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男は言った。
「あなたは神だ。
ただ一人の娘のために――あるいは私のために?
私に倒されて、あとはどうするのです。
誰がこの沼の主となり、この村を守ってゆくのか。
神までもが道理を曲げれば、
あなたがここを守らないならば、
この村にはますます災いが起こります。
あなたはそれをご存知だ。
だから悲しんでおられる。
俺にもそれくらいのことはわかる」
言いながら、男はハッとした。
――もし俺が本当に道理に従うつもりがあるのなら、何のためにここへ来たのか。
初めから、依頼を受けねばそれで済んだことだ。
俺は、たとえ領主に殺されてもここへ来るべきでなかったのだと男は思った。
そしてそのとき、できれば気付きたくなかった自分の心の底の思惑に、ようやく気付いた。
竜神が、その命を取れと自ら言うのを、俺は待ったのではなかったのかと。
竜神を倒せば英雄になれる。
そんな俗な欲に、剣士は舌打ちした。
自分は死を、そして打ち首という不名誉を怖れ、さらには底の浅い名誉欲にまで取りつかれているのだ。
自分にいささかぞっとする。
「帰ります」と男は言った。
負けてならぬ相手は、決して竜神ではない。
己が欲だ。
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