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プレッシャー
「それは ?」
「優しさ ?」
「えっ ?」
それぞれの口から出た言葉こそ違っていたけれど、わたし達は同じ反応をしていました。
「そうです。トシの性格に原因がある。“ 優しさ ” なんて素人が何を無責任な、と思われるかも知れません。でもぼくは素人じゃありません。何故なら、これはぼくの専門でもあるからです。トシとまったく同じように苦しむアスリートの姿をこれまでたくさん見て来ました。
虐待や幼少時に負ったトラウマが原因であれば、ぼくはここまで出しゃばりません。でもトシはこんな素敵な環境で愛情に満ち溢れた毎日を過ごしてます。心に大きなキズが残るようなトラウマなんて抱えようがありません。ただし小さなトラウマなら誰だってある程度は抱えているものです。でもそれは様々な葛藤を経て、自らで克服していくものだとぼくは思っています。トシの不安障害も “その程度のもの ” と認識する必要があります」
「その程度って …そんなっ ……」
思わず早紀が声を洩らした。
「もちろん、ご家族からすればそんな軽々しいものではないでしょう。何せまだ11歳の少年なのですから …トシだって地獄のような苦しみに苛まれている事でしょう。でも周囲の大人達まで同じように苛まれていたら、状況はますます悪化します。繰り返しますが、トシの場合、そこまで深刻ではありません。周囲の大人達が冷静に判断して、大らかに支えてあげれば、必ず元のトシに戻れます」
「・・・でも ……だって …トシは …」
早紀がそう呟いて頭を抱えてしまった。
「わたし達はどう支えてあげればいいのでしょうか ?」
わたしは思わずそう聞いていました。
ヒロさんを咎めるような口調になってしまったような気がしたけど、自分でもそれはもう仕方がない事だと開き直っていました。
「原因は強い責任感から来るプレッシャー。これで間違いないはずです。トシの場合、優しさや人に対する思いやりが人より深い分、プレッシャーも通常の何倍にもなって襲いかかってくる。だから受け止め切れなくなったのです。そして自分を守る為に、無意識に心の目を閉じた。
だから今は、立ち向かえるプレッシャーかどうかを周囲の大人が判断してあげて、無理っぽかったら逃げ出せばいい。そして勝手に体が成長していくように、心も少しづつ成長させていけばいいんです。それは簡単な事ではありません。でもそこまで深刻な事ではない …そう信じて支えてあげるのです。
去年の全国大会予選の映像、ぼくは望月先生や野津監督にお願いして何度も見せて戴きました。特に準決勝、決勝での打席の様子、あれはもう、楽しくて楽しくて仕方がなかったぼくの知っている少年野球とは遠くかけ離れたものでした。あれは途轍もなく大きな重圧に晒されたトップアスリートの顔です。そしてぼくが最もよく知る顔そのものでした ……白石希美ってご存知でしょうか ?」
ヒロさんの目線がわたしに問いかけて来た。
「・・・マラソンの ? ……」
・・・あっ !
「はい、思い出されましたか ? 大きなニュースになりましたよね。彼女は10歳の時から、天才ランナーとして世間に注目されて、期待通り順調に各年代の長距離記録を更新して来ました。そして成人式を終えたばかりの今年1月、遂にオリンピックキップのかかった大阪国際女子マラソンのスタートラインに立った。そこで ……」
「倒れた」
「はい、正確には蹲ってモドしてしまった。あの決勝の最終打席のトシとまったく同じように …
断トツの優勝候補、五輪確実と言われ全国民が大注目する中、テレビの生中継が彼女の異変をすべて捉えてしまいました。
ぼくは、スポーツバイオメカニクスアドバイザーとして、オリンピック強化選手のトレーニングアドバイスをする機会が多いのですが、彼女は昨年の秋頃から原因不明の体調不良を繰り返していました。そして実際に接してみると、驚くほど優しくて責任感が強い女性でした」
「やはりプレッシャーだった ……のですか ?」
早紀が恐る恐るといった感じで訊いた。
「はい、あの大阪の前、トレーニングしている時の彼女は、あの時のトシと同じ表情をしていました。そして彼女も今、他者視線恐怖症と闘っています」
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