは息子の嫁にと思いました。そやけどお武家はんと商いもんの身分の違いを思うと、やはり諦めねば仕様がありまへんどした」
絹江の横には丹波屋の息子が座り、興味深げに聞き入っている。絹江は子供の頃の記憶を弄(まさぐ)っているが、何も思い出せずにいた。
「ご存じやと思いますが京で薬師をしたはりました了安はんどすが、篠山のご出身やと聞いて田城はんのことも話しておりましたんや。了安はんが地井の里に隠棲されるようになり、数年前には田城はんが八丁山に籠られたとゆうことや、昨年の初夏の頃から田城はんが不治の病に掛かられたことも、書簡で知らせをもろおておりました。そこで丹波屋はんとおうて、絹江はんを何とか京に来てもらうことができひんかと話をしましたんや」
参道の人の列はなおも続いている。そこから離れた茶屋の横の広場では数人の子供を遊ばす母親が、こちらを眺めていた。女主が息子の手を引いて連れて行った。
丹波屋が口を開いた。
「わては無い知恵を絞りましたんどす。田城はんは薬代に苦労したはるやろけど、金子を送っただけでは来てくれはらへんと思いましたんや。そこで悪いとは知りながら女衒の頭に頼んだんどす。昨年は凶作で人集めには好い頃合いやと聞いたからどす」
薬代のことは致し方が無いと、絹江は思っていた。しかし、労咳の父親を置き去りにして出て来なければならなかったことの蟠(わだかま)りが解けないでいる。
「そうどすか。でもうちは父上、いやてておやのことが心配でたまりまへんのどす」
笠松屋が頭を下げている。
「今になって絹江はんのことを考えると、大変申し訳ないことをしてしもうたと思っとります。ただ田城はんが病で倒れはった頃に、了安はんがお話しに伺い、後のことを納得頂いたと知らせをもろおておりましたさかい。それは、お姉弟のお留守の間どすけど」
「そうどしたらてておやが、どのようなことになっているのか分からしまへんか」
急に笠松屋の顔が、苦渋な様相に変わった。
「申し辛いんどすが、年末の知らせで田城はんは、お亡くなりにならはったそうどす」
絹江は半ば諦めてはいたが、現実に父親が亡くなったことを聞くと、泣き叫びたい思いに駆られていた。それを必死に堪えながら笠松屋の顔を見た。
「それで弟の源吾がどうしたかは、知らせにおませんどしたか」
「はい、源吾はんは行方が分からず探して居るとのことどした」
「それは何処かへ行ってしもうたとゆうことどすか」
「いや、小屋内はそのままにしてあるそうどす」
絹江は不安な気持で心を締め付けられていた。堪えていた涙がじっと滲んでくるのが分かるようになり、顔を隠すように俯いている。
嘉兵衛が思わず声を掛けて来た。
「絹江はん、なんぼわてのためやとゆうても、うちの親父がどんなことをしよりまして申訳おまへん」
篤実そうな言葉に絹江は顔を上げた。
「おおきに、うちはてておやのことは半ば諦めておりましたんどす。ただ、源吾のことが」
「わても出来る限りのことをやらせてもらいます。何なら人を遣って沙汰を尋ねさせますさかい」
「お父はん、ぜひそうしておくれやす」
絹江は笠松屋親子の話で、漸く頬を緩めた。
「お父はん、絹江はんがやっと笑うてくれましたえ」
「絹江はん、この笠松屋はんは大店どす。実は、身請金やこの振袖もみんな出してもろおてますのや。わても篠山の出どすが、笠松屋はんに見習うて、今みたいな下種(げす)な商いをはよ止め、ちゃんとした料理屋にしたいと思とりますのや。そのためには息子にも気張ってもろて、しっかりと商いの道を進ませたいもんどす」
こう言うと丹波屋が、息子の姿を見ていた。
「丹波屋はん、そんなことゆわはると、こそぼおなりますがな。絹江はんが丹波屋はんに来てもろおてからの仕事振りや息子はんへの訓育を聞かせてもらい、わての思っておった通り、いやそれ以上のお人どす。こいつにしてみれば身に過ぎたことなんどすが、何とかお付き合いだけでもお願い出来まへんやろか」
笠松屋の言葉に、絹江は頷いた。
京は広い様で地域では案外狭い町である。他所から移り住んだ人々で町が作られ、郷里を同じくする人が紐帯(ちゅうたい)を強めていた。逆には、三代続かなければ京の人として認められない因習を、作り上げているのかも知れない。
その日の夕刻から丹波屋の前には人だかりが出来ていた。
「ここの娘はんかいな、吉野大夫の生まれ変わりとゆうんは」
「そや、今日通りで見かけよった奴がゆうとった。そりゃ、小野小町かて尻込みするほどの女子はんやとゆうこっちゃ」
段々と話に尾ひれが付いて来ているようである。
「ところでお前はんは、いくら持って来とるんや」
「こんな煮物屋やさかい、百文(現在では二千円程)もありゃ酒が飲めてお顔も拝めるやろと思うとる」
「お前はんは、あほな奴やの。昔の吉野大夫ゆうたら、鷹峯辺りの坊さんが百銭持って、間口で顔だけ見せてもろたとゆうんやで」
「顔見ただけで百銭かいな。ほな高おすけど、取敢えずは百文払うて顔だけでも見せてもらおか」
「お前はん、益々抜けとるんと違うか。その時の百銭ゆうたら永楽銭や。今の五倍から十倍の値打ちやで」
吉野大夫には様々な逸話が残っている。
ある日店先に汚い坊主が現れ吉野大夫に会いたいと申し入れたが断られた。余りにしつこいので吉野に伝えると店先に姿を現し、私が吉野どすと、どうぞ奥へと誘った。ところが坊主は、よくぞ見せてくれたこれで本望と言い、見せ料として百銭を払った。さすがに店の亭主は金を受け取ることはしなかったが、坊主の後をつけさすと鷹峯常照寺住職日乾上人という高僧であった。日乾は吉野の噂を聞き、信徒の一人から銭を借りて来たのであった。その後、吉野は日乾に深く帰依し、吉野の墓も常照寺にある。
「お松はん、こんな騒ぎになるやなんて思いもせんかった。何とかなりまへんやろか」
「わてが出てゆうてきますわ」
勢い込んで、お松が店先に出た。
「皆さん、何のおつもりか知りまへんが、ここには見世物を置いとりまへん。おとなしゅうにお酒を飲まはるんどしたら、お店に入いとくなはれ。そうでなっかたら去(い)んでもらいまへんか」
「お婆はん、何をゆうとりまんねん。折角来たんやさかい、ちょっとでええからお顔を拝ませてもらえまへんかいな」
到底埒(らち)が明かない様子を見て、丹波屋の亭主も出て来た。
「申訳ありまへんが、あの娘はんはもう行先が決まっとります。そやさかいお店に出すことにはなりまへん」
集まっていた者の中で騒めきが起こった。
「なんじゃいな、もう人の手に渡るんかいな。あほくさ、もう帰ろか」
二階の欄干からは、様子を見ていた桐野が大きな欠伸を付いて溜息を漏らしていた。
これから数日の間、人がやって来たがその内に鎮まるようになった。この頃から、嘉兵衛と連れ立って通りを歩く絹江の姿が見られた。
祇園八坂神社下の待合茶屋。先ほどまで艶事に耽っていた男女が布団の上で腹這いになっている。男は吸い終えた煙管を、煙草盆の灰吹きに叩き付けた。
「おまはんの継子が、近頃豪い綺麗な女子を連れ歩いとるようやが、籍を入れよるんか。そないなことになったら、全てわやになるがな」
「あいつは前々から蒲柳(ほりゅう)の質(たち)どして、その内に死ぬんやと思とったらあんじょう長生きしよりまして」
「そやから、はよせなあかんとゆうて来たやろ。ここまで小遣い銭だけで我慢しとったが、もう堪忍袋の緒が切れとるがな」
「わてもとうとう辛抱出来んようになった。このままではわての生んだ子が、ほっぽり出されてしまいよる。そんで、こんな秘め事もそろそろ終わりにせなあきまへんさかいな」
「それならやるか。長い間待っとったことやさかい段取りは整っとる」
女は笠松屋の後妻で多紀。先妻が子を産んで亡くなった後、上七軒の花街を訪れた笠松屋に言い寄り身請けされて息子の勘助を連れ後妻に収まった。男は女の情夫で信太郎と言い、元から笠松屋の身代に狙いを付けて多紀を送り込んだのだ。先ずは笠松屋善兵衛を消す。後は嘉兵衛を如何するかで、消してしまうと嫌疑が掛かる恐れもあり、今となれば連れの女子にちょかいを出せば逃げ出してくれると踏んでいた。笠松屋近くの薬師、それに見回り同心や下っ引きには金子を贖(あがな)ってある。後はやるだけで、身代もろとも数千両の銭が転がり込むはずである。
梅の花が見頃になっていた。
午後の暇時に、嘉兵衛と絹江が連れ添って北野天満宮へ参詣に訪れていた。参詣の後、板屋根の茶屋に立ち寄っている。
「ここで、初めて嘉兵衛はんにお会いしましたんどすな」
「そうどす。あの時、わては気が張り詰めておりまして、どうしたら絹江はんのお気持ちが緩むんかと思っておりましたんどす」
「そうどすか。うちはてておやと源吾のことばっかり気にしてましたんや。それにしても、笠松屋はんにはようしてもろて、有り難く思っておりますさかい」
「そうそう、源吾はんのことどすけど、八丁山に居たはることは分かりましたが,なにやら山を抖擻(とそう)されとるようで」
あの後、笠松屋が八丁山に人を遣り、雪深い山道に関わらず分け入り源吾を訪ねさせていた。しかし、会うことは叶わず山人に尋ねたところ、山中で行をしているとのことであった。
「あの子は、狼をも友にするような気性を持っておるんどす。今はてておやを亡くしたことで、気を紛らわしておるんやないかと思います」
「そうどすな。落ち着かはったら京にお呼びして、一緒に暮らせるように親父(おやじ)にも話しますさかい」
「そうして頂ければ助かります。何から何までお気をつかわせすいまへんな」
「いえいえ、たったお二人のお姉弟でおますさかい」
こう言うと、嘉兵衛に少し翳(かげ)りが見えた。
「どうかしやはりましたか」
「いえ何でもおまへん。ただわてにも義弟がおまして、少々放蕩の質があって、ちょっと気になっただけどす」
縁日を外した北野天満宮の境内は閑散としていた。夕暮れ時が近づいた松林には人影も絶えている。その時、松林の陰から二人の男が現れ、見るからにやくざな風体を見せて近づいて来た。
「お姉はんかいね、吉野大夫の成変わりとゆうんは」
一人が下種な言葉を吐いた。
「そんなこと誰がゆうたはるんか、うちは知りまへん」
絹江は、気丈に答えた。
「お前はん、ちょっと顔をかしてもらおか」
もう一人の男が、嘉兵衛の腕を掴んだ。
「何をしやはりますんや」
「何もせえへん、ちょっと来てもろおたらええんや」
絹江は、絹を裂くような悲鳴を上げた。
驚いた二人の男が、逃げるように走り去って行った。
「どうもおへんか」
「大丈夫どす。それにしても、変な男に絡まれて嫌な思いをさせましたな。ほなこの間にはよ去にまひょか。わてのおやじが数日前から嘔吐や下痢をしてますさかい」
「それは大事おまへんか」
「何か食い合わせが悪かったんか、それとも悪い流行り病なんかようわかりまへん。ともかく商いは番頭にまかせて、養生することどす」
「すいまへんな、そんなことも知らず出て来てしもうて」
桜が散り、京に燕がぼちぼちと飛び交う季節になっていた。
一進一退していた笠松屋善兵衛の容態が急変し、息を引き取ってしまった。
「おまはん、上手いことやりおったな」
「そうどすやろ、始めはわてが味噌汁に混ぜて飲ましてやりましたんやが、後はあの薬師の処方した薬どした」
「石見銀山か」
「そうどす。ちょとづつ飲ましましたさかい、あれなら誰も分かりまへんやろ」
「そやの、万が一おかしいと思う奴がおっても、薬師が誤魔化すはずや」
石見銀山。石見国笹ケ谷鉱山で銅の鉱石と共に採掘された砒石で、焼成して砕いたものが亜ヒ酸を主成分とした殺鼠剤に使われた。石見銀山鼠捕り或いは単に石見銀山と呼ばれ、広く使われていた。大量に飲むと激痛、嘔吐、出血などで直ちに死ぬことになるが、少量ずつ飲むと原因が分からないままで死に至ることになる。
「後は嘉兵衛の始末や」
「こっからは、お前はんの出番どす」
「あいつには、わいの手下が二、三度匕首(あいくち)を見せとるさかい、それなりに分かっとるはずや」
善兵衛の葬儀を古着の大店で執り行った間無しに、使い慣れた祇園八坂神社下の待合茶屋で信太郎と多紀が密かに話していた。その葬儀には、信太郎が多紀の兄と偽って参列し、その後はおおっぴらに笠松屋へ出入りしていた。
「若旦那、わては土佐から奉公に上がり、先代の旦那には丁稚の頃より面倒を見てもらい番頭にまでさせてもらいました。この御恩は決して忘れることはおまへん」
笠松屋の二階、中立売り通りに面した嘉兵衛の居間で、番頭の佐平が嘉兵衛と相対していた。
「番頭はん、どうしましたんや。そんな昔の話を持ち出さはりまして」
「若旦那の真面目なご気性では、今の笠松屋の有り様がお分かりになれまへんと思いますのや」
「それは、どうゆうことどす」
「それは、あのお女主はんと兄さんとゆうお人のことどす」
「お義母はんがどないかされましたか。わてに、このお店を任すとゆうたはりますけど」
「そのことどすけど、旦那はんが亡くならはる前に、わてにゆわはりました」
どうもあれの様子がおかしおすのや。始めは可哀想でおとなしい女子や思うて、連れ子と一緒に入れたんやが、実家の困窮やとゆうてちょくちょく銭を持ち出しよった。それは目を瞑っておったんやが、昨年当たりからどうもおかしなってきよって、ここの身代をあれの子の勘助にとゆいだし始めよった。それで嘉兵衛にはよ嫁を貰い家督を譲ろうと思ったんや。それが気に食わんのか、わてに何か悪さを仕掛けとるような気がしてならん。この病は、何かの食中(しょくあた)りと思とったが、どうも嫌なことが起こるかも知れへん。もしわてが逝くようなことになったら、嘉兵衛を守ってやっとくなはれ。絹江はんは、わてが見込んだ女子はんや、この笠松屋がおかしゅうなっても、きっと立て直してくれはるはずどす。
「わては旦那はんが亡くならはって、十手持ちの親分はんや見回りの同心はんにも話を持ち掛けましたんや。当座は相手にもされまへんどしたが、ともかく薬師を取り調べることになりました。ところが疑わしいことは無いと申され、お取り上げはなされませんどした。そこで、次には若旦那が危ないと思おて、旦那はんにお許しを頂いておりました千両の為替をわての郷里である土佐高知へ送る支度を整えましたんや。先代の旦那はんのお生まれになりました篠山も勘考致しましたが、何分京より近こうおますさかい、追われはる恐れもあり土佐にしましたんどす。後は室町の両替屋へお答えを返すだけどす。それに旦那はんの供養と申して若旦那と絹江はんの四国遍路の往来手形を町代はんに頼んどります」
「そうどしたか。わてもこの頃、やくざみたいな男に絡まれることがおまして、絹江はんにも怖い思いをさせとります」
「そうどすか。それなら猶更(なおさら)、何時でも逃げ出せる支度だけは整えといておくれやす。今では、お上にも頼れまへんさかい」
「絹江はんにも、ようゆうときます」
「わてらは皆、若旦那のお見方どす。ただ、ご身代のことはお身内の内談どすさかい、使用人にはゆえんことどす。よう見極めて、断じて下され」
数日経った夜のことであった。笠松屋は既に店を閉め使用人も寝静まった頃、一階の座敷で信太郎を中にして多紀と勘助が酒を酌み交わしている。
「そろそろええ頃やろ。嘉兵衛の始末をつけよやないか」
信太郎の濁った声で囁くように話し掛けている。
「そや、このままではあいつが居座り続けよりますさかいな」
勘助が答えていた。
「おまはんはどうや」
「わても構いまへんで。上手いことやっとくなはれ」
多紀も唆(そそのか)していた。
座敷の襖の外では手水を済ませた嘉兵衛が、耳を欹(そばだ)てていた。
「やっぱり番頭はんの話は嘘や無かった」
心の中で呟き、滲み出る額の冷や汗を拭っていた。音を潜めてこの場を去り、二階の居間に戻った。
「おい、あいつ聞いたやろな。へへへっ」
座敷では、信太郎が陰湿な薄ら笑いをしていた。
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