都橋探偵事情『座視』

16/264
前へ
/264ページ
次へ
「夫人から保谷野さんに電話を入れさせます。それで終了と言うことでお願いします」  徳田が立ち上がると子分がドアを開けた。昼から営業している焼肉屋から肉の焼けるいい匂いがした。 「ああそうそう、アンネに会長は気付いていないと念を押しといて」  保谷野が高笑いしながら言った。顎の傷口が開いたように見えた。徳田はその足で東京の中野に向かった。この依頼を片付けておけばだいぶ動きが取れる。本来一段階を一日のノルマと決めている。次の段階に移行するにはシミュレーションが欠かせない。それを怠ると勇み足となり後戻り、いや最悪の結果となることもある。しかし林が持って来た労災ゴロ事件にいち早く着手したい。そのためには抱えている依頼に区切りを付けることである。  大縄興行の会長夫人が入れ込んでいる男が所属する小さな劇団はマンションの地下室にある。売店があり劇団の売れっ子のグッズの他にコーヒーや酒類も販売している。この日は稽古である。徳田は駅前で購入したカステラを中年の劇団員に差し入れした。 「彼のファンなんですけど、いたらサインをお願いしたいと思いまして」  徳田は所属劇団員のプロフィールから中村優を指差した。 「ちょっと待ってね」  中年の劇団員は舞台まで下りて中村に声を掛けた。中村が徳田を見て不安そうな目で一礼した。徳田はソフトのつまみを掴んで応えた。黒いコートに黒のソフト帽の男がファンだと聞かされても不安でしかないだろう。それに男色も多い。金持ちならパトロンになってもらう。市場もホストも辞めて芸に打ち込めるなら男女の性は問わない。 「こんにちは」  爽やかな汗の匂いがする。決して臭くない柑橘を絞ったような汗である。大縄会長夫人はホストクラブで知り合い。この柑橘の汗に痺れてしまったのだろう。
/264ページ

最初のコメントを投稿しよう!

76人が本棚に入れています
本棚に追加