第1話 坂の上の冒険①

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第1話 坂の上の冒険①

「人生には三つの「坂」がある。上り坂と下り坂、あと一つは何かわかるか?」  得意げに小鼻を膨らませている父を見て、わたしは「わかんない」と投げやりに答えた。  本当は知っていたが、正しい答えを口にすれば父はしゅんとするだろう。そういう人なのだ。 「「まさか」というんだ」  どうだ、恐れいったかと言わんばかりの口調だった。いちいち感心するのも癪なので、わたしは「そうか、それがあったか」と一応、目を丸くしてみせた。  これが今年の三月、新しく引っ越した町でわたしと父が交わした会話だ。  それから数週間後、正真正銘の「まさか」を目にすることになろうとは、その時はまだ、思っても見なかったのだ。                  ※  わたしの名前は古森瞳子(ふるもりとうこ)。中学二年生だ。  父の仕事の都合でこの「希人(きじん)町」に今年の春、引っ越してきた。  編入した学校は「丘の上西中学校」といい、その名の通り急な坂道を上りきったところに「でん」と建っていた。父の「まさか」発言は、私の新しい学校が坂の上にあると知った時のものだ。 「希人町」は坂道と森の多い美しい町で、どういうわけか外国人がやたらと多い。わたしが放課後に働いている喫茶店――本当はアルバイトはだめなのだけれど、お手伝いという形で雇われている――のマスターもご多分に漏れず外国人だった。  店の名は「雨迷人(あめいじん)」という。「あめいじん」と呼ぶらしいが、「め」が一つ多いのがわたしとしてはずっと気になっている。しかし店のマスターも常連客達も、そんなことをいちいちあげつらったりはしない。おおらかなのだ。  そしてこの大雑把な空気はどうやらこの「希人町」の隅々にまでゆきわたっているようなのだ。  わたしがそのことを強く感じたのは「雨迷人」で働き始めて間もないころだった。「雨迷人」のマスターはオットーという風船に手足をくっつけたような、朗らかで恰幅のいいおじさんだった。  常連客はみな、マスターのことを「オットさん」とか「オッちゃん」とか呼んでいて、呼ばれた方も一向に意に介さない……というか、喜んでいるふしさえあった。  この町に越してきたばかりの頃、わたしはお母さんと、ふらりとこの「雨迷人」を訪れた。東欧だか北欧だかしらないが、ヨーロッパ風の落ち着いたたたずまいに一目ぼれしたわたしが「こんなお店で働きたいなあ」と口走ると、カウンターの向こうのマスターがいきなり「よし、採用」と両手でマル印を作って見せたのだ。  マスターが物事にこだわらないということは、当然のように働く人間もその影響をうけるわけで、わたしの先輩に当たるもうひとりの従業員――やはりハーフの女の子だ――も、マスターに負けず劣らずのおおらかさだった。 「ジュゼベル」という、外国古典文学にでも出てきそうな名前のその女の子は、アルバイト初日、緊張で身を固くしているわたしにいきなり「あなたがトーコちゃん?私、ジュゼベルって言うの。「ジューゾー」って呼んでね」と言ってハグしてきたのだった。 「ジューゾー」は私より二学年上の高校一年生で、やはり中学の時から「雨迷人」で働いているらしかった。「ジューゾー」が言うには「まずコーヒーの入れ方を覚えるのに三か月、秘伝のカレーを覚えるに半年はかかるわね」という話だった。 「まあ、ようするに一人前になるには一年近くかかるってこと」  もともと高い鼻を、鼻の穴が見えそうなほど上に向けながら言い放つ「ジューゾー」を、わたしは尊敬の目で見つめるばかりだった。……だが、それがハッタリであることを、わたしは働き出してしばらくたった頃に知った。彼女はコーヒーも淹れられず、カレーも作れない店員だったのだ。  ところが、である。彼女の店内でのふるまいを見て、わたしの先入観はたちどころに吹っ飛んでしまった。彼女の常連客のあしらいは、水商売のお姉さんも裸足で逃げだすほどの鮮やかさだったのだ。  わたしがたちまち彼女のファンになったことは言うまでもない。いや、気が付くとわたしはこの坂道に立ち並ぶお店の人たちみんなのファンになっていた。  わたしがそれまで聞いたことのない、奇妙な話を耳にしたのは、そんなふうにこの町の空気に溶け込み始めた矢先のことだった。
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