都橋探偵事情『座視』

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「所長、名刺を作って下さい、林 義男、はやしよしおとローマ字でルビを振って下さい」  トレンチコートを羽織り直して廊下に出た。 「この一件このまま動きます」  林が手帳を叩いて言った。徳田が見送る。 「アディオス」  徳田が知ったかぶりして別れの挨拶をした。背を向けた林がその場ターンして言った。 「所長、アディオスは長いお別れの意味で縁起が悪い、この場合チャオが適当ですよ」  林が笑って訂正した。また恥を掻いた。廊下で日出子が見ていた。笑っている。 「知ったかぶりすんじゃねえよ探偵」  日出子に見られたのは失敗だった。しかしこれからスナックのママになるのに言葉使いはガキの頃から変わらない。岡林が心配していたが胸中察する。  町田市から横浜の緑区に流れ込む恩田川がある。その川縁には形だけの農地が広がる。ベッドタウンとして住宅地の開発が進む。農家は米野菜を作るよりディベロッパーの策略通り不動産を選んだ。その恩田川沿いの一角に広大な土地を購入し宿舎を運営しているのが吉崎工業である。 「おい、じいさん、名前と住所ぐらいあるんだろ?」  手配師が事務所前で面接に来た男に言った。スポーツ新聞の作業員募集を見て面接に来たのは松下浩と名乗る還暦を過ぎた男である。 「これに記入してください。それから資格証があれば見せていただけますか」  松下はペンを持ったまま履歴書の記入が進まない。事務員は紙を自分に向けた。
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