【長州】梅、かほる

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先日まで爆音と人の怒号や銃声、断末魔のような叫びが終わりなく飛び交う戦場で兵士を率いていた高杉さんは今、それとはかけ離れた静かな世界の中に身を置いている。 今もなお続いている幕軍との戦況報告を奇兵隊軍監である山縣さんに入れさせ、起き上がることさえままならなくなった高杉さんは床の中から戦場へと策を報じていたのを、僕はその傍らでずっと見ていた。 彼は病床の人となってからというもの、ひどい高熱に魘され増してゆく胸の苦しさから来る痛みに、ここのところ十分な眠りにつくことができていない。 そればかりか食も喉を通らず胃腸も弱っているせいで血の混じる胃液を嘔吐することすらあった。 日に日に体が弱まっているのは明らかで。 痩せた肩に目に見えて薄くなった胸板、喉が渇いたと口にした高杉さんに湯飲みを手渡した時の指があまりにも細くて。 僕は胸の底から込み上げてくる名前の付けようのない感情が入り混じり、思わず視線を逸らしてしまった。 それに気づいた彼は真っ直ぐな瞳をして、 『慶太郎。目を逸らすことは許さん。俺を見ぃ』 と言った。 ああ、とその時僕は自らの過ちに気づいた。 このひとは武士としての誇が高く、そして誰よりも僅かな周囲の変化にもすぐに気づいてしまうことを。 他人から哀れまれたり気遣われたりする事を何よりも嫌うひとだった。 一度、他愛も無い話が切欠となり口論となった事を思い出す。 それは戦地から離脱し療養の為にこの地にやって来て三日ほど経った時の事だ。 その日、高杉さんは体調が思わしくなかったのか、不機嫌さを隠すことなく様子を見に来た僕を見るなり酒を持てと言い放った。 病人相手にむきになるのは馬鹿らしいことだと、兄のように慕ったあの人たちに笑われてしまうかもしれない。 でも僕はこの人に元気になってほしいと。 己の正義を信じ、世の中の世情に囚われることも無く、自由な発想とともに走り続けていたあの頃の高杉さんに一日でも早く戻ってほしくて。 どれほどの苦痛を高杉さんが耐えているかなど思いやる気持ちを忘れ、僕は感情を抑える事ができず酷い言葉を口にしてしまった。 『貴方には責任があるんです。それを果たす前に放棄するというのですかっ。もう自分は戦場に立てはしないと弱音を吐いてそれで満足ですか。今この一瞬でさえもあの地で皆は戦っているんです。貴方はその人たちを見放すんですか!?』 これは何も出来ぬ自身への憤りと、見えぬ明日への恐怖から零れ出る言葉を押さえ込むことが出来なかった。 『責任』 そんな言葉で高杉さんを縛りつけようとしている僕はあまりに身勝手だ。 そもそも初めから彼にそんなものありはしないのに。 禁門の変以降、京を追われた長州は多くの同志を失うと同時に、京でのまとめ役であった木戸さんの生死すら分からなかったあの頃。 最早藩内で高杉さん以外に僕たちを率いてくれる人材などいはしなかった。 幕府に対し恭順という舵を切った長州は、すぐさま藩の意向に背く者の粛正なるものが始まった。 昨日まで傍らで共に笑っていた人間や肉親にまで刃を向けられ、もはや誰を信じたらいいのかも分からぬ状況であったのだから 『泣くな、慶太郎。覚悟があるなら俺とともに来い。お前に、俺の見る世界を見せてやるけぇ』 見上げた彼から差し出された手のひらがとても大きくて。 僕は迷うことなく、彼の手を取ったんだ。 夜半、石州口の指揮を執っている大村さんから知らせが入った。 慶喜公の実弟が治める浜田藩の城を落としたと。 その後も届く勝利の知らせはやむことはなく。 「高杉さん。僕たちの勝利は目の前ですよ」 もしもこの戦に勝つことが出来れば世の中が変わる、時代が変わると周囲は今沸き立っているけれど─────。 ただ僕に言える事は、目の前にいるこの人の静寂な瞳がすべてを語っているような気がしてならない。 『そろそろ。休ませてはくれんか。今は木戸さんや大村さんもいる。俺などいなくとも、どうとでもなるじゃろう』 と。 静かな眼差しがそう言っているように思えた。 もう、この人はそう長い時を生きることが出来ないのかもしれない。 「死」という言葉が脳裏に浮かぶ。 いやだと、どんなに首を振って追い払おうとしても消えては現れ、現実を受け入れる覚悟が出来ない弱い心が闇に覆われてくようで。 瞬きする事すら恐ろしくて。 このひとが今にも目の前から消えてしまいそうで。 そう時を置かずして『おいていかれる』という現実に。 言葉を幾ら並べたとてこの言いようのない恐怖に、僕は身を震わせるしかない。 日一日と意識を保つ間隔が短くなり、一日中眠りについている日もあった。 このまま目覚めないのではないかと、眠らぬ夜を何日も過ごしたこともある。 周囲からは体を壊すからやめておけ、一時でも他の者に任せたらどうだと言われることもあったが一進一退を繰り返す状況に、休んでなどいられなかった。 彼が好む梅の花がひとつふたつと咲き始めたある夜。 苦しみから解かれ僅かな眠りにつく彼の居室前の縁側で、僕は人知れず声を殺して泣いていた。 声を出さぬように、誰にも知られないように。 握った拳を口に当て、膝に置いた片方の手のひらも無意識に握ってしまっていた。 口元からは息が漏れ、目元や鼻からもあふれ出るものすら拭うこともなく。 静かに背後の障子が開かれ、気配に驚いた慶太郎はびくりと身を躍らせる。 反射的にそちらを向こうとするも、背後から強く抱きすくめられ肩口には自分の者ではない者の浅い呼吸音が耳を撫でた。 「・・・・・た、高杉、さん・・」 「・・・・・泣くな、慶太郎」 これまでに聞いたことのないほど、やさしい声音。 顔を見ようと振り返るそぶりを見せた慶太郎に、晋作は腕の力を強めることで制した。 「このまま・・・。俺の言うことを聞くんじゃ」 掠れる声で紡がれる言葉は儚そうでいて、有無を言わせない力がある。 「俺に残された時は残り少ない。この世に悔いが残るとすればたったひとつじゃの。・・・お前との時を過ごしてやれんことじゃ」 細く掠れた声で紡がれる言葉は、とても甘くて。 甘くて、とても悲しい告白。 「こら、泣くなと言うちょうろうが」 抱かれる彼の腕に縋るように掴んで、我慢できずに嗚咽を漏らす僕をからかうように笑った。 「ひどい人です、高杉さんは。・・・とてもひどくて、ひど、く・・・やさしい人です。こんな状況で、も僕のこっ、とを気に掛けっ・・て、くれ、て」 しゃっくりを繰り返し、思うように言葉を告げられない僕を最後まで辛抱強く聞いてくれた。 その間、彼の掴んでいる腕のもう片方で僕の頭を撫でる。 仕草の一つ一つが『愛している』と告げられているようで。 『共にいてやれなくてすまない』と謝られているようで。 胸が、こんなにも苦しい。 「今から俺がお前にする事は、俺の病を移してしまうかもしれん。・・・それでも受け入れてくれるか?」 直接的な言葉でなくとも彼が言わんとしている意味は理解できた。 “口吻け”をしても良いかと。 相手がどうであれ、自身が決めたことは実行してきた彼からは想像できない言葉に、僕は涙で腫れた目を大きく見開きながら振り向いて。 その先に彼の唇があり、自然と合わさった。 これが彼の謀ではないことは、彼の驚いた表情がそこにあったことが証明していた。 互いの驚いた顔を見つめ合ったのは一瞬で。 僕の体は後ろに引かれ、彼の胸にもたれ掛かるような体勢をとる。 その先は緩やかな笑みを浮かべたまま、瞳を閉じて合わさった唇を離すこともなく、深く深く繋がりを強くした。 息を吐くため、僅かに離された合間に彼はぽつりと零す。 「初めてらしくないことを言うたが、言わなくともなるようになるもんじゃな」 にっと彼が笑う。 僕が大好きな表情が視界に広がる。 「病なんか怖くありません。僕は今、とても幸せです」 この表情を目に焼き付けておこう。 彼がいなくなってしまった後でも、僕が力強く生きていけるように。 終わりがすぐそこにあると思うと、息が苦しくなるけれど。 大切なのは、今目の前にある彼の存在が確かにあって。 その目が僕を、僕だけを見てくれているということ。 「慶太郎」 「はい」 「もし『来世』というものがあるなら、その時またお前と結ばれたいのぅ」 視線を外し、僅かに欠けている月を見上げながら呟く。 その目には“その時”を思い浮かべているのか、楽しそうだった。 「僕も、来世でまた高杉さんと結ばれたいです」 来世のことなど、あるかどうかも誰にも分からぬ夢物語。 それでも、そのような事を話せるこの時が幸せで。 いつまでも続いてほしいと願ってしまう。 「死してこの身が朽ちようとも、この胸の想いは慶太郎の心に寄り添って生きていく」 僕の胸の上に掌をのせて、ぽんぽんと何度か撫でる。 それだけは忘れてくれるな、と強い眼差しで伝えてきた。 それに応えようと口を開く前によっと一声上げると、彼は僕を足の間に抱き込んで、縁側の外に足を投げ出した。 ふたりで同じ方向を見ながら静寂に包まれる。 「僕の返事を聞いてくれますか?」 「・・・おう」 闇の中にぽつりと咲く小さな梅の花を見つめて。 「僕は、高杉さんと生きていきます。今世も来世も、きっと。きっとその先も・・・・・」 白く闇の中でも一際際立つ梅の花は、ぼやけて見えた。 「・・・うん」 「ずっと、ずっと傍にいてくださいね・・・。僕が間違ったことをしそうになったらちゃんと正してくださいよ」 「・・・・・そうじゃの」 ぽんぽん、とまた撫でる。 「あなたが口に出来ないことを僕が言います」 逝く者からは口に出来ない、愛の言葉。 ──── 残される者を想うが故に。 逝く者へ伝える事の出来る、愛の言葉。 ──── 大丈夫だと、送り出せるように。 「あなたを心からお慕いしてます」 僕は、笑って彼を見上げた。 「慶太郎。顔がぐしゃぐしゃじゃ・・・」 そういう彼も僕と同じ顔で笑っていた。 それが、僕が見た彼の最期の笑顔。 僕と彼の愛しくて大切な、                        大切な宝物。
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