孤狼 第一章

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八、四国苦行  あの翌日に嘉兵衛は、父の冥福を祈願すると書置きを残して店を出ていた。 「お前はん、番頭まで抱き込むとは、大した悪どすな」 「そうでなきゃ、あいつを放り出す確かなことにならんからの。あの番頭は澄ました顔をしくさって、女を囲っとたんや。それで、ちょっと脅しつけたら、いちころやった。ところであの千両は如何したんや」 「直ぐに勘助にゆうて、戻してもらいましたんや」  「流石に三代目やな。そうすると不渡りになるんやな」 「そうどす」  嘉兵衛は番頭の、ともかく今は逃げとくりゃすとの愁訴と再起を諮(はか)るとの言葉を信じ、絹江と共に二条の舟入から高瀬舟に乗った。伏見で過書船に乗り換え、淀川を下り大坂に着き、そこで四国経由の弁才船に乗り阿波の小松島で陸に上がった。船中では絹江に何度も詫びを言う姿が、他の乗客からまるで駆落ちの如く見られたようである。四国を死地として遍路する捨往来手形の持ち主ではないかと、囁かれる声が耳に届いていた。  四国遍路とは、若き日に空海と名乗っていた弘法大師が四国各地で修行した地や所縁(ゆかり)の地である八十八か所の霊場を巡拝する旅である。従来は修験者が行う修行が主であったが、十七世紀後半、真念が四国遍路道指南を書き上げてからは大衆化されることになった。伊勢参りや西国観音霊場巡礼などと共に、江戸時代には比較的容易に往来手形が発給された。ただ四国遍路は、現世利益のみにあらず、懺悔(ざんげ)や贖罪(しょくざい)などの死への概念が内包しており、捨往来手形で死に至るまで巡拝を続ける者も多かった。それには、何処かで死に至れば、その地の作法にて葬り死の知らせは不要と書かれていた。また、霊場の巡拝順序の多くは淡路島から阿波鳴門に上陸し、一番の霊山寺から始めたが、中には船便の都合で阿波小松島の十八番恩山寺、十九番立江寺から始める者もあった。  四国の山々は温かみを増した陽射しに、新緑が眩しく映えている。立江寺の境内の松の梢にも爽やかな風が吹き渡っていた。 「絹江はん、ここまで来れば追うては来れんはずどす」  立江寺の門前で遍路装束を整え、参拝を済ませた嘉兵衛は、境内の片隅で絹江に語っている。 「そうどすな、でも変なことになってしもおて、お父はんも悔しおましたやろ」  重々しい山門を見上げながら絹江が答えた。 「絹江はんには申し訳ないことになってしもうて、頭が上がらしまへん」 「そのことは、もう何べんも聞かしてもらいましたさかいかましまへん。それより番頭はんの紹介状では高知の両替屋を通して商いの段取りも付けたはるんで、しばらくはここでやっとたら宜しおす」 「番頭も藪入りで帰った時には、目星を付け取ったと思いますねん」 「そうどっしゃろ。何も心配せんと気長ごうやらせてもらいまひょ」  快活な絹江の言葉に、嘉兵衛は幾分救われた気分になっていた。 「丹波屋はんに聞きましたが、お義母はんの兄さんとゆうお人は名うての悪のようどす」 「そやけど悪が栄えた例(ためし)はおまへんさかい、その内にわやになりまっしゃろ。その時には笠松屋を再興する機会になるはずどす。それまでの辛抱どすがな」 「そうどすな、わても頑張りますさかい」  絹江に乗せられて嘉兵衛は、こう答えざるを得なかった。それにしても、こんな女子はんを見つけていたとは、親父には感謝せなあかんとつくづく思い知らされた。高知に着けば直ぐ然るべき人にお頼みし、祝言を上げねばならないと思うばかりである。  四国霊場第十九番立江寺。四国のそれぞれの国にある関所寺の一つで総関所と呼ばれ、八十八か所の根本道場になっている。邪悪な心を裁く半面、古くから子安の地蔵尊として親しまれて来た。それは聖武天皇の勅願で、光明皇后の安産祈願のため、行基に命じて作られた地蔵尊を本尊とされているからである。 「このお寺は阿波の関所寺やと聞きましたさかい、もう一度手を合わせてから先に行きまひょか」 「そうどす、急ぐ旅でもあらしまへん。絹江はんのこともお頼みしとかなあきまへんさかい」 「えっ、うちのことどすか」 「そらそうどすがな、ここのご本尊は安産をお守り下さいますのや」  絹江が顔を赤らめている。その仕草を見ていると、仄聞した吉野大夫の生まれ変わりという噂も真実に思えて来た。 「さあ、次のお寺は高い山の上にあるとのことどす。気張って行きまひょか」  絹江に思いをぶちまけ、仄々(ほのぼの)とした気分に満たされた嘉兵衛は、弾むような言葉を投げ掛けていた。  四国遍路は、海岸に沿って辺地を巡ることになり、波が打ち寄せる難路もあるが、幾つかの寺は高い山にある。阿波では十二番焼山寺・二十番鶴林寺・二十一番太龍寺、土佐では二十七番神峯寺、伊予では六十番横峰寺、讃岐では六十六番雲辺寺が挙げられる。このような寺への道は、遍路ころがしと呼ばれ難所とされていた。  鶴林寺の山裾となる生名で宿を取った。他に数人の客がいたが、ほとんどがここで米を買い、自炊で飯を炊いている。嘉兵衛と絹江は、遍路宿で支度してくれた一汁一菜で飯を食べ、早めに床に就いた。遍路の朝は早い。明け六つ(午前六時)には朝餉を終え、それぞれが出立の支度に掛かっている。白装束で身を整え、床に立て掛けて置いた金剛杖を手にした。草鞋を足に着けている頃には、他の客が既に出立していた。 「お前さん、もう皆さん方は先に出たはります。なんぼ急がん旅やとゆうても、これではあきまへんな」  昨日、宿に着いた頃から自分への呼び方が、嘉兵衛はんからお前さんに変わっていた。何か夫婦になったような気がして嘉兵衛は晴れやかに答えた。 「絹江、今日もええお天気で、気分好く歩かせてもらいまひょか」  嘉兵衛は絹江を呼び捨てにした。これも心内を和ませている。ところが宿を出ると直ぐ登りに掛かる。しかも、延々と続く坂道に嘉兵衛は音を上げていた。 「お前さん、大事おへんか」  坂道の木陰に腰を下ろした嘉兵衛に、絹江が気遣っている。 「絹江は元気でおますな」 「うちは山で暮らしておましたさかい、こんな坂道は何ともおまへん」 「大変とは聞いてましたが、遍路とは難渋の道どすな」  やっとのことで鶴林寺に着く。先に出た客は誰も見当たらない。 「慣れたはるお人は早おすな。もう参拝を終えて先に行ってはりますえ」 参拝には、本堂と太子堂のそれぞれで、灯明をあげ開経偈から始めて般若心経などの誦経がある。概ね半刻(一時間)ほどの時間を要した。 この次の寺には、急な坂道を那賀川まで下り、川を渡って深閑とした道を暫く進むと急激な登り道に変わる。這々(ほうほう)の体(てい)で登り切ったところが太龍寺の参道へと繋がる。ここより振り返ると深い谷を越えた向こうの山巓に鶴林寺の堂宇が見えていた。  弘法大師が驚異的な記憶力を習得出来る虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)の修行を行った太龍寺を過ぎると、平等寺を経て海沿いの道を薬王寺に向かう。薬王寺の先の甲浦で土佐に入り、ここからが室戸岬に繋がる荒々しい海岸道や絶壁を沿う道となる。  佐喜浜の漁民の家に泊まらせてもらった。昨夕に着いた頃から降り始めた雨が、夜半まで雨戸を敲いていた。早朝ここを出ると、茫々(ぼうぼう)とした海原より雲を射抜く朝日が眩しく輝いている。海岸より先を見ると、幾つもの岬が重なる光景が室戸岬へと続いていた。 「あの先端が室戸にある最御崎寺(ほつみさきじ)ですな」  絹江が溜息を漏らすように話した。 「そうどす。こう見渡しが好いと、豪い遠くに感じるもんどす」  海岸には打ち寄せる波で、大きな石が地響きの如く荒々しい音を出している。四半刻(三十分)ほど海岸に続く道を歩くと、海に突き出した巨岩の岩肌にへばりつき海を眺める娘が居た。ずぶ濡れの衣服に髪より滴る雫が朝日に光り、泣き腫らしていたのか目は赤くに染まっている。 「どないしやはりました」  不審に思った絹江は優しく声を掛けたが、振り向こうともせず体を小刻みに震わせていた。そこで瓢(ひさご)の水を差しだすと、やっと受け取り少し口に含んだ。 「豪い濡れたはりますけど、ゆんべの雨どすか」 「私が海に落ちて、助けてもらった父上が流されました」 「えー、何時のことどす」 「昨日の夕方です」 「それでは、一晩ここに居たはりましたんどすか。それで父上は何方の方向へ流されはったんどす」 「左手で佐喜浜の方です」 「お前はん、この娘はんを背負おてもらって、佐喜浜まで戻りまひょか。このままでは、この娘はんまで命を落としかねまへん。佐喜浜の漁師に頼んで父上を探してもらうんどす」 「そうしまひょ。旅は心、世は情けとゆいますさかいな」  嘉兵衛が背負った娘に、絹江は歩きながら尋ねた。 「うちらは京のもんどすが、何方からおこしやしたんどす」 「私も京です。母上が亡くなり遺骨を土佐の高知へ持ち帰る旅の途中です」  「すると土佐のお人どすか」 「はい、私は京で生まれましたが、二親(ふたおや)は土佐です。父上は京の土佐藩邸におりました」 「お名は、何とゆわれますのや」 「私は、妙で十一歳です。父上は武井弥太郎ともうします」 「十一どすか」  絹江は、自分の身の上に重ねていた。母親を亡くし、父親も恐らくは亡くなっていることであろう。こんな幼ない子が、これから如何に生きていくのか。あの内野の茶屋で自害した須美の面影も蘇って来た。  佐喜浜で漁師に一分金を二つ渡し、父親捜しを頼んだ。妙の衣服は水洗いし、囲炉裏の傍で乾かしている。身の丈には大きすぎる絹江の着物を羽織った妙が、囲炉裏の傍らで心配げに座っていた。 「高知には、誰か身寄りのお方が居てはりますのか」  絹江は、一番気に掛けていたことを尋ねた。 「はい、お爺様とお婆様が居られると聞いております」 「それは宜しおました」  夕刻に漁師の船が戻って来た。  予期していたことではあったが、やはり父親は見つからなかった。漁師に礼を述べ、その日の夜は妙が絹江の横に床を敷いて横になった。絹江は妙の咽び泣く声を聞きながら、いつしか眠りに付いていた。  翌朝、毅然として起き立った妙に、絹江は武士の娘の姿を見せられた。 「さすがに土佐のお武家はんのお子さんどすな」  嘉兵衛が囁(ささや)いた。 「妙さん、どうどす。うちらと高知までご一緒しやはりませんか」 絹江の言葉に頷いた妙を連れて、二里ほど戻った野根の番所へ出向いた。 「一昨日にここを通られた武井殿の娘子じゃき、よう覚えとるぜよ」  番所の役人が応対してくれた。  嘉兵衛が、経緯(いきさつ)を語り高知までの同道を願い出た。役人が嘉兵衛の行った捜索の行為に感謝を述べた。 「遍路の途中なれど当藩藩士の不慮に配慮いただき礼を申すき。合わせて娘子の同道についても、そうしてもらえれば有り難いことじゃ。こちらとしても人数の不足しておる折、まっこと忝い」  この後で消息が分かれば伝えるとも答え、添え状まで書いてくれた。  再び佐喜浜に戻り、長い室戸岬までの道のりを越え、高知へと向かう道に入った。  ここまで歩けば嘉兵衛の足も力強さを増し、妙を気遣えるまでになっている。 「妙はん、しんどなったらゆうておくれやす。わてが背負いますさかい」 「そんなことありません。私は大事ありませんので」  こんな会話を絹江は、微笑ましく聞いていた。  奇岩が居並ぶ室戸岬を見下ろす山巓に最御崎寺がある。ここの修行僧に聞いた話を嘉兵衛が持ち出していた。 「室戸の崖の下におました御蔵洞(みくろどう)どすけど、弘法はんはようあんなとこで修行をしたはりましたな。そこで明星が口の中に飛び込んで来て悟りを開かはった。洞からの景色が空と海やったから空海と名乗らはったとは、やっぱり来てみな分からんもんどす」   弘法大師空海。北野の天神さんと東寺の弘法さんは、京の人に親しみを込めてこう呼ばれている。空海が入寂された三月二十一日を期して、毎月の二十一日に市が開かれている。当初は一服一銭と言われる茶を商う屋台のみであったが、江戸時代になると植木屋や薬屋など様々な露店が並ぶようになった。 「弘法はんの足元にも及びまへんが、うちらもしっかりして生きていかなあきまへん」  絹江の横を歩く妙が、こっくりと頷いていた。  津照寺(しんしょうじ)、金剛頂寺(こんごうちょうじ)を終えて、室戸と高知の中ほどに神峯寺(こうのみねじ)がある。安田川を渡る辺りから高い山の上にある堂宇が見えて来る。 「また、豪いとこにお寺を建てたもんどすな」  嘉兵衛が気弱になっていた。絹江は、妙に尋ねた。 「妙さんは、どないどすか」 「ご迷惑にならなければ、行かせてもらいます。父上の祈願もありますので」 「よう、ゆわはりました。お前さん、行きまひょか」  土佐の遍路ころがし神峯寺。海岸より山上に向かって、真っ縦の急坂と呼ばれる道が続いている。 「妙さん、頑張りなはれや」  絹江の声に励まされ、妙が懸命に歩いている。振り返ると土佐湾の絶景が渺茫(びょうぼう)と広がっていた。  神峯寺の参拝を無事に済ますと、いよいよ高知に進むことになる。その手前にある大日寺・国分寺・善楽寺を経て、三人は高知へ向かった。遍路道は善楽寺より高知城下の東側を南に下り、竹林寺のある五台山に向かうが、西へ進み江ノ口川に沿う道に入った。   高知城下は、山内一豊が関ケ原合戦の後に土佐の国を与えられ、大高坂山周辺の湿地を改修して造営した。大高坂山に築城した高知城を中心に北の江ノ口川、南の鏡川を境とし、東西に開けた城下である。城の周りは郭中として家臣のうち上士の者の居住地とし、西の上町には足軽や武家奉公人などの下士を住まわせ、東の下町に武家の生活を賄う町人の町とした。城下への入り口の関門として、番所は三か所に置かれた。上町の西側に土佐街道の入り口として思案橋番所、下町の東側には北に土佐街道の入り口として山田橋番所が、南には浦戸湾からの道の入り口に三つ頭番所があった。また、元禄大定目によると、朝倉町・蓮池町・新市町で月五回の街路市を開くことが認められ、元禄七年(一六九四年)には本町・通町・京町でも認められて、月十回の街路市が開かれることになった。ただ、この時分の土佐藩は、享保十二年(一七二七年)の大火で城の建物や城下の殆どを焼失し、更には享保十七年(一七三二年)の大飢饉で幕府より一万五千両の大金を借用していた。  山田橋番所で嘉兵衛が添え状を差し出し、武井弥太郎の不慮について話した。妙が屹然(きつぜん)とした眼差しで番所の役人を見つめている。 「京の藩邸に居られた武井殿じゃな。今日はここに分かる者が居らんちゅう、どうにもならんぜよ。明日の朝にでも、来てくんがや」  妙は京の生まれ、父親の実家には訪ったことが無い。仕方無く三人は、番頭に教えられていた播磨屋町の両替屋の店先に立っている。ここで為替の引き換えにより受け取る千両を確かめておくことであった。 店に入り小僧にその旨を告げると、仕切り板の向こうから羽織を着た男が小走りに来て、框(かまち)で膝をつき頭を下げた。 「これは京の笠松屋の若旦那様で」  嘉兵衛は、一瞬戸惑ったが、直ぐに答えた。 「はい、笠松屋の嘉兵衛どす」 「ご到着を今か今かとお待ちしておりやしたんです。どうぞ、こちらへ」  通された玄関脇の小座敷に、小僧が茶を運んで来た。 「ご挨拶が遅れやしたが、わてはこの店の番頭をしとりやす稲吉とゆうもんでおます。笠松屋の番頭佐平とは幼馴染でやす」  嘉兵衛は、土佐の地で聞く大坂弁にふっと違和感を覚えたが鷹揚に頷き、それでこの店を為替の受け取り先にしたと思った。 「そうどすか。うちの番頭と同郷どしたか。それでお宅はんは、大坂においやしたんどすか」 「わてらは高知の東になりよります久枝村の生まれで、餓鬼の頃からよく喧嘩もし、助け合っても来やした。あれが京へ奉公に行くと聞いた時には、驚きもし羨ましいとも思いやしたが、立派に大店の番頭にまでお取り上げ下さり、有り難く思っておりやす。わては、こちらのお店から大坂の両替屋へ一時修行奉公に出されておりやした。大事な話を、土佐言葉では通じんことがおますんで、大阪弁で話しとりやす」  成程と嘉兵衛は納得したが、笠松屋が窮地に陥っているとは口にも出せなかった。 「ところで、こちらのお店に千両の為替が来とるはずどすけど」  番頭に為替手形を見せた。 「笠松屋さん、あいすまんことになっとりやして、この手形は不渡りでおます」 「なんどす、不渡りなんて」  嘉兵衛は心が凍る思いを感じ、唇がわなわなと震えるのが分かる。  「佐平より書簡が届いとりやして、これによりますと笠松屋の後を継がはった勘助といわはるお人が取り消さはったようでおます」 「えー、あいつが」  思わず畳を拳で敲いた。  絹江と妙が驚いて見張っている。 「そげなあかんことになってしもうて、つらつらと詫びの言葉が並んどりやす。それで今、佐平が出来ることとゆうて、三十両の為替が届いとりやす。それに、わてには商いのてったいをしてやってくれと、書いとりやす。この土佐では遍路の取締がきつおまして、遍路道から逸れるのも罷りならんことになっとりやす。それに、この高知は六年前の大火と昨年の凶作で大変貧窮しとりやすが、この店の旦那さんにもゆうて出来ることはやらせてもらいまっせ」 絹江が顔を綻ばせた。 「お前さん、あの義弟はんならやりそうなことどす。こないなことになったら、お言葉に甘えて一から考え直しまひょやおまへんか」  嘉兵衛は、まだ俯いていた。 「絹江、そんなことゆうても、三十両そこそこの金子で何が出来ますのや」 「番頭はんのお話では、遍路にはきついお達しが出てるようやし、それにこちらも凶作では、そんな大きな商いは出来しまへん。これを、ええ戒めやと思うて頑張らなあきまへん」 「そうどすな」  嘉兵衛は、すまなさそうに小さく頷いた。  この両替屋の近くで宿を取った三人は、翌日の朝に番所を訪った。腰板障子の戸を開けて嘉兵衛は中に声を掛けた。 「昨日にお尋ねしたもんどす」  顔を見るなり番所の役人の声が聞こえた。 「大滝さま、この者にごぜえます」  紋付羽織を着て、如何にも恰幅のある武士が鷹揚に頷いた。 「これ頭が高いぜよ」  役人に言われるまま土間に膝を突いた。 「よいよい、そなたらは京の商人と聞いた。わしは京藩邸に長くおったので、京の者はよく知りおる。京では武士など屁の河童みたいな者と思われており、役立たずの半端者と心得ておる。そこの床几を進めてやれ」  役人が床几を持って来た。 「わしは武井殿とは同輩の間柄ゆえ昨日、町奉行所より知らせがあった。勘定奉行配下にある勘定方を務めておる大滝忠左衛門と申す。こちらの娘子が武井殿のご息女か」 「はい、武井妙と申します」  妙は、京藩邸で見掛けたことがある大滝の姿に安堵の思いを抱いている。 「そうか、あの頃はまだ小さなお子であったが、大きくなられた。本来であれば下士の二、三人も連れて帰郷されても然るべきところ、奥方の供養として娘子とお二人で、しかも霊場を巡る道をとられたとは奥床しい限りじゃ。武井殿には誠に残念なことと相成り心を痛めておる」 「大滝さまは、京藩邸でお姿を御見掛けしたことがございます。ここでお会い出来たことは、父上のご加護があったことと存じます」 「よう申された。誠、武井殿の娘思いのお力でござろう。ところで土佐は初めての地と思うが、わしがご実家まで案内いたす。きっとお伯父貴殿も首を長くしてお待ちのことじゃろう。わしの若い頃の上役でもあり、久方振りにお会いして武井殿の話もしたいものじゃ」 「そう願えれば有り難いことにございます。そこで、こちらのお二人もお連れしようと思います」 「おお、そうじゃ。武井殿のことについては世話になり、また妙殿をここまで同道して下さったことに厚く礼を申す。折角のことじゃから、ぜひ一緒されるが好い」  妙を横にして大滝忠左衛門が先を歩いている。後ろには下士の二人が居り、嘉兵衛と絹江がそれに続いている。道は追手門通りに入り、郭中と下町を区切る掘割を越えるが城の天守が焼失して見えない。周りの武家屋敷にも普請最中のものに仕上がったものが混在していた。 やがて追手門通りを南に曲がると、武井の名札が掛かった屋敷があった。 「ここにござる」  大滝忠左衛門の声が掛かった。  辺りには白壁の連なる武家屋敷が居並んでいる。門番を呼び出し来訪を告げると、直ぐに屋敷内へと導かれた。  既に隠居の身である武井の両親からは、不慮への配慮と孫娘の同道に礼を述べられ、商いの口添えを大滝に取り為されていた。また、武井の家督は、妙に然るべき婿を取らすか弥太郎の弟に譲るか思案の最中と聞いた。大滝からは如何様な商いをするにも、よきように取り計らってやるとの言葉を貰い、この屋敷を後にした。  絹江は宿への戻り道に開かれていた市の露店で、この地の産物を興味深く眺めている。そこで、京の丹波屋での煮物を思い描いていた。宿で食した煮物、これに京の味覚を合わせれば、この地の者にも受け入れられることであろう。手を敲いて嘉兵衛に言った。 「煮物屋なんぞ、わてには無理どす」 「何をゆわはります。大店の若旦那なら、京のあちこちでええもんを食べておましたやろ」 「そらそうどすけど」 「それならうちが教えますさかい大丈夫どす」  丹波屋で手伝いをしていた京の煮物。あの味を思い出しながら、両替屋に赴いた。 「へー、大滝様のお口添えを頂けるなんぞ、大したもんでやす。それに大坂から昆布を取り寄せるんでおますな。分かりやした。そこでお店でおますけど、土佐街道から続く通りに探さしてもらいやす。あの辺りなら人の行き来も多おましゃろ」  絹江は、土佐の鰹節に昆布を合わすことを考えていた。町の年寄には大滝から話が伝わり、店開きまでとんとん拍子に運んだ。ところが料理屋仲間から苦情があったのか、それとも遍路の身分での商いに藩政として差し障りがあったのか、大滝より商いの期間を三年限りと申し渡された。 「たったの三年どすか」  嘉兵衛が失意の念を露わにした。 「お前さん、たったの三年とゆわはりますけど、論語に三年有成とゆうお言葉がありますように、三年で目途がたたんかったらあきまへんさかいな」   論語 子路第十三  「子曰。苟有用我者。期月而已可也。三年有成」 下村湖人は、次のように訳している。    先師がいわれた。もし私を用いて政治をやらせてくれる国があったら、一年で一通りのことはできるし、三年もあったら申し分のないところまで行けるのだが。     高知に着いて三か月、高知の空には秋の気配が漂っていた。嘉兵衛の肌付金に根付や笄(こうがい)などを質入れし、為替金と合わせた五十両を元手としている。借家の改装を終え什器を整えて、煮物、飯の文字とあわせ笠松屋と染め出した暖簾を店先に吊るした。  店を開いて数か月、客の殆どが旅の者で地の者からは敬遠されていた。当然の如く余分となった物は、店の裏で貧窮者に分け隔てなく分配している。 「なかなか思うようにいきまへんな」 嘉兵衛が、溜息ともとれる声を出している。 「損して得取れと申しますやおまへんか。その内に地の人もやってくるはずどす」 絹江には煮物の味に自信があった。これなら丹波屋で覚えた味と変わらないはずである。 貧窮者にも高知では食べたことの無い美味しさであると聞いていた。そんな折、京からの旅の者が暖簾を潜った。それというのも高知に城下が造営されて以来、藩祖山内一豊の財政顧問をした志方源兵衛、材木商の袋屋宗吉、京町の由来となった呉服商筒井宋泉など京の豪商が、基盤を築いていたのである。 「おっ、もしかしてお前はんは、京の丹波屋におった娘はんやおまへんか」  絹江の顔を見るなり、叫ぶような声を上げた。 「はい、そうどすけど」 「こんなところでお顔を拝めるとは、誠に冥利なことどす。あの界隈では吉野大夫の生まれ変わりと噂されたお人。ほんま美しさは変わりおまへんな」 「そんなことを聞いたことはおますが、うちには関わりが無いことどす」 「やっぱり奥床しいお人どすな」  旅人が煮物を食べ、京の味を懐かしんでいる。 「これは、お前はんがこしらえはりましたか」 「そうどすけど」 「そやろなあ、さすが京のお人や」  これで笠松屋に勢いが付いた。翌日からは、下町のいたるところの町内から商人、その番頭や手代が客として訪れ、店は賑わいを見せ始めた。その内には、店の表通りにまで人が並び、京の味と絹江の顔見たさに殺到する始末となった。 「これでは雇人を増やし、隣の家も借りなあきまへん。流石に絹江やなあ。それにこんだけ忙しなっても、貧しい人に施すなんぞなかなか出来ることやあらしまへん」  既に簡素な祝言を上げていた嘉兵衛が、正に父親が見込んだ通りのお人やったと、絹江のことをしみじみと述懐していた。そして、隣家が店として整った頃、散り始めた梅の花に誘われたかのように、二つの駕籠が店先に止まった。数人の下女に傅かれた身分の高い奥方と思しき女性と娘が、店の前に立っている。昼を過ぎた暇時とあって、下女が店に入り訪いを告げた。 「これは妙はん、立派なお姿にお成りになって」  店先に出て来た絹江は、弾けるように言った。 「こちらは、大滝様の奥方にございます」  絹江は膝を突き、後から出て来た嘉兵衛と共に頭を下げた。 「大滝にございます。こちらのお店が郭中でも話に上がっており、妙殿にお世話頂き罷り越しました」  隣の店の二階で四人が向かい合った。膳には小鉢に盛り付けた煮物と少々の酒肴が置かれている。大滝の奥方が煮物に箸を付けた。 「京に居りました頃に口にした味と変わりません。誠に美味なものです」  ほっと胸を撫で下ろした絹江に、京での有様や店の成り立ちなどの話で一時を過ごしている。そのような話において絹江の培ってきた素養は、まったく引けをとらなかった。 「一介の商人の女子なれど、その蘊蓄の深さと主人を助ける姿、更には困窮の者にも救いの手を差し伸べている。これは聞き及んでいる見性院様を思い浮かべます」 「見性院様とは何処のお方にございますか」  妙が興味深げに尋ねた。 「好くお聞き為され。見性院様とは藩祖一豊公の奥方です。戦国の世に主人を助け、土佐一国を賜るまでにした才女の誉が高いお人です。その内助の功は、広く世に伝わっております。妙殿が、見習うは絹江殿です」  こんな話が郭中に伝わり、隣の店の二階は藩士の妻女の寄り合い場所の如き様相となった。見性院の話を聞き、中には藩重臣の妻女とも思える人までもが忍びで訪れ、絹江の救恤(きゅうじゅつ)に藩政に適うこととして金一封を手渡されることもあった。  こんな繁忙な暮らしを続け、やがて三年の期限が迫ろうとする秋のことである。店に大滝忠左衛門が訪れた。隣の店の二階で相対し、上座に座った大滝から話を持ち掛けられた。 「嘉兵衛に絹江殿。商いの期限を三年としたのは、外でもない商才を確かめる為であった。そちらは何れ京に戻ることになるじゃろう」 「それは、そのつもりどす」  嘉兵衛が答えた。 「そこでじゃ。ここまで繁盛した店に仕立てた才を買って、京で土佐の産品を扱う店を開いてもらいたい」 「えー、土佐藩御用達のお店どすか」 「そうじゃ。知っての通り、今我藩は窮迫しておる。そこで、土佐から京に直接ものを運んで捌くことを考えておる」 「そうすると土佐藩の御用を預かる商人の一人にお加え下さることどすな」 「御用といえ、売り方になるがのう」 「分かりました。身に余ることで、京に錦を飾る思いどす」  絹江も目を潤ませている。 「そこで一つだけ条件がある」 「条件と申されますのは」 「妙殿のことじゃ。わしの奥が言いよった絹江殿を手本にせよとの言葉に心酔されたようで、そちらが京に戻るなら付き従うと言っておられる。そこで、武井家では弟に家督を譲られる段取りで進めておられる」 「そんなことどしたら、うちらはかましまへん。かえって歓迎することどす」 「そうか、わしも京藩邸の留守居役に抜擢されておるゆえ、妙殿の身は藩邸で預かることになろう。そこは妙殿が母上と過ごされた思い出深い場所じゃ」
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