その前に

1/2
前へ
/2ページ
次へ
 私は医者だ。人を救うために存在するものだ。  家族全員が医療従事者である医者一家に生まれた私は、物心ついた時からずっと医療について教わってきた。高校は有名私立高に通い、大学は日本のトップ大学の医学部に入りただただ勉強してきた。他に何かやりたかったこともなく、医療に関して全く興味がないわけでもなかったので(幼少期から叩き込まれてきたからだと思うが)医者を目指すのは普通のことであった。  しかし、あくまで医者になりたいという大雑把な目標しか立てられていなかったので、外科にするか内科にするかというところまでは進んでいなかった。  そんな大学2年の頃、あっけなく祖父が死んだ。死因は大腸がんだった。がんの発見時はもうステージ4だった。祖父は消化器内科で働いていたため、がんに対する知識は私とは比べ物にならないほどあったはずである。そんな人でさえ気づくことはできなかった。  祖父は私の家族の中では珍しくとても優しい人だった。誕生日には祖父だけはずっとそばにいてくれて欲しいものを買ってくれた。同級生にいじめを受けたときも私の頭を撫でながら慰めてくれた。両親はもちろん祖母さえもそんなことはしてくれなかった。祖父が私の人生の支えとなってくれていたのだ。そんな祖父を殺したがんという病気を、憎んだ。  そのため僕は消化器内科で働こうという明確な目標が見つかった。その時までは人を救うという行為が本当に良い行動だとは思わなかったが、祖父の死によって人の命の重み、大切さをひしひしと感じた。              国家試験を受けて医師免許を取得した私は、研修医として地方の大学病院へ行った。  いくら大学病院といえど地方であれば医師の数は少なく、2年目から主体的な診療を行った。本当に忙しかった。寝る時間もほとんどないに等しかった。けれど幸いなことに多種多様な症例を経験することができ、患者も若者から高齢者までいろんな年齢の方がいたので患者への対応の仕方も学ぶことができた。当時は本当にキツかったが、今思うとあの経験は僕にとって必要なことだったのではないかとも思える。  それからは、今の医療界を変えるためにもと一念発起し、内科を専門とする同世代の医者たちを集め病院をつくった。正直、若い医者だけでは明日図につぶれてしまうのではないかとも思った。それでもやらなければいけないと誰かに言われた気がしたのだ。ここからが私の人生の第二章だと意気込んで医療を学んでいった。しかし、ここから私の人生は狂い始めたのだと今になって思う。 私は仕事だけが大切だと思う人間ではなかったので、プライベートの時間も仕事と同じくらい大切にしていた。成人するまで全くと言っていいほど遊ばなかった私は、ほんの少しだが遊ぶようになった。とは言っても本を読んで酒を流し込むくらいだが。酒を飲む時には自分でつまみをつくった。酒との相性は抜群だった。それから、自炊をすることが趣味になっていた。 本格的に料理をし始めるとなかなか楽しくなるもので、つくった料理をTwitterにあげ始めた。 ある日、チキン南蛮の写真を載せたときに1人の女から、あなたの料理をいつも真似していますという意味合いのリプが来た。とても嬉しかった。そこからこの女とメッセージを交換し合うようになった。 数カ月やりとりをしてみると、女は私と同じ医療従事者で研修医だということがわかった。私の経営している病院では、内科であれば若い医者なら大歓迎であった。彼女も私と同じ消化器内科の医者だと言うことで早速私の病院に来てもらい、研修医ではなく医者として働いてもらった。           彼女は技術のレベルが高いのもそうだが、なんと言ってもコミュニケーション能力が高いので患者、私の病院の医者、そして親しい友人としか話そうとしない私の心さえも開いてしまった。彼女は幅広い知識を持っているので、私のようなものが興味のある常人にはまるでわからないような話さえ、上手く話を広げてくれた。  私は恋と言う感情に対して本当に無頓着だったのでこれが行為だと言うのを理解するのになかなか時間がかかった。  付き合いだしたのは彼女が私の病院に入ってから1年後のことだった。とは言っても両方とも医者という立場である以上、ほとんど休暇という休暇はなかったと言える。それでも、月に1回はデートに行き酒を飲んだ。たまに、二人で料理を作り、食べた。忙しくてもとても楽しい日々だった。  ある日、私たちの間に一つの生命が誕生した。その時はちょうど休暇の日だったので、誕生の瞬間を見ることができた。私の心には感動という新たな感情が芽生えた。                               それからは、彼女は育休ではなく医者を辞めるという決断をした。医者は1年間の休みを取るだけでも医療の流れから取り残されてしまうからである。そして、私たちは結婚した。  ここまでの間に私たちの病院は内科の最先端と言えるレベルまで到達することができた。私が信頼している仲間たちは最高レベルの先生方のところで研修を受けていたものたちなので素晴らしい技術を持っているのに、本当に勉強熱心なのでどんどん成長していったからだと言える。私も内科医をしながらも経営をしてきたので経営の仕方がわかってきた。妻も育児を勉強していた。私が帰った後にしてくる、学んだ知識の披露のときに見せる笑顔は世界で一番可愛かった。  子供が生まれた後も仕事の量は変わらないどころか増えてさえいた。しかし、私の仲間たちも結婚するものが増えたり、研修先の病院へ行ってしまったり、大学病院に行ってしまったりなどで同僚は私の病院の医者の3分の1程度に減ってしまった。嬉しいことであるのに悲しくもあった。私の子どもはすくすくと成長していた。その頃までは。  幸せは人に均等に訪れるものであって、大きな幸せの後にはそれと同等の不幸せが来るのだという。   私の子どもは6歳の時、飲酒運転をしていた大学生たちの車に轢かれ植物状態となった。  ちょうど、小学1年生になる頃のことだった。  その日を境に、妻は壊れ始めた。ろくに家事もしなくなり、一日中私の目に見えない誰かと話していた。睡眠もほとんど取らず、ただ私たちの愛する子供の写真を見つめるばかりであった。  病院の経営も私一人では困難になってきていた。そのころには病院を作ったころにいた仲間たちは全員いなくなっていた。若い医者だけでは大規模な手術ができず、内科専門の病院としてはレベルが低くなってしまったからだと言えるだろう。ただでさえ私の妻が心配だというのに、私が仕事を失うなどということがあれば一家は崩壊してしまうことに違いない。そこで私は、経営のプロを雇い経営を任せることにしたのである。これで、妻を元に戻すための時間を作ることができた。あとは私が頑張って戻してやればいい、そうすればいいのだ。      
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加