ビターテイスト

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ビターテイスト

     静かな住宅街の、暗い夜道。  学生向けのアパートが多い区域であり、こんな時間でも、いつもはそれなりに人通りがあるのだが……。  今は誰の姿も見えなかった。おそらく学生たちも、それぞれ部屋で恋人あるいは友人たちと、楽しいひとときを過ごしているのだろう。  そう、今夜はクリスマス。かくいう俺――小森(こもり)春樹(はるき)――も、恋人の待つ我が家へ、足取り軽く急いでいるのだった。  俺の恋人――木南(きなみ)真美(まみ)――は、俺より三つ年下。同じ学生ではあっても、大学院に通う俺と、まだ学部学生である彼女とでは、微妙に生活サイクルが異なる。  下手をするとすれ違いになりかねないが、それでも「なるべく一緒の時間を過ごそう」ということで、付き合い始めてから彼女は俺の部屋に入り浸っており、いわゆる半同棲状態だった。  それはそれで嬉しいことだが、今日に限って言えば、もっと大きなハッピーがある。  今年の聖夜は、俺にとって「恋人がいる」状態で迎える、初めてのクリスマスなのだ! 「いやあ、一人じゃないクリスマスって、こんなに心が温まるものなのだなあ」  寒空の下、ニヤニヤしながら、独り言と共に歩く俺。  はたから見たら、さぞや気持ち悪いに違いない。場合によっては、不審人物として通報されるかもしれない。  周りに誰もいなくてよかった。  ちょうど、そんなことを思った時。  ふと、背後から、人の気配と視線を感じた。 「……!」  俺は歩き続けたまま、首だけでバッと振り返ってみる。  大丈夫、誰もいない。  いや。  十数メートル先にある、一本の電柱。今一瞬、そのかげに誰かがサッと隠れたようにも見えたが……。気のせいだろうか。 「……何か用ですか? 誰かいますか、そこに?」  少しの間、足を止めて、その電柱の辺りを凝視してみる。だが、人が出てくる様子はなかった。 「なんだ、やっぱり気のせいか……」  電柱に話しかけるなんて、滑稽なことをしてしまった。  俺は自分に苦笑してから、また前を向いて、家路を急ぐのだった。 ――――――――――――  部屋のドアを開けた俺は、仰々しいくらいの声で、帰宅を告げる。 「ただいま!」 「おかえりなさーい」  すでに、俺の部屋で待っていた真美。  二人だけのクリスマスパーティーということで、夕方から準備してくれたらしい。テーブルの上には、美味しそうな料理が並べられていた。  適当な厚さにスライスされたバケットパン、粒がたっぷりのコーンスープ、ホワイトクリスマスを思わせる白いポテトサラダ、クリスマスツリーのようにこんもりと盛られたグリーンサラダ、黄色と緑のコントラストが鮮やかなホウレンソウのキッシュ。  テーブル中央に置かれたチキングラタンには、一目でわかるくらいにゴロゴロと鶏肉の塊が入っているが、「クリスマスといえば鳥料理!」というイメージなのだろうか。  そして、もちろんクリスマスケーキも、今夜の主役として存在をアピールしていた。ちなみに、俺が思い描いていた『クリスマスケーキ』は、普通の白いホールケーキだったが、目の前にあるのは、色も形も全く異なっている。  黒っぽくて、やや細長いケーキだ。確か、ブッシュ・ド・ノエルという名称ではなかったか。丸太を模したケーキだと聞いた覚えがあるが、そもそも『ノエル』がクリスマスを意味する言葉だったはず。ならば『白いホールケーキ』以上に、これこそが真のクリスマスケーキといえよう。  俺は文系ではなく理系、それも理論系ではなく実験系。化学反応が進むのを待つ時間とか、遠心分離機で長時間サンプルを回している間とか、ゆっくりと進む電気泳動とか、染色・脱色のために浸けておく作業とか……。少しだけなら合間にフラッと一時帰宅して、用事を済ますことも可能なような、そんな研究をしていた。  今日も、そうやって夕方に軽く抜け出して、ケーキを買いに行くつもりだったのだが……。残念ながら思った以上に忙しく、複数の実験が重なり、その時間を作れなかった。せっかくのクリスマスなのにケーキ抜きになるかと心配したのだが、大丈夫、きちんと真美が用意してくれていたのだ! 「全部が全部、私の手作りってわけじゃないけど……」  まず彼女は冷蔵庫を開けて何があるか確認、それから食材を買いに出かけ、ついでに出来合いのものも買ってきたのだという。  まあ、見ればわかる。ホウレンソウのキッシュとブッシュ・ド・ノエルは、真美が作ったにしては整い過ぎているし。 「十分だよ! 一人でこれだけ用意するのは大変だったろう? ありがとう!」  俺はギュッと彼女を抱きしめると、感謝の気持ちを込めて、その頬にキスをした。  真美は化粧っけのない女子大生なので、こういう『頬にキス』みたいなことをしても、化粧品の感触はない。純粋に、彼女の味と匂いと肌触りだ。その点、ノーメイクフェチの俺には嬉しくて、つい舌でペロッと舐めてしまう。 「こら、春樹。そういうのは後回しよ。まずは食べましょう」  いや、俺もつもりで抱きしめたわけではないのだが……。まあ一瞬とはいえペロッとしたのは事実なので、 「ごめん、ごめん。そうだな、さあ、食べよう!」  と、素直に謝まるのだった。 ―――――――――――― 「ふう……。食べた、食べた」  テーブルの上の料理をたいらげて、「これ以上は食べられない」と言わんばかりに腹をさする俺。 「よく食べたわねえ」  呆れたような、感心したような声を真美が上げる。  別に俺一人で食べ尽くしたわけではなく、彼女も一緒になって食べたのだから、この態度は少し奇妙に思える。クスッと笑ってしまう俺だが、彼女が不思議そうな目を向けてきたので、適当に誤魔化すことにした。 「いや、ほら……。ケーキがケーキらしくなかっただろう? でも、だからこそ食べやすかったというか……」 「ケーキらしくなかった、って……?」 「ああ、色も黒っぽかったし……。それに、思ったより甘くなかったから、食べやすかった」  先ほどの「食べやすかった」を繰り返す。  俺は男にしては甘党だと自覚しているが、それでも食後の満腹状態では、ドカッと甘いものを大量に出されても食べられない。「甘いものは別腹」という言葉は、女性にしか適用されない特殊ルールだと思う。 「あと、ちょうど量も適度なケーキだったな。『クリスマスケーキといえば白いホールケーキ』って思ってたけど、それだと二人じゃ食べきれないだろう?」 「ホールケーキにも、サイズは色々あるけどね」  と、俺の固定概念に対して苦笑してから。  真美は蘊蓄を語り始めた。 「ブッシュ・ド・ノエルって、薪とか切り株とかをイメージして作られてるから、普通は茶色なのよね。こんなに黒っぽくなくて」 「へえ、そうなんだ」  こういう時は、気持ち良く語らせてやった方がいい。経験からそう判断して、俺は話を促した。 「茶色になるのは、ココアクリームを塗るからなんだけど、今日のブッシュ・ド・ノエルだと、チョコレートを使ってたみたい。それも、かなりビターテイストのチョコレート」 「ああ、だから甘さ控えめだったのか。それに『かなりビターテイスト』といっても、口当たりの良い苦味だったなあ」 「うん、そこは私も認める。材料のチョコも高級品っぽいし、このケーキ自体、高かったんじゃないの?」  ……ん?  半ば聞き流していた俺は、妙な引っ掛かりを感じる。  よくわからない、ゾワっとした感覚。だが、それがハッキリとした形になる前に、真美は話を先に進めていた。 「でもね、そもそもブッシュ・ド・ノエルって言葉自体が『クリスマスの木』を意味してるのよね。だから黒くしちゃうのは、ちょっと……。だいたい春樹だって、私の『南』って名前に合わせて『クリスマスの木(ブッシュ・ド・ノエル)』にしたんでしょう?」  違和感が、ようやく形になった。 「いやいや、ちょっと待て。その言い方だと、まるで俺がケーキを選んだみたいじゃないか」 「あら、違うの? じゃあ、ケーキ屋の店員さんにお任せ?」 「そうじゃなくて、これ用意したのは、真美の方だろう? 真美こそ『小』に合わせて、丸太のケーキを選んでくれたんじゃないのか?」 「……え?」  ただでさえ大きめの目を丸く見開いて、最大限の驚きを顔に浮かべる真美。  この段階で初めて、俺たちは気づいたのだった。  互いに、相手が買ってきたケーキだと思い込んで食べていたことに。  二人とも買った覚えのないケーキが、いつのまにか冷蔵庫に入っていたことに。 「気持ち悪い話ね……」  今や真美は、激しい嫌悪の表情を浮かべていた。 「まあ、それはそうだが。もう食べてしまったからなあ」  努めて軽い感じで言ってみる俺。  いや、俺だって気味が悪いとは思う。だが毒が入っていたわけではないし――少なくとも今のところ体調は悪くなっていないし――、あからさまな異物が入っていたような歯ごたえもなかった。  だから俺は、真美の背中に優しく手を添える。 「もう忘れようぜ。美味しいケーキだったから、いいじゃないか」 「良くないわよ」  真美は眉間にしわを寄せて、俺の手を払いのけた。 「私が買ったのでもなく春樹が買ったのでもないケーキが、どうやって冷蔵庫に入ったの? あなた理系でしょう? 理屈で説明できない現象、嫌じゃないの?」  こんなところで理系とか文系とか持ち出されても困る。  俺が何も言えないでいると、 「どう考えても……。私でも春樹でもない別の人が、私たちの知らないうちに、部屋に上がり込んで冷蔵庫に入れたのよね? じゃあ誰? 留守の間に入ってくるって、泥棒かしら? それともストーカー?」  真美は、突拍子もないことを言い出した。 「どこからストーカーなんて発想が出てくるんだよ……」 「だって泥棒ならケーキ差し入れする方じゃなくて、逆に盗む方でしょう?」 「まあ、そうだけど……」  一瞬「プレゼントしてくれる方なら、じゃあサンタさんかな?」と口にしそうになったが、それこそ「サンタなんているわけないでしょ!」と返されるだろうから、ギリギリで思い留まった。 「だったら、ストーカーしか考えられないじゃないの。おおかた、まだ春樹に未練が残ってる元カノがいるのよ」  そう言って彼女は、ポケットから鍵を取り出し、俺の目の前でチラつかせる。  付き合い始めた時に渡した、俺の部屋の合鍵を。  元カノ。  確かに、そう呼べる女性は、俺にも存在していた。  クリスマスを一緒に過ごす恋人は真美が初めてだとしても、彼女が人生で初の恋人というわけではないからだ。  だいたい夏くらいに恋人が出来て、秋になると別れる……。それが俺の恋愛パターンだった。  判で押したように、三ヶ月だ。これまでの恋人は全員、ほぼ三ヶ月が経過した時点で、俺の元から去っていく。  この経験は「いつも三ヶ月でフラれるんだよなあ」と冗談めかして、真美にも話してある。まだ恋人関係になる前――ただの先輩後輩だった頃――に。  俺は話したことすら忘れていたのに、真美の方では覚えており、付き合い始めてちょうど三ヶ月の日に「今日は記念日だから! 記録更新の!」と言って、豪勢な手料理を振る舞ってくれたくらいだった。 「えぇっと……」  俺の目の前では、真美がユラユラと合鍵を動かしている。まるで催眠術師が操る五円玉のように。  それにじっと視線を向けながら、とりあえず俺は口を開いた。 「……元カノが合鍵を使って部屋に侵入した、って言いたいのか?」 「そうよ。どうせ春樹のことだから、今までの女の子たちにも、鍵は渡してたんでしょう?」  拗ねたような声で、俺を問い詰める真美。  俺は静かに頷いた。  確かに、誰が相手であっても、付き合い始める時に部屋の鍵を渡している。交際スタートを示す儀式みたいで、それ自体が嬉しかったのだ。  ただし、だからといって恋人が俺の部屋に入り浸るわけでもなく、部屋に来てくれるのは俺がいる時だけだから、合鍵の存在意義はなかったのだが……。  まあ真美にしてみれば、自分が半同棲状態のような付き合い方だから、今までの女も同じだったと思い込んでいるのかもしれない。 「でもさあ。別れる時には、ちゃんと返してもらってるぜ? そもそも俺がフッたんじゃなくフラれる方だから、元カノが俺に未練なんて……」 「そう、そこよ!」  何を思ったのか、真美は口をとがらせて、俺の話を遮った。 「要するに、春樹の方から嫌いになったわけじゃないんでしょう? まだ春樹は好きだったのに、仕方なく別れたんでしょう? だったら相手がストーカー化して『やっぱり春樹とやり直したい』って言ってきたら、よりを戻しちゃうんじゃないの?」 「いやいや、それはおかしい。だいたい『鍵は返してもらった』って言ったろ? だから……」 「鍵なんてどうでもいいのよ! そんなもの、こっそりスペアを作っておいたとか何とか、いくらでも説明つくもん! 大事なのは春樹の気持ち! 好きだった女の子からストーカーレベルで執着されたら、嬉しくてそっちへ戻っちゃうんじゃないの?」  ああ、これは……。  いつのまにか、理屈ではなく感情論になっている。  そう思いながら、出来るだけ優しい口調で、ゆっくりと答える。 「なあ、真美。そんなわけないだろう? 確かに別れた時点では、まだ気持ちも残っていたさ。でも今は違う。断じて違う。今の俺が好きなのは、真美ただ一人だよ」 「本当……?」 「ああ、本当さ」  気恥ずかしくなるくらいに大げさに、キザな笑顔を浮かべてみせる俺。照れている場合ではない、と思うからだ。 「それ、証明できる?」  そんなもの証明できるわけないだろう! ……と理屈では言いたいところだが。  俺はギュッと真美を抱きしめながら、耳元で囁く。 「愛してるよ、真美」  すると。 「……わかった」  先ほどの剣幕が嘘のように、静かに呟いてから。  真美は、ソッと俺の腕を振りほどき、 「私、シャワー浴びてくる。春樹はベッドで待っててね。隅から隅まで、きれいに磨いてくるから……。今夜はタップリ愛してね! 体で証明してね!」  一人、バスルームへ消えていった。  取り残された俺は、言われた通りにベッドへ入り……。  ふと。  真美の口にした言葉を、あらためて思い浮かべる。 「ストーカーか……」  俺の元カノたちが、そんなものになるはずないのだが……。  そういえば。  今夜、帰宅途中で感じた視線と気配。あれこそ、いわゆるストーカー的なものだったのではないのか……?  妙に背筋が寒くなって、俺は頭まで布団を被るのだった。 ――――――――――――  部屋を真っ暗にすると眠れない性分なので、俺は寝る時いつも、室内灯の黄色い豆球だけ()けっ放しにしている。  これを真美は嫌がっており、なるべく灯りに背を向ける姿勢で眠るようにしていた。つまり、俺を奥――壁側――にして、二人で抱き合うような形で眠るのだ。  本当は、こういうのは二人で少しずつ譲り合うべきなのだろうが……。  この夜は、俺の性分がプラスに働いたといえよう。  真夜中。  悪夢を見て、目が覚めてしまった。  電柱のかげから現れたストーカー女が、刃物を手にして俺を追い回す、という夢だ。  夢だから理不尽な部分があるとみえて、そのストーカー女は、元カノでも何でもなく、知り合いですらなかった。全く見覚えのない女性に襲われるという、狂気の内容だった。 「まあ俺は、そんなにモテる男じゃないから大丈夫……」  小さく独り言を口にしながら、パチリと目を開けると。  ベッドの近くに、長い髪の見知らぬ女が立っていた。  包丁片手に、俺を見下ろしながら。  全身が凍りついたかのように、俺は硬直してしまう。だが、 「なんで勝手に食べちゃうの! しかも、こんな雌豚と一緒に!」  叫び声と共に女が包丁を振りかざすのを見て、かろうじて体が動き出してくれた。 「起きろ、真美!」  右手で突き飛ばすようにして真美を起こしながら、左手で侵入者の腕を――刃物を持つ右腕を――押さえつける。 「ちょっと何なのよ、もう……」  夜中に叩き起こされた真美は、寝ぼけ(まなこ)を擦りながら文句を言っていたが……。 「……きゃあっ! どうしたの、これ! 誰よ、いったい!」 「警察に電話! いや、俺に加勢しろ!」 「わかった! 任せて!」 「何が加勢よ! やっぱり私よりも、こんな雌豚を選ぶのね!」  真美が状況を把握してから後は、もうてんやわんやで、むしろ俺が詳しく覚えていないくらいだった。  結局。  刃物を持っているとはいえ、侵入者は女性。しかもかなり、ひ弱な女性だったらしい。俺と真美の二人で、なんとか取り押さえることが出来た。  それから、警察に通報。  やってきた警官たちから色々と聞かれて、本当に大変なクリスマスになってしまった。 ――――――――――――  以下は、かなり後になってから――警察の捜査が完全に終わってから――、ようやく教えてもらえたことだが……。  あの夜、俺たちを襲った女性。彼女は、前の住民の元カノだったという。つまり、俺が今暮らしている部屋で、俺の一つ前に住んでいた男が当時、付き合っていた相手だ。  その男は甘いものが苦手だったので、彼女は今回、ビターなチョコレートケーキを用意したのだった。  そう。  あの女は、差し入れの相手を間違えていたのだ。この部屋に今でも昔のカレが住んでいると思い込んで――数年ぶりに復縁したくなって――、誰もいない間に忍び込み、冷蔵庫へ入れておいたらしい。  付き合っていた頃は、そうやって留守中に上がり込んで、プレゼントを仕込んだりするのを『サプライズ』と称して喜んでいた。そういう習慣の二人だったそうだ。 「そのために、彼は私に合鍵をくれたのよ……」  彼女は、しみじみと呟いたという。  元々は二人で食べるつもりのケーキだったからこそ、特におかしなものは混ぜていなかったのだろう。それこそ、ストーカーじみた行動に出る女ならば、薬を盛ったり、髪の毛とか爪とか入れたり、色々やっても不思議ではないだろうに。  そんなケーキではなくて良かった。これだけは、不幸中の幸いだったと思う。  この話を聞いて少し納得したのが、襲撃時の「なんで勝手に食べちゃうの! しかも、こんな雌豚と一緒に!」という発言。ストーカー女の思考回路なんて理解したくないのだが、一緒に食べるつもりのケーキを他の女と二人で食べられてしまったと思えば、ああいう言葉が出てくるのも、わかるような気がする。  わからないのは、彼女が俺を目視した後でも、元カレだと思い込んでいたこと。電柱のかげから見守っていたのも彼女だったわけだが、いくら暗い夜道とはいえ、見間違えるものなのだろうか。それほど、その男と俺は背格好が似ていたのだろうか。  それに。  ケーキを冷蔵庫に入れる時、部屋の備品がすっかり変わっていたことに、気づかなかったのだろうか。  だが、これに関しては、警察の人が説明してくれた。 「新しい女に合わせて変更したのね! 髪型もファッションも、そして部屋の模様替えまで! それほど新しい女に入れ込んでいるのね!」  彼女は、そう受け取っていたそうだ。  なお、事件の後。  当然のように、大家さんに言って、部屋の鍵は交換してもらった。二度と、以前の住民の関係者に侵入されないように。  そして、この一件を教訓として……。  その後。  大学院を修了し、就職した俺は、転勤などもあり、何度か引越しを経験することになった。もちろん、まだマイホームを建てるほどの身分ではないので、賃貸住宅の連続だ。  そうやって、新しく入居する際。  たとえ契約書に書いてあろうとなかろうと。  俺は不動産屋と家主に頼み込み、きちんと立ち会って確認した上で、必ず鍵は付け替えてもらうようにしている。 (「黒いクリスマスケーキ」完)    
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