孤狼 第一章

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七、源吾難行  父親を荼毘に付した後、源吾は了安の元を訪っていた。 「先日、父上が亡くなり荼毘に付しました。ここまで色々とお世話になり、父上に代わってお礼を申し上げます」 「そうどしたか。わしも直に手当が出来なかったことを悔やんでおるのや」 「いえ、お御足を悪くなされて、叶うことではございません」 「それで、これからは如何するおつもりか」 「今しばらくは、父上の冥福をこの地で祈りたいと思っております。何れは遺骨の一つなりを、篠山の母上の元へ持ち行くことも思案しております」  源吾は、この後の話をしなかった。篠山には父親の怨念となる山脇久二郎が居る。武士である以上、それなりに剣を使うはずであり、父親より教えを受けた居合の技を、まだまだ磨かなければならなかった。 「ならば、これは父上、いや田城源右衛門への香典じゃ。源吾はんは、まだまだお若い。これからは何かと入用があるはずで、わしの心ばかりの金子と思ってくれまいか」 了安が、手文庫の引き出しより二両を取り出して畳の上に押し出した。 「これほどの金子は頂けません」 「何を言う。田城殿は、わしにとっては可愛い後進であった。それに、その内には姉上にも会見(あいまみ)えることになるであろう。その時には、何かと支度がいるはずじゃ」  姉のことを持ち出され、源吾は頷いた。 「それでは、有り難くお受けいたします」 「これからも、何かことがあれば来るがよい。わしも元気なうちじゃからの」  源吾は山に戻り、山嶺を駆け巡っている。足腰を鍛えるためである。居合の生命は鞘の内にあると教わった。即ち、抜かずして相手を制すること。抜けば一閃で切り倒すこと。これが意味することである。そのためには動きの敏捷さ、足腰の頑丈さ、刃を抜き打つ速さと正確さが求められる。  やがて山には雪が降る。藁沓に樏(かんじき)を履き、雪深い谷や斜に踏み込んだ。  山鳥や野兎を餌食とし、時には黒にも分け与えた。  春になると山菜を食し、焼き上げた炭を里に下ろす時には、幾らかの穀物にも換えた。飛び始めた小虫は太刀筋の狙いとなり、両断することも珍しいことでは無くなった。  この頃、源吾は山鳥を五羽担いで下の集落に下った。昨年末に父親を荼毘にしてくれた礼を言うためである。喜助の小屋の前で、呼び掛けた。 「喜助さん、昨年のお礼に寄せてもらいました」 「おお源吾か、気を遣わせたな。相変わらず好い腕じゃ」  山鳥を受け取ると喜助が褒めている。 「そういえば、雪の積もっとる時に京の笠松屋に頼まれたとゆうて、尋ねて来たお人がおったぞ」 「笠松屋なんぞ、聞いたことが無い。何かの間違いじゃないんか」  源吾は姉の身請書のことを思い描いており、あれには丹波屋と書かれていた。 「そうかいね。そやけど深い雪の中、この川を遡って行きおったわ」 「わしは、山の中におったんで行き違いになっとるな」 「それじゃ、しょうがないの」  雪解けの水が、小川を勢いよく流れている。芽吹き始めた蕗の薹が黄色い花を膨らませようとしていた。 「ところで源吾。ここの安治はんが、北の山へ入っておった時に熊にやられおってな、えらい怪我をしとるんや。幸い命には差し障りは無いが、腕の肉が削られとる。所詮、人の血の臭いを嗅いだ熊は、おっかないもんじゃ。気を付けろや」  源吾は世話を掛けた集落の人のことを考え、己の技を試みることを思いついた。 「ならば、わしが打ち果たしてやる」 「源吾のことじゃから大事は無いと思うが、無理はするな」 「分かっておる」  この後、集落の小屋を一軒毎訪った。安治の小屋では、痛々しく腕に巻かれた襤褸(ぼろ)布に目を止めている。 「安治さん、わしが仕留めて熊肉を持ち帰って来る」 「無茶はするな。奴は冬眠明けで腹を空かしておる。右の腕が恐ろしく早いんだ」 「それだけ聞かせてもらえれば十分だ。明日から山に入る」  翌日の朝、父親より譲り受けた名刀国広を背に負い、布に包んだ山鳥の肉を腰に巻いて、源吾は小屋を出た。手に持っているのは、昨夜、念入りに研いだ鉈(なた)である。北の山に入り獣道を辿っている。歩きなれた道ではあるが、熊の気配を探りながらとなると、気ばかりが焦っていた。  三日目の朝のことである。沢筋を歩いていると、山巓より黒の遠吠えが聞こえた。続いて数匹の狼と思しき吼え立てる声が響いて来る。源吾は、斜を獣の如く駆け上がって行く。すると、灌木の中で開けた平地に狼と対峙する熊が居た。立ち上がって牙を剥き、狼を威嚇する熊の胸には鮮やかな半月の模様が浮き出ている。爪を出した腕の動きを見ると、右ばかりが宙を掻いている。 「安治を傷つけたのは、こやつだ」  十間ほど離れた熊の右腕に向けて、源吾は鉈を放った。空中を回転しながら鉈が熊に向かっている。それは源吾の、強靭な意志が込められている飛翔であった。  鉈が違わず熊の右手首を打ち落とした。前足を下ろした熊の右側から、黒が喉元に食らいついている。他の狼が後ろ足に狙いを付け噛みついていた。これを見て源吾は地を蹴り、抜き放った刃を熊に向け進んだ。熊が左手で黒を叩き落そうとしている。その振り下ろした腕の脇より刃を突き刺した。 素早く飛び退く源吾と黒、他の狼も倣っていた。刺し抜かれた傷口より大量の血が溢れている。もう一度立ち上がった熊が、咆哮(ほうこう)を上げ前のめりに倒れ込んだ。刃が心の臓を貫いたのである。狼達が、まだ唸り声を上げている。それを制して源吾は熊の腹を裂き、取り出した内臓を狼達に投げ与えた。地に鮮血が流れ出しているが、構わず熊の首に巻いた蔓の先を肩に掛け、斜を滑り下ろしていた。 集落では切り落とした肉を分け、余りの肉を山菜と合わせ鍋で煮ている。 「源吾、それにしても凄い男になったの。鉄砲ならいざ知らず、あんな熊を刀で仕留めるなんぞ、只者ではないぞ」 喜助が感じ入っていた。源吾は、熊に刺し通した刃の手応えを忘れずにいる。これが、怨念の証として、その時に当たれるはずと思っていた。 こんな暮らしが四年の歳月を、瞬く間に流れさせていた。源吾は十九歳になり、身丈も存分な大人に成長している。来年の秋には姉の年季が明けることになり、京へ向かわねばならない。その前には篠山へ赴き父親の遺骨の一片を母親の墓へ持ち行くことになる。その後は、父親の怨念に報いる覚悟でいた。 源吾は了安の陋屋を訪い、別れの挨拶を述べていた。 「いつの間にか、父上が亡くなってから四年の歳月が過ぎ去りました。これから篠山と京へ向かいます」 「そうであったな。田城殿とは同じ篠山の生まれ、その子息がこの地に居るだけで何か郷愁のようなものを感じていたが、いよいよ出られるか」 「はい、お世話を掛け心苦しい限りにございますが、お許し下さい」 「さようか。それでその出で立ちでは、まずかろう。少し考えねばなるまい」  髪は総髪で後ろに束ね、単衣をもんぺの中に入れている。菰(こも)には小刀が包まれていた。 「これは常の姿にございます」 「うん、衣服は仕方がないとして、篠山と京じゃな」  了安が考え込んだ。武士の身分での入京は難しい。この時代、京へ武士や浪人が入ることは厳しく制限されていた。それは不逞の取り締まりと禁裏や公家との結び付きを制約することにある。されど奉公や商いでもなく、まして篠山となると父親が所払いのごとく出された地である。 「婆さんや」  了安が奥に向かって声を掛けた。 「奥の箪笥に白衣があったじゃろ。それに菅笠も持って来て下され」 暫くすると老婆が、折り畳んだ白衣と菅笠を持ち運んで来た。了安が広げると、背には南無観世音菩薩と墨書きされている。 「これはわしが京に居った頃、観音巡礼に使った白衣じゃ。観音巡礼とは、紀州青岸渡寺に始まり、美濃の華厳寺を結願とする三十三カ寺の観音を祀る寺を巡ることである。京には五カ寺があり、篠山は西端の寺への道筋になっておる。これであれば、往来手形も取り易く、父上の冥福を祈ることにもなろう。どうじゃ、これを羽織って行かんか」 「往来手形など、思いもよりませなんだ。関所なぞは、回り込めば何とでもなると思っておりました」 「源吾はんにしてみれば、確かにそうかも知れんが、姉上と会った時にはいかがする。関所破りの咎人ではまずかろう」  源吾は心腹した。 「ならば、これをお借りいたします」 「そうせい。しかし返すには及ばぬ、わしはもう歳じゃ。そうそう歳で思いついたが、これを餞別にいたす」  了安が、手文庫の引き出しより三両を取り出し、源吾に手渡した。 「金を持っては冥土に行けぬからのう」 「これでは先の二両に合わせると、薬代の全てになりますが」 「まあ、ええわい。姉上に会えば、全てが分かることじゃ。それに、今宵はここに泊まることじゃ。庄屋に話して往来手形を貰おてやる」 「何から何までお手数をお掛けし、申訳ございません」  明朝、源吾は了安に見送られ旅立った。ただ、一晩聞かされた観音巡礼の心得が、己の心内を強く突き刺していた。野に生える芒の穂が揺れ、まるで別れを惜しむかのように感じられた。
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