都橋探偵事情『座視』

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 徳田はコートのポケットからオメガの時計を出しテーブルに置いた。道子のチャイナブルーの内を通してオーナーの前まで滑らせた。パラディアンぺリアルのグラスを握る右手が震えている。道子がその手を押さえた。グラスの中で波が立つ。その震えは肩から背中まで連鎖した。道子は「はっ」と言って徳田に言われたことを想い出した。客はボックス席の二組。道子は気にせず徳田の後ろに立っておもいきり抱きしめた。バーテンは動揺せずにグラスを磨いている。オーナーはオメガの時計を左腕に嵌めた。「イーナン」と漏らしたように聞こえた。そのまま五分が経過した。徳田の震えも治まり道子の手を握り、もう大丈夫だありがとうと目で合図した。 「何かリクエストはどうですか」  中国語訛りでピアノ奏者の女が道子に言った。 「あなたがリクエストして」  道子が徳田に振った。 「ナットキングコール、LOVE」  女はピアノに戻る。澄んだ声で弾き語る。 「あれはイーナンの妹です」  オーナーがぼそっと言った。道子は身体をスイングしている。ブルーのワーゲンのカセットから流れていた。林はそれに合わせてハミングしていた。会ったことのない兄妹の合唱が徳田の脳で再生される。 「彼が言っていました。父に、お前は弱い者を助ける側に回るんだと」 「それでその彼はどうでしたか?」  オーナーはやさしい顔を徳田に向けた。 「天国に逝って、もうこれで充分だよと、神様が呆れるほど、弱い者を守り続けるでしょう」  徳田が立ち上がる、道子がバッグから札入れを出す。バーテンが微笑んで首を振った。オーナーが出口まで道子をエスコートした。LOVEの最後のフレーズがドアの閉まりと共に消えた。  トルコ風呂の受付が客を送り出し外に出るとさっきのベンツはなかった。都橋商店街の二階廊下の手摺に寄り掛る二人に会話は途絶えていた。
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