4月11日(水) 雨のち晴れ 2

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4月11日(水) 雨のち晴れ 2

「さ、中へどうぞ」  背中を押され、どきどきしながらお店に入る。マスクをしていても、かすかに感じるパンの匂い。  ほんとうにここ、パン屋さんだったんだ。  あまり広くはないお店の中には、カゴに入ったパンが並んでいる。あんぱん、クリームパン、カレーパン、チョココロネ……一目見てわかるような、定番のパンが数種類。どれもふっくらしていておいしそう。  カゴのひとつひとつには、手書きの値札がついていた。パンの名前の下には、かわいいイラストが描かれている。  私のお腹がくうっと鳴った。そういえばまだお昼を食べていない。 「よかったら、ひとつどう? 今日は雨でお客さん少ないからさ」  女のひとがそう言って、クリームパンの入ったカゴを差し出す。  どうしてわかったんだろう。私がクリームパン、好きだって。  けれど私は首を横に振る。 「お金……持ってないんです」 「いらない、いらない。あなたにあげる。売れ残ったら悲しいから、食べちゃって」  女のひとが手際よく、パンをひとつ袋に入れて私に差し出す。少し戸惑いながらも、私はそれを受け取った。 「……ありがとうございます」 「うん。こっちに座って食べてって。いま、コーヒーいれるから。あ、紅茶のほうがいいかな?」 「いえっ、そんな、おかまいなく」  どう見ても、ここはカフェといった感じではない。 「いいの、いいの。私もちょうどお茶しようと思ってたところなの。つきあってよ」  背中を押されて、カウンターの内側へ回る。レジの後ろにもうひとつ部屋があり、その隅っこの椅子に座らされた。  私はそっと周りを見回す。大きなオーブンやミキサー、パンをこねる作業台。  ここでパンを焼いているのか……でもこんなところにこんなパン屋さんがあったなんて、まったく知らなかった。  袋をかさりと開けて、中をのぞく。そっとマスクをはずし顔を近づけると、甘いパンの香りが鼻先をくすぐった。 「先に食べてて」 「はい……いただきます」  小さな声でつぶやいた私に、「どうぞー」と明るい声が返ってくる。  ひとくち食べた。ふわっとしたパン生地と、やさしい甘さのカスタードクリームが口の中で溶け合って、なんとなく胸がほっこりする。 「おいしい……」  思わず口に出したのと同時に、頬に熱いものを感じた。あわてて指先でそこに触れ、自分が涙を流していることに気づく。  え、なんで? なんで私、泣いてるの?  自分で自分がわからなくなって、パニックになる。  泣いているところなんて、誰にも見られたくなかった。学校でも家でも、絶対泣いたりしなかった。それなのにどうして。どうしてこんなところで、私、泣いているんだろう。  はっと顔を上げると、カップをふたつ持った女のひとが私の前に立っていた。私はさりげなく顔をそむけて、クリームパンを口にする。  そんな私のそばに、白い湯気を立てたマグカップがことんと置かれた。 「おいしいって言ってもらえてうれしい。作ってよかった」  ゆっくりと顔を上げると、カップを持った女のひとが静かに笑って隣の椅子に腰かけた。そして紅茶にふうっと息を吹きかける。  お店の中はいい匂いがして、あたたかかった。濡れた窓の向こうには、風に揺れる満開の桜が見えた。  そしてはじめて会ったひとと、こうやってお茶を飲みながらパンを食べている自分が、とても不思議で仕方なかった。 「雨、やむといいねぇ……」  女のひとが窓の外を見ながらつぶやく。私は鼻をすんっとすすって、クリームパンをまたひとくち食べる。なんとなくこれは、大事に大事に食べようと思った。  私がパンを食べている間、女のひとはなにも聞かなかった。  学校は? 行かなくていいの?  これからどこへ、行こうとしていたの?  どうしていま、泣いているの?  ――なにも、聞こうとしなかった。  クリームパンを食べ終わり、飲み終わったカップを置く。そしてまたマスクで顔を覆う。 「ごちそうさまでした。とってもおいしかったです」 「ありがとう」  女のひとはにっこりと微笑む。『ありがとう』って言いたいのはこっちのほうなのに、と心の中で思う。 「あ、雨、小雨になってきたよ」  カップを置いて、女のひとが立ち上がった。パンの並ぶ棚の向こうに、切れていく雲が見える。 「よかったね。これで濡れずに帰れるね」  振り返った女のひとに、私は小さくうなずく。 「あの……」 「ん?」 「あの、ここ……どこなのか、教えてください」  帰り道がわからなくなったことを伝えると、女のひとは私の前でおかしそうに笑い出した。 「迷子だったのかぁ。かわいいね」  顔がかあっと熱くなる。 「大丈夫だよ。でももう少し待って。うちの息子が帰ってきたら、送らせるから」 「いえっ、そこまでしていただかなくても……道を、教えていただければ」  ちゃっかりタダでパンと紅茶をいただいた上、見ず知らずのひとに、そこまでしてもらうなんてとんでもない。 「ん? そう? あなたのおうち、どのへんなの?」 「えっと、みなみ町です」 「坂の下だね。何丁目あたり?」  私が説明すると、女のひとは紙とペンを取り出し、地図を書きはじめた。 「どう? これでわかるかな?」 「うーん……」  はっきり言ってわからなかった。この地図、あまりにもおおざっぱすぎる。パンの値札についたイラストは、あんなに繊細でかわいらしかったのに……あのイラスト、このひとが描いたんじゃなかったのかな? 「え、わからない? ここがうちでしょ。坂道を下りて、この角を曲がって。こっちが駅で、こっちが図書館ね」 「ああ……」  いつも行ってる図書館だ。  カウンターの上に地図をのせ、ふたりで頭をくっつけるようにしながら話していたら、窓から明るい日差しが射し込んできた。 「あ、ほら、雨あがったよ」  女のひとが店のドアを開ける。カランとベルの音がして、雨上がりの空気が流れ込んできた。 「よかったねぇ、ひとりで帰れそう?」 「はい。大丈夫です」  本の入ったトートバッグを肩に掛け、地図を持って店を出た。 「パンと紅茶、ありがとうございました。それから地図も」 「どういたしまして。よかったらまた遊びにおいで」  そう言ったあと、女のひとはハッとした顔をして付け加えた。 「うちの店、水曜日しかやってないけどね」 「え?」 「このパン屋はね、本職じゃないの。普段は普通の会社員」 「そうだったんですか」 「この二階が私の家ね」  女のひとが二階を指さす。  私は小さくうなずいて、今日が水曜日だったことをはじめて知る。学校に行かないと、曜日の感覚が麻痺してくるのだ。 「じゃあ……」  少し勇気を出して、口を開く。 「水曜日にここに来れば、パン、買えるんですね?」 「うん。水曜日はやってるよ」  私はもう一度うなずく。  水曜日か……来れるかな。雨が降っていれば、いいんだけどな。 「来れたら、おいで」  その声に顔を上げる。女のひとはやさしい表情で、私のことを見ている。 「はい」  返事をして頭を下げた。傘立てに置いてあった傘を手に持ち、濡れたスニーカーで一歩踏み出す。 「またね!」  振り返ると、店の前で、女のひとが手を振っていた。私はなんだか照れくさくなって、もう一度頭を下げると、地面を蹴って走り出した。  雨上がりの坂道を一気に駆け下りた。雨に濡れた街が、小さく見える。  あのクリームパン、おいしかった。私はまた、あのお店に行ってもいいのかな……。  走りながら考える。いろんなことを考える。  やさしい春風が背中を押して、桜の花びらがふわりと一枚、私を追い越して飛んでいった。
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