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「30分で戻るから、千里君と引き継ぎしといてな」
幽霊の彼はそう言って、5階の窓から出て行った。
鼓膜を震わせず、直接脳に響くような声。窓ガラスをすり抜けた半透明の体。
(ホンモノだ……)
呆然と立ち尽くす俺の後ろで、ドアの開く音がした。
「おはようございます……ってあれ、先生は?」
振り向くと、ドア幅を埋める巨体を揺らし、千里が立っている。
文芸部の千里は同期入社だ。江坂先生の担当に、畑違いの俺を推したのは間違いなくこいつ。なぜなら俺に霊感があることを知っているのは、同じ体質のこいつだけだからだ。
「先生は取材? じゃあ、引き継ぎするか」
きょろきょろと辺りを見回して呑気な声を上げた千里に、俺は詰め寄った。
「お前、ふざけんなよ! なんだあの幽霊!」
「声を抑えろ。外に聞こえる」
「どういうことだよ! どうなってんだ? あれホントに江坂先生なのかよ?」
取り乱す俺を、千里は笑顔で見下ろした。
「著書近影と同じ顔だったろ? それにゴーストライターの真相を教えろって、飲み会でしつこく聞いてきたのは桃山じゃないか」
そう言われ、言葉に詰まる。俺は中学生の頃から江坂亜久里のファンで、同期が入社4年目で彼の専属編集者になったことには、密かにずっと嫉妬していた。先月の飲み会で泥酔した俺は、千里にねちねちと絡んだらしい。
「先生の秘密を知っているのは、編集長と俺たち、あとは俺の前任だけだ。飲み会でも絶対に漏らすなよ」
静かな声で脅すように言った千里は、
「まぁ、脱稿まで飲みに行く暇もないだろうけど」と付け加えた。
江坂先生の秘密。
ゴーストライターがいるわけじゃない。先生自身が幽霊作家なんだ。
そんなバカバカしい話、誰が信じるだろう。
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