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帰宅中の僕の足取りはいつにもなく沈鬱だった。
溜息も止まらない、今日が何日で何曜日なのか、そんな基本的なことですら、僕には分からない。
休日返上の連続出勤もここまでくれば、ただの当たり前と成り下がる。
それで持って、毎日のサービス残業改め、強制残業には殺意を抱いても致し方なかろう、しかし、そんなことは遠い昔の話だ。
今やそれも甘受している、恐らく僕は苦行の末、悟りを開いたに違いない。
日付など所詮は人間の作ったモノ、神の領域に足を踏み入れた僕からすれば、知る必要も、気にする必要もない些末な事柄である。
僕は重力に逆らい、前腕を押し上げ、腕時計を確認した。時刻は九時、辺りは暗いので当然、夜の九時だろう。
ああ、今日も疲れた。会社とねぐらを往復する日々はもうやめにしよう。
僕はボロアパートの、四畳半のワンルーム。すなわち、僕の部屋へと帰ってきた。
畳の上には既に敷布団が引かれており、辺りにはカップラーメンの容器が散乱している。
動くたびに、異様な倦怠感を感じるんだ。気が狂って、全てを放棄したくなる倦怠感を。
だから、カップラーメンのゴミを捨てるのも、敷布団をたたみ、押し入れにしまい直すのも、面倒でやっていない。
そして、今日、全てが終わる。大家さんには悪いけど。
僕は、用意してあった椅子の上に登って、天井の梁に括った紐に顔を通す、深呼吸をし、椅子から飛び降りた。
これで全てが終わる、やった、僕はやっと、この苦しみから解放されるんだ。体が自由に動かせたなら、僕は今ガッツポーズをかましてるところだろうが、生憎、吊るされているのでそんなことは出来ない。
死ぬときはどういったものだろうか、話によれば、性行為より快感だとか、僕はこの時の快感を味合うためにハジメてを守ってきたのかも。
後は走馬灯なるものを見ると小耳に挟んだ。生まれてきてから、今までの、人生の総集編を見れるらしい、神様の粋な計らいだ。
だが、僕の人生なんて面白みの一欠片も無いだろう。真面目に勉強して、そこそこの大学に行き、中堅のブラック企業に勤め、思えば、つまらん人生だった。来世ではキムタクみたいになっていたいな。
荒縄が首の肉に食い込む感触がする、ああ、あと少しだ。あと少しで、酸素がなくなる。もうすぐで死ねるのだ。
しかし、僕は走馬灯も快感も感ずることは出来なかった。死ぬ最期までつくづく運が無いな、僕は。
途端、頭上で何が引きちぎられる音がし、急な浮遊感、次に尻餅をつき、痛みを覚えた。
あるのは、四畳半に無様に寝そべる僕と、首吊りように拵えた紐、(千切れているが)だけ。
虚脱感と絶望、ここに極まれりであり、肺胞は酸素を求める。
しばらく、唖然としていたが、思考が少しずつリブートしてくると、なんと腹立たしいことか。
やっと、やっと、この無限地獄から解放されると思ったのに、死ねると思ったのに、それすら、僕にはままならない。
そして、とうの昔に破綻したはずの理性が「何をやっているのやら」と、嘲るように囁いてきた。
途端、はらわたが煮えくり返るような、強烈な怒りが僕を支配する。腕を振り上げ、小汚い畳を叩き、そして僕は叫んだ。
「あああぁぁぁぁああーー」
ふむ、おかしい。
僕は衝動に任せて叫んだ。それは確かだ。
いやしかし、衝動とはこれほどまで効力を持っていたのか、先ほど叫んだ時から、僕の叫びは続いていた。
「ーーあああぁぁぁぁああーー」
いや、もう怒りは治った、叫び声も治らなければならないはずだが、尚も、僕は叫び続けてる。
何故だ? 声だけが脳の命令を聞かなくなっていた。
まるでゲームのバグみたいに、マヌケにも、叫んでやまなく、僕はそれに困惑している。
「ーーあああぁぁぁぁああーー」
本当におかしい。何故、声はやまない、気が狂ってしまったのか。
いや、意識はまだ有る。僕は死ぬのに失敗した、まだ、生きているはずだ。
僕は、体のあちらこちらを触って確かめた。胸に手を当て、首筋に手を当て、手首に手を当て脈を確認する、うむ、少し早いが鼓動している。
となると、首を絞めた際の圧力で声帯がおかしくなってしまったのかもしれない。
いや、そもそも、声は肺から空気を押し出さなければ出ないはずだ、首に何かしらの支障が加わったとて、叫び声が続く訳ではない。
一応、首を触ったり、撫でたり、少し絞めたりしたが、痛みはなく、ただ叫び声が虚しく四畳半に響き渡るのみだった。
そのうち、壁がドンドン叩かれ始める、まぁ、夜に叫び始めれば、僕だって壁をドンドンして意思の疎通を図ろうとするだろう。
言うまでも無いけど、このアパートに防音性など皆無であるからして、僕の常軌を逸した叫び声は、両隣の住民に筒抜けであることは明白だ。
けど、すまないな。もうこの声は僕の力ではどうすることも出来ないんだ……って、何諦めてんだ僕、弱気になるな。声が止まなければ、会社に行った際、ふざけていると勘違いされクビになるかもしれないだろう。
無論、欠席なども評価に響く、しかし、声が止まなければそれも仕方ないか、その前に、僕は会社に休みの電話を入れることができるのだろうか。
無断欠席は部長の叱責の対象になるから、それは絶対に避けるべきだ。会社をクビになれば、食い扶持がなくなってしまう。
けどまぁ、明日の朝には止まるはずだ。ほら、言うだろう、止まない雨はない、とか、明けない夜はないって。
数時間経っても、叫び声は継続していた。
隣の住人は、諦めたのか壁ドンをやめてくれた。と思うと、今度は玄関を叩き出したらしく、僕はそそくさと玄関を開ける。
そこには、大家さんが物凄く不機嫌そうな顔つきでいた。さしずめ、隣の住人に苦情を入れられ、叩き起こされたのだろう。
僕は、大家さんに訳を説明しようと善処したが、叫び声が湾曲したのみで、到底意味など伝わる訳もなく。
「ーーああぁあぁああーー」
大家さんは苦虫を噛み潰したような顔から、呆れ顔に変わって、溜息を放ちながら、静かにしてくれと遺憾そうに言った。
後は、職務満了と見たのか、大家さんは自分の部屋に逃げ帰って行った。
それもそうだろう、深夜に住人が狂ってしまったのか如く、叫び続けているのだから、大家さんの選択は正常だ。異常なのは僕なのだから。
結局、一睡もすることは出来なかった。
しかし、収穫はあった。水を飲めるようになったのだ。ずっと、叫び続ければ、無論、喉の渇くスピードも尋常ではなく。
けれども、叫んだまんま水を飲もうとすると、不意にうがいをしてしまう。ちゃんと、水を飲み込むには、一旦、叫ぶことをやめなければならなかった。
そうして、僕は発見したのだ。永遠に叫び続けているように思えて、実は断続的に僕は息継ぎをしている事に。
それは、一般的な普通の人間であるからして、僕が息継ぎをするのは道理だろう。
僕はその息継ぎと同時に水を飲むように心がけた。そうすれば、水を摂取出来るからだ。
そうこうしている内に朝を迎えた。
僕の予想に反して、叫び声は止まらなかった。これじゃ、会社に休みの電話すら入れられない。あとで事情を説明しても信じてもらえないだろう。
仕方ないから、僕は出社することを決めた。
ネクタイを締め直し、表前立を下方に引っ張り、気を引き締める。よし、出るか。
行ってきます。
「ーーあっあああぁぁーー」
流石に喚きながら満員電車に乗るのは迷惑だと思ったので、始発電車で会社に行くことにした。
早朝に鳴く鶏のような役目を僕は果たしつつ、閑静な住宅街を足早に進む。
やはり、僕の意思でないとはいえ、側からみれば、叫んでいるのは僕で間違いない。叫ぶと言う行為は日常生活では、まず殆どしない行為である、故に恥ずかしい。
しかしながら、会社をクビになるのは困る。そう言った強迫観念に押され、駅の改札を通過した。
ホームに着くと同時に、電車が滑り込んできた。叫びながら乗車する。
「ーーああぁぁぁぁあーー」
車内は始発だけあって、乗客は少なかったが、それでも、数少ない乗客に好奇の視線を向けられた。まぁ、それも仕方ない。
なんたって、僕は叫び続けているのだから、僕だって、そんなやつ電車の中で見つけたら、一定の距離を保ちつつ、ソイツの観察に耽るだろう。
右斜め前にいる、スマホをいじくり回す彼は、僕のことをSNSで拡散してるに違いない。
駅から徒歩五分、すれ違う人に冷徹な目で見られながら、僕は会社のロビーにて、始業時間を待った。
「ーーあああぁぁぁぁああーー」
叫び声は絶えず止まない。
僕の部署の部長は、とても真面目で、始業時間の前に来て、会社の鍵を開けて、オフィスの掃除をするのが日課らしい。
だから、ロビーで待っていれば、まず先に出会う社内の人間は部長であろう、そこで、部長を引き留め、話をする。
とりあえず、これより先のことは、部長と話した後に考えよう。
「ーーあああぁぁぁぁああーー」
しかし、何故、声が自分の意思で動かなくなったのだろうか? 難解な問題である。首を吊った際、脳に空気が行かなくなり、何かしらの障害が脳内にできたとか、それとも、ショックで何かしらのタガが外れたか、どちらにしろ困ったものだ。
同じビルに勤める人たち数人が、僕を気味がるように見てくる。まぁ、叫びながらロビーのソファに座って、待ちぼうけているのだから、仕方ないのだが……
自分の声を自制できないとは、惨めなもんだな。
うむ、喉もそろそろ痛くなってきた。
喉が外れそうだ。サハラのように口の中がカラカラで、咽喉が今にも潰れそうだ。叫び声はだんだんと上ずり始める。
「ーーあぁぁぁあああぁぁーー」
そんな、喉の痛みに苛まれつつ、部長を待った、ビルの警備員に声をかけられないか心配だったが、杞憂に過ぎず。
しばらくして、部長が自動ドアを通過するのが見えた。僕は、急いで部長に近づき、並走しながら訳を話す。
「ーーあああああ、ああーああぁぁぁぁーー」
しまった! 僕は叫び続けて喋れなかった。痛恨のミスだ。
部長は嫌悪感に顔を歪ませ、ふざけているのか? と訊いてきた。いや、断じてふざけてはいません、ですから、お願いですから、話を聞いてください。
「ーーああぁぁぁぁぁああぁぁぁぁーー」
駄目だ。部長が足早にエレベーターを目指す、まだだ、ここは粘り強く、僕の意思を伝えなくてはならない。
すると、部長は足を止め、じれったいと言った目つきで僕を睨みつけ、こう言った。君はクビだ! と。
「ーーああぁぁぁぁぁああぁぁぁぁーー」
僕はその言葉を聞かないために、ここまで、頑張ってきたのに。さっきの叫びは本心のものだったかもしれない。
部長は、警備員に声をかけ、僕をビルから追い払った。僕は必死に抵抗したが、虚しく、警備員に一撃、カウンターを加えられ、外へと追い出されてしまった。
僕は、出社する人間を尻目に、ソイツらとは逆を目指し、歩き始めた。当てもなく、どこかへ向かっていた。
足取りの悪さは過去最高記録を叩き出し、僕は体全体で落胆を表しているだろう。
なにせ、頑張って就活して、入社した会社をたった今解雇されたのだから。落ち込まない方がおかしい。
心内はこんなにもゲンナリとしているのに、叫び声だけは絶えず、やかましさを発していた。
クソ!
これも全てこの叫び声が原因だ。しかし、どんなに声を止めようとしても、声は止まらない。
そんな、イライラを携えつつ、気がつくと僕は海に辿り着いていた。意味もわからない不条理が頭の中を堂々巡りしている間に、僕はいつの間にかこんな所にまでたどり着いていた。
叫びながら、ぼんやりと海を眺める。
潮風が頬を撫で、磯の匂いが鼻腔をつき、波の音が掠れた叫び声の隙間から、耳朶を打つ。
しばらくして、僕は海岸にゆっくりと腰掛けた。同時に叫びに対する怒りは呆れに変わっていく。
「ーーああぁぁぁぁぁああーー」
海面は鮮やかな青であり、斜めから落ちる陽光に反射し、キラキラと輝いている。穏やかな白波が、寄っては離れてを繰り返し、見ていて飽きがこない。
叫びながら物思いに耽いる。黄昏る。喉の方は限界を迎え、痛いのだが、それすら快感へと変換される、ランナーズハイ的な。
「ーーああぁぁぁぁぁああーー」
まったく、僕は何をしていたのだろうか、そもそも、叫びが止まらないと言う異常事態、会社に行く前に病院に行くべきだった。部長との意思の疎通も、紙面で行えば良かったではないか。
何故そんなことに気付かなかったのか……
ほとほと、呆れたお笑い話だ。だいたい、叫び声が止まらないなんて馬鹿げた話である。
しかし、こんなにもぼんやりと、何もせずにしていることは最近なかったな。こう、海を見ていると、何もかもどうでも良くなってくる。会社をクビになったことも、自分の理想と現実とのギャップも、叫び声が止まないことも。
「ーーああぁぁあぁぁぁ……」
ん? 叫び声が止まっている。
やった! 叫び声が止まったぞ! 僕は小躍りで喜びを体現した。
一頻り、出鱈目なダンスを披露した僕は、いつも体を苛んでいた、枷のような倦怠感から解き放たれていた。
死ぬのはやめだ。人生、どうにかなるだろう。
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