都橋探偵事情『座視』

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「字が苦手な人はここにもたくさんいます。代筆してあげましょう」  胸の名札に平野と記してある。名前と年齢、現住所は無し、出身は長崎だと言う。親族はいるのかどうか不明。戦地から引き揚げてから一度も故郷の長崎には戻らなかった。三十年が過ぎている 「引き上げて来てから飯場を渡り歩いていたの?」  松下は頷いた。貧しくて戦場に行った。引き上げて半場暮らしだが苦しくても飯が食えた。また貧しい故郷に帰る気にはならなかった。 「戸籍を復活させましょうか?少し時間が掛かるけど。生まれ故郷の地は忘れてはいないでしょう。それが分かれば役所に連絡が取れますよ」  平野は丁寧に対応した。松下は首を横に振った。現住所は松下の記憶を反映させ、一番長く居た宿舎辺りの偽りの住所を記した。事故さえなければ偽造でも問題ない。ただし災害に遭うと元受け会社からこっぴどくやられる。公共事業であれば災害の質、大小によってそれに伴うペナルティが科せられる。最悪指名停止処分である。しかし多くは事故災害が発生しても表沙汰にしない。元受けと下請けで処理をしてしまい発注元に明かすことはない。皆でグルになり災害を揉み消す。元受けの社長から最末端の飯場の飯炊きおばさんまでに口止めされる。いや口止めされなくても知らん振りする。話題になるのは酒の席で「あの馬鹿」と安酒のアテになって終わりである。関係者全員が座視する。災害に遭った当人には休んだ日数分の手間を元受けが支払うことで納得させる。職人は『怪我と弁当自分持ち』と言うほど割り切った考え方だった。故意ではないが怪我をすると親方に謝罪する。誰でも好きで痛い思いをするわけではない。仕事を熱心に進めている中でのヒューマンエラーもある。それでも「申しわけありません」と頭を下げる、そういう世界である。 「明日から建築現場に出てもらうようになりますがいいですね。分かっていると思うけど怪我だけはしないでください。嘘っぱちの書類だから何かあると問題が大きくなる。まあ、ここはそんな人ばかりだけどね」  松下は人として扱ってくれた若い事務員の平野に深く礼をして宿舎に案内された。
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