雑音

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雑音

 「おはよう」  朝起きたら言う言葉。ふと目に入った鏡に言ってみたが、誰に向かって言ったわけでもないその言葉は予想通り返事はなく、空気に反響して静かに消える。 鏡に写る俺の顔は、まるでのっぺらぼうのように個性がない。だからといって、端正な顔立ちに生まれたかったなどとは思った事が一度もない。 頻繁に会う家族や友人など1人もいないからだ。 なので俺の顔を見る者は必然的に他人になるのだが、俺の顔を誰かが見たとしてもそれはどうせ赤の他人であり、すぐに俺の顔なんて忘れるだろうからだ。  今日はどんな天気なのだろうか。家に窓は少ないがいくつかはある。換気の時間を除けば、年中締め切っている為、窓から覗く通行人を数秒見る事はあっても、眺めたりはしない。 きっと外には、桜の咲いた木は一本もなく、6月中旬の湿った空気が漂っているのだろう。 そんな、厄介な日に俺は高校に入学する。入学する高校についての事はよく知らない。携帯に送られてきていた地図を頼りに電車で向かう事になっている。  朝はゆっくりと過ごしたい俺は、家を出る1時間前には起きていた。今日家を出ようと考えている時間は6時半だ。リビングに戻り壁に掛かった時計を確認する。6時2分の所にそれぞれの針が示されている。予想していた時間とあまり変わらない。  のんびりとキッチンへ向かい、湯を沸かす。 近くの食器棚からマグカップを一つ取り出し、瓶のインスタントコーヒーと冷蔵庫から牛乳を出す。 先ほど取り出したマグカップに適量のコーヒーの粉を入れる。 湯が沸くまでぼーっとしていたら、ピッと電気ケトルから音が鳴った。湯が沸けたらしい。 マグカップに湯を入れて軽くかき混ぜ、多めに牛乳を入れる。 こぼさない様にマグカップを片手に持ってリビングへ向かう。 机に着いたらコーヒーを啜りながら椅子に座りテレビをつける。 これが、俺の朝のルーティン。いつもより起きる時間が少し早いが、それは入学というものが後に控えているから仕方がない。  それにしても、学校という場所に俺が通う事になるなど、つい最近まで俺は全く考えていなかった。必要と思わなかったし、金もなかったから。 だが約3年前、いきなり俺が以前まで住んでいた家にスーツを身に纏った、品格のある大人が何人かやってきたのだ。告げられたのは、親が変わったという事だった。俺は当時まだ13歳で未成年だったので、手続き等は全てその人達が終わらせてきていた様だった。 初めて見る大人は別に怖くない。この一連の流れも慣れたものだ。俺はどこで生まれたのか、誰の子供なのか全く思い出せないでいる。だが、もう何年も月日のたった今では、どうでもいいとさえ思えてきている。 そうしていろんな話を長々と聞かされた後、今まで住んでいた家に一応、一緒に暮らした方達に挨拶をして、新しい家に向かう事になった。 俺が家を出るときにはもうすでに、元の家族の人達は、俺が他人になる事を知っていたのだろう。挨拶をした後あっさりと縁が切れてしまったのを思い出して、案外血の繋がっていない家族というものは、"家族"という名前だけに縛られた薄っぺらい関係なのだと思ってしまった。この家族にとって俺は何だったのだろうか。家族旅行をしたことがなければ、一緒に写真を撮った事もない。この家族から俺という存在がいたとしても、いなかったとしても俺は所詮赤の他人だったわけだ。そう結論付けてしまうと、無意識に笑ってしまっていた。  それから3年後、また何の前触れもなく現れた大人達に一つの分厚い茶封筒を手渡された。中には入学手続きと書かれた紙が入っていた。俺は困惑しながらも、名前を書くしか選択はなく、印鑑を押してしまっていた。  きっと俺の、人生の歯車が動き出したのは、高校に入学したこの日からだろう。 今日この日から俺は、初めて息を吸う赤子の様に、自分の知らなかった事を次々と身をもって知っていった。今までの生きてきた時間が無駄に感じるほど、本当に沢山のことを学んだ。 夏が想像異常に暑いという事。 冬は案外耐えられるという事。 笑うと心が暖かくなる事。 泣くと心が冷えてしまうという事。 人は独りでは生きていけないという事。 様々な人間がいるという事。  本当は寂しかったという事を。 その事に気づいた時、俺は自分の無知さを思い知らされた。 そして俺は、俺自身に失望してしまった。
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