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第一章 姉弟の絆
一、八丁山
京都東町奉行所与力神沼貞太郎は丹波山中の奥深くまで分け入り、鬱葱(うっそう)と生い茂った灌木の中に峠へと続く坂道を登っている。
御留山となった八丁山の見分を、数日前に奉行所用人から下命されたのだ。桑田郡にあるこの地は、北の弓削と南の地井に挟まれた山間地であり、いずこの里からもほぼ一里の峠越えの道になる。数年前にも見分の話があったが、何分隔絶の地であり地元からの開拓の申し出のみで裁許(さいきょ)してきた。しかし、その開拓も行き詰まり、留め置きの山になってしまった。そこで業を煮やしたのか奉行所用人より、まだ与力と称しても見習いの身である神沼貞太郎に見分の命がなされたのである。
神沼貞太郎は配下の同心二名を伴にして、昨日の朝に二条城の南にある東町奉行所を出た。鞍馬街道を北に向かって歩き、途中で鞍馬寺に参拝し、花背峠を越え大布施の庄屋屋敷に泊まった。ここで待ち合わせた土地の案内人(あないにん)と、今朝の早くに出で立ち広河原村よりこの山に踏み込んだ。久方ぶりに京より離れた解放感が心地好い汗となって肌を湿らしている。辺りには初夏の陽射しに映える新緑の翠巒(すいらん)が満ち、我が身に迫り来るようであった。ようやく峠に至ると案内人より声が掛かり、中食のために休息をとることにした。神沼貞太郎はやれやれと思う気分になり、菅笠を取り伊賀袴の裾を掃ってどっかと道端に腰を下ろした。直ぐに同心の一人が竹筒に入れた水を持参する。
「我に余り気を遣うことはないぞ。与力とはいえ、まだまだ見習いの身で中途半端な立場であるからのう」
神沼貞太郎はいささか自嘲気味に答えた。
「何を言われますか。長年の課題であった八丁山の見分を、御用人から直々に御下命があったことは期待の現れと存じますが」
「今、奉行所を見渡しても、こんな僻地に遣わされるのは我ぐらいしかおるまい。かえって、そなた達に迷惑を掛けることになったような気がしておる」
「そのようなお考えにならず、お役目大事とお勤め下され」
同心ではあるが、歳は二つ上の坂田大膳よりたしなめられている。
「まあ、畏(かしこま)るばかりの奉行所から飛び出せて、息抜きと思えば好いことよ」
庄屋屋敷で持たしてくれた竹皮に包んだ握り飯が、案内人より手渡された。包みを開くと拳大の握りが四個と山菜の煮物が付けられていた。
「これは好いものを揃えてくれた。こんな緑豊かな峠で食するには最高の馳走である」
その一つを口にした時、突然に熊笹が騒めき獣の唸る声が聞こえた。
「これは危のうござる。後ろへお引き下され」
案内人が斧を翳して前に立った。数間先の熊笹の合間には、黒褐色の毛色をした狼が牙をむき出し、咆哮(ほうこう)を上げている。眼光が鋭く、今まさに飛び掛かろうと後ろ足を曲げているのが見える。神沼貞太郎は握り飯を落とし、人前ではかつて抜いたことのない差料(さしりょう)を抜き放った。同心二人もこれに倣っている。
「狼は一頭だけではないようですぜ」
案内人の声に、緊張がみなぎっている。この時、後ずさりする一行に目掛け、切迫した声が聞こえた。
「足元の握り飯を、笹藪に投げて」
我に返った同心が拾った握り飯を、笹薮に向かって投げ込んだ。
「黒、それを咥(くわ)えて帰りな」
再び、先ほどの声がする。すると、笹薮で騒めいていた狼が間もなく姿を消し去った。
「危ういところを、誰が声を掛けてくれたのか」
神沼貞太郎は、刃を鞘に戻して案内人に問うた。
「恐らくは、あやつかと思いますが」
「あやつとは誰のことか」
峠の曲がり角の木立の陰から、炭に汚れた顔がこちらを覗き見ている。
「やはりあやつに間違いございません」
こう言うと案内人は、峠の向こうに呼び掛けた。
「源吾、いいところに来てくれた。有難うな」
声を掛けられて姿を現したのは俵を背に担いだ童(わっぱ)であった。その後ろには、同じように俵を担ぐ女子(おなご)が居た。
「お侍さま。そんな腰つきでは黒に刀を向けても、ちっとも様になっておりません」
狼が現れたことで動揺し、今また童の言葉に戒められた神沼貞太郎は、ぐっと感情を押し殺している。京の巷では誰からも一目を置かれる奉行所与力であり、自負もあった。だが、こんな隔絶した地ではそれが何の役にも立たないことを思い知らされていた。それを、この童に、教えられた気持ちになっている。
「源吾とやら、お前さんはこの地の者か」
「そうだ、この山の谷間で炭を焼いて暮らしている」
「それで、先ほど狼を黒と呼んでいたが、あれはお前さんに懐いているのか」
「黒は獣だ。懐きはせぬが、わしの言うことは聞いてくれる。それは黒が小さい頃に怪我をしていたのを助けてやったからだ」
「そうゆうことであったか。いずれにしても危ういところで助けてもらい礼を申す」
神沼貞太郎は、童に向かって軽く頭を下げた。
「ところで、お侍さまは奉行所の人だろう。二、三日前に先ぶれがあった。先に着いた大工や荷担ぎの人が、この下の小屋で待ってらしゃる」
「そうか、知らせてくれて忝(かたじけな)い」
「姉上、先を急ぎましょうか。ここで手間取ると夕方までに戻れません」
こう言い残して一礼した童と女子は、峠を広河原村に下っていった。
二人を見送ると神沼貞太郎は、おやっと思い案内人に問い掛けている。
「今、あの童は女子のことを姉上と呼んだが、あれは武士の子か」
「よくわかりませんが源右衛門という者の子で、他の者とは離れた山深い谷間で炭を焼いております。聞くところよりますれば、木端でやっとうの真似事をしているところを見た者もおるようです。ただ、あの源吾の凄いのは石打で、十間離れていても百発百中で獲物を仕留めおります」
「そうか。人は生生流転、絶えず移り変わってゆくものよ」
何か納得したように、頷いていた。
峠を下り八丁山の懐に入ると、亭々(ていてい)と茂り立つ大樹が辺りを暗くしている。そんな山道を進んで行くと川沿いの少しばかり開けた場所に集落があり、数軒の小屋が立てられていた。小屋前では夕餉の雑炊が炊かれ、昼を食い損ねた空きっ腹には、やけに美味そうに感じた。そこで、早めの夕餉を済ますと、先に着いていた大工の棟梁と明日からの見分の打ち合わせも行い、早々に眠ることにした。それにしても、かような辺鄙な地に人が住めるものかと、京育ちの身にはとても想像だに出来なかった。
翌日の朝、小屋の前に流れる小川で口を漱(すす)ぎ、顔を洗っている。目の前には山が迫り、深閑とした森の中からは野鳥が切り裂くように鳴く声が聞こえていた。今日は、この小川を遡(さかのぼ)り山深く踏み込むことにしている。それというのも、昨日に出会った源吾という童の家を訪う心づもりでいたからである。
朝餉を済ますと案内人から、それぞれに塩が配られた。
「これは何に使うのか。忌事(いみこと)を掃う清めでもあるまい」
同心の坂田大膳が呟いた。
「坂田様。ここから奥に入ると蛭(ひる)が多くなります。肌を出すところに塗り付けてくだされ」
「なに蛭じゃと。田の水におるものが、なぜ山におるのじゃ」
「へっへっへっ」
髭面の顔に白い歯をむき出し、案内人が笑い声を上げた。
「これは失礼おばしました。お武家様方は都育ち、山のことにはあまりご存じ無いようで。この奥地は湿地になっており、そこらじゅうで蛭(ひる)を見かけます」
「そうか、それで塩か。蛞蝓(なめくじ)を懲らしめるのと同じ理屈なのじゃな」
「その通りにございます」
納得した坂田大膳を一瞥して、神沼貞太郎は一行に呼び掛けた。
「それでは首筋や脛なぞに塩を塗り、いざ出立いたす」
小川に沿った小道を辿って行くと、石影や梢に蛭が蠢(うごめ)いている。
「こんな道の先に、本当に人が住んでいるのか」
前を歩く案内人に声を掛けた。
「へい、あのお方は人を避けておるようでございます」
「そんな変人なのか、それとも何かの事情を抱え込んでおるのか」
「それは、よう分かりかねます」
「ならば会って聞かねばなるまい。ここに住まう人を確かめるのも見分の一つである」
やがて道は小川を離れ山際を進むと、斜(なぞえ)を切り開いて建てた粗末な小屋があった。小屋の脇には斜を削って設けられた炭焼窯があり、揺曳(ようえい)する煙を男が見上げている。
「あれが源右衛門です」
案内人が男を指差した。
男が虫でも叩き落そうとしたのか、木切れをすっと横に払っている。
「あの御仁か」
その男の何気ない所作を見ていた神沼貞太郎は、徒(ただ)ならぬ気配を感じ、山人を呼ぶにはおおよそ似つかわしくない敬語を使っている。
「源右衛門、先に知らせがあったと思うが、奉行所の方々のご見分じゃ」
呼び掛けられた声に、男が振り向いて頭を下げている。
神沼貞太郎は一行を先に行かせ、坂田大膳を残してここに留まることにした。
「我は京都東町奉行所与力神沼貞太郎と申す。ここに控えるのは同心坂田大膳である。源右衛門とやら、いささか尋ねの儀がござる」
礼儀を正した言葉に源右衛門が端座し、両手を衝いて頭を下げた。
「そう強張らずに膝を崩して楽にされよ。それでは話が聞きずらい」
先程、案内人より人を避けて暮らしていると聞いており、心配りをしている。胡坐をかいた源右衛門の前に、坂田大膳が運んで来た丸太に腰を下ろした。ここだけは灌木がぽっかりと切り倒され、蒼空がまぶしく見えている。
「我らはこの地の見分を仰せつかり、ここに住まう住人についてもその一つと心得ておる。そこで、まずはそなたのことであるが」
「へい、私奴は炭焼きを方便(ほうべん)とする山人でございやす」
話を遮るようにした即座の返答に、やはり何かの事情を抱えていると神沼貞太郎は思った。
「さようか。ならば、こちらには源吾という童がおると聞いておるが」
「へい、今は姉と炭焼きに使う材を切り出しに行っておりやす。何かご無礼なことをしでかしやしたか」
「いいや、そうではござらん。昨日のことであるが、峠で狼に出くわした時に、危ういところを助けてもらった」
「さようでございやしたか」
「その源吾が別れ際に、姉のことを姉上と申していたが」
「へい、姉の絹江のことでやすが」
「いや、我が申すのは、山人では余り使う言葉とは思えぬということじゃが」
源右衛門が、顔を下に向けた。ここまでは、人を避けているとは思えぬ話しぶりであったが、一抹の不安を覚えた。
「先ほど、そなたは木切れを横に払われた。あの所作は、何がしかの心得があると見た。剣には然程(さほど)修行をしかしてこなかった我が見ても、そう思えたが」
地の一点を見つめ続ける源右衛門に、坂田大膳が痺れを切らして言った。
「京都東町奉行所与力神沼様の直々のお尋ねであるぞ。返答無くば、当方にも勘考(かんこう)せねばならないことがある」
「まあ、待て待て」
坂田大膳を制して、更に続けた。
「そなたを咎めようとしておるのではござらん。ただ事実を知りたいのみじゃ。ところで、奥方が見えないようであるが、小屋内に居られるのか」
武士の妻を指す言葉で尋ねられた源右衛門が、暫くして顔を上げた。目元には薄っすらと涙が滲んでいる。
「お尋ねの儀、あい分かり申した」
急に言葉使いが武士のものに変わった。
「私奴は元々丹波篠山の郷士の生まれで、田城源右衛門と申します。そこでは素養としておりました儒学の心得をお認め下さり、篠山藩に出仕しておりました」
やはりそうであったかと、神沼貞太郎は大きく頷いた。
「剣は若い頃に旅の修行者に居合を学び、後は我流で修練を致しました」
「いやいや、あれは並みの技とは思えぬが」
「人と真剣では相対したことも無く、いざの時に身を守るだけの術にござります。それで、妻は既に鬼籍(きせき)に入っております」
「何かの病でござったか」
「いえ、そのことと篠山藩を致仕したことについては、何卒ご容赦お願い申し上げます。決して罪を犯しての始末で無いことだけは申しておきます」
ぐっと口元を噤(つぐ)んだ様子に、これ以上の尋ねは難しいと考えられた。
「我のような若輩によく申し述べてくれた。ここの住人は、篠山藩浪人田城源右衛門と記帳しておくことにしよう」
「滅相も無いことで、今は山人なれば源右衛門とのみに願いまする」
「それで良いのか」
「武士の身分はかなぐり捨てておりますれば、そのようにお願い申し上げます」
身分による分け隔てが厳格な世に、武士から山人へと下るのには、よほどのことがあったのかと、涙ぐむ源右衛門の顔に憐憫(れんびん)の情が湧いてきた。そこで、知らぬが仏とするかと思い、坂田大膳に源右衛門と記しておけと告げた。居た堪れない気分で蒼空を仰ぎ、ふっと小屋から続く斜に目を移すと、岩陰に半身を隠した源吾の姿を見つけた。よく見ると、その手には小石が握られている。
「おお、源吾ではないか」
気さくに声を掛けた。
「源吾、ここに来てご挨拶をいたせ。絹江も一緒か」
源右衛門の鋭い声が飛んだ。
がさがさと切り倒した灌木を引きずりながら、斜を下って来た姉弟が跪(ひざまず)いて頭を下げた。
「源吾、昨日は手間を取らせた。改めて礼を申す」
顔を上げた源吾が不審な目つきでいる。さては、先程からの遣り取りを窺っていたのかと思えた。
「そなたの父上は奥床しい立派なお方である。我らは罪を犯さぬ限り咎めることは無い」
源吾の顔にやっと綻(ほころ)びが窺えた。
「そなたは幾つになった」
「十四になります」
「十四歳か、小柄ゆえもう少し幼いと思っていたが、武家なら元服の年頃じゃのう。して、姉上はどうじゃ」
「十六になります」
「そうか」
膝切の単衣に藁縄を腰に巻き、髪は後ろ手に結わえている。炭に汚れた顔であるが鼻筋が通り、むしろ麗姿明眸(れいしめいぼう)の相が窺える。衣服を整え出る所に出せば、相当な注目を集めることになろう。そんな思いを抑えて姉の姿を見つめていた。再び、源吾に向かって諭すように話した。
「岩陰に居った時に、小石を手にしていたようだが。あれは何の心算(つもり)であったのか」
懐にしまい込んだ小石を取り出した源吾が立ち上がると、十間ほど先の小枝を目掛けて投げつけている。まるで空気を切り裂くように小石が飛翔し、一寸もあろう枝を断ち切ってしまった。
「これは見事な技じゃ。案内人に石打が上手いとは聞いていたが、これほどまでとは思わなんだ」
「もし、父上に何かことがあれば、これを投げ打つ心算だった」
神沼貞太郎は脇の下に冷や汗が滲んだ。坂田大膳が何をぬかす童かと、驚いた顔をしている。
「父上を思うそなたの気持ちは十分に分かった。精々孝行を尽くせ」
こんな言葉を残しこの場を立ち去ろうとすると、源右衛門が土下座している。
「大変ご無礼を仕りました。先のことは、よしなにお取り計らいのほどお願い申し上げます」
大きく頷いて神沼貞太郎は、坂田大膳を促し先に行かせた一行の後を追った。道すがら坂田大膳の呟く声が聞こえている。
「ど偉い童がおるもんじゃ」
「それは親を思う気持ちか、それとも石打の技のことを言っているのか」
「その両方のことにございます。親への孝心は儒学で人として守るべき道として五輪が定められておりますが、ここの父子の親でありましょう」
「おぬし、好く知っておるな。五輪とは、他に君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信があり、かの孟子様がこれらの実践が大事と申されておる。また、四書の中の中庸では、君臣の義が第一とされておるな」
「流石に神沼様、私奴とは学が違いますな」
「余り褒めるでない、図に乗ってしまうではないか。要は、源右衛門が姉弟をよく訓育していたということであろう」
「まことさようで。それにあの石打の技は誰に習ったものでございましょう。京では印字打ちと申し、白川者が使っていた技でございます」
「恐らくは源右衛門が手ほどきをし、後は修練の賜物であろう。何せ糧を手に入れるための手立てであるからじゃ」
「なるほど、そのようなことかも知れませんな。それにしても、あやつは只者ではござりませんな」
どんな仔細があったのか、このように崢嶸(そうこう)な僻地に住まう田城源右衛門。枯淡(こたん)の暮らしをしているとは決して思えず、自らの落魄(らくはく)に忸怩(じくじ)たるものを抱えながら生きているのであろう。そのことが姉弟の訓育に繋がっていると思わざるを得なかった。
神沼貞太郎は、この後数日の間この地に留まり見分を済ませて京へ帰還した。
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