55人が本棚に入れています
本棚に追加
第1話 出会い
西洋の文化が入ってきても、庶民の生活は特に変わらない。貧しいものは出稼ぎに行き、お金のために奉公に出される。
文もその一人だ。貧しい田舎農家の四人姉妹の長女で、五歳の時に江戸に出て、町の大通りに店を構えるうどん屋『えん』で働き始めて十年が経つ。幸い女将さんと大将から酷い扱いはされておらず、同じく奉公に出された花と共に毎日店の給仕を担当している。
「いらっしゃい!」
二人組の若年寄りがお店に入ってきた。
「やぁ、お文ちゃん。今日のおすすめは何かな」
「今日はけんちんうどんがおすすめですよ!お大根とにんじんが本当に柔らかくて…春にはなりましたが、まだまだ寒いので身体が温まりますよ」
「看板娘のお文ちゃんに言われると美味そうに思うなぁ!じゃそれを二つおくれ、あと熱燗一つ」
「けんちん二つと熱燗お願いします!…私は看板娘じゃないですよ…」
「何言ってんだよ、可愛らしい顔して男がほっとかないだろ、いっそ俺の息子の嫁になるかぁ?」
「か、からかわないで下さい」
十年近く勤めていてもこういう事を言われたときの返しに慣れてない。たじたじになっているところに、女将が助け舟を出してくれた。
「そうですよ旦那、看板娘は今も私一人で十分ですよ、まだまだ誰かに譲る気はありません」
「女将さんにそう言われちゃそうだな!ははは」
「文、ここは良いからうどんを呉服屋さんの所に届けておくれ」
女将にその場を離れる様に促され、文はほっとしながらうどんを持って配達に向かった。
かんざしも装飾品も無い髷を結い、麻の着物はつぎはぎに色々な模様の布で穴が塞がれていた。櫛やかんざし、着物一枚買う余裕はもちろん無い。着物は奉公に出された時に親が用意してくれたものを何度も丈を直しながら着ているのだ。顔は浅黒く、化粧気の無い顔だが、目がぱっちりとしていて、凛とした雰囲気を出している。化粧をすれば、器量がいいと言われる部類だ。
配達を終え、町を歩きながらお店に戻る道が文にとって大好きな時間だった。商売が盛んな町が活気に溢れ、行き交う人々が笑いながら過ごしている中にいると、自分も生きているという実感が湧くからだ。お金のためだけにむしゃらに働く毎日。私が働かないと家族が路頭に迷ってしまう、そう思うと不安で押し潰されそうになる時もある。しかしそんな時、ふと周りを見ると汗を流しながら籠を持って走っている人、呼び込みをしている小さな子供がいる。みんな生活のために必死なのだ。文もその一人なんだと思い、自分も頑張らないと、と元気を貰うのだ。
もちろん全員が働いているわけではない。お客様がいての商売であり、文くらいの年恰好をした女子達が歩いている姿も見える。花や蝶が刺繍された美しい絹の着物を着て、きらきら揺れるかんざしをつけている。商家や華族の娘達だ。
文は彼女達が羨ましいとは思わなかった。もちろん美しいと思うが、全く別世界の人の様に感じていたため、比べること自体がおこがましいと思っていたのだ。書物屋の前がその美しい女子達で人だかりが出来ている。皆の着物が美しく目立つため、嫌でも目を引いてしまう。
からんからんという鐘の音の後で、「双葉一羽の『裏忍者自由伝』の続きが出ましたぞ! 早い者勝ち、売切御免!」という声が聞こえてくる。
すると綺麗な着物を着た女子達が次々と本を手に取って買っていった。
とても人気のある本なのね…
本は文には縁のないものだ。高貴な身分の者から庶民にまで本は馴染み深い物になってきたが、文にとってはとても高価なものだ。それ以前に文は字が読めない。字など勉強する間も無く奉公に出たが、貧しい者にとって、字が読めないことは決しては珍しくないことだった。文は書物屋の前をさっと通り過ぎて帰路を急いだ。
店の前に着くと、少し息が切れていた。大通りの人混みは通り抜けるのに多少の運動になるのだ。文は裏の勝手口に向かおうとしたところ、ぼさっとした髪の男が暖簾の前に立ってるのに気がついた。
この方は…派手な男の人とよくお店に来るお客様だ…
花がいつも良い男が来たと喜んでいるが、女将と大将は彼らが来るとあまり良い顔をしない。そのため、自然と席はいつも一番奥に案内する決まりになっている。
今日はお一人なのかしら…
「いらっしゃい」
文が店に入ろうとした悠人に声をかけた。悠人は振り向いたが、文を見ることなく、視線は下に向けられている。前髪で隠れた彼の目は見えず、薄桃色の唇だけでは表情を判断出来ない。
「今日はお一人ですか?」
文が尋ねたその時、「三人だよ」と、後ろから声がした。あの派手な男だ。下を向いていた悠人が、目線を上に向ける。
「成、遅い」
一言だけぼそっと発した。成久は悠人を通り過ぎ、店の暖簾を手で払いながら先に店に入っていった。店からは花の「いらっしゃい」と弾んだ声が聞こえてくる。残された悠人が店に入るために振向こうとした時、目の前にいた文と目が合った。前髪の間から見える薄茶色の目に文は息を呑んだ。
とてもきれい…
悠人は少しの間文を見ていたが、目を細めふいっと顔を逸らすと、お店の中に入っていった。
私、今睨まれたの?
文は憤りでも戸惑いでもなく、何とも表現できない気持ちのまま、勝手口に急いで向かった。
*
一番奥の席、注文は花がとっていた。お店はお昼を過ぎたがまだ混んでいて、女将と大将も汗だくで動き回っていた。箱型の席に、悠人が奥、その隣に成久が並んで座っていた。いつも二人の前に座っている担当者はまだ来ていないようだ。
「今日はけんちんうどんがおすすめですよ」
花が頬を赤らめ恥ずかしそうに言うと、
「じゃ僕はそれで、こいつにはいつものきつねうどんで」
成久がにっこり答える。
「はい、わかりました」
花は浮かれたような表情で大将に注文を伝えに行くのと入れ替えに、文は温かいお茶を運んだ。最初は成久の前に湯呑みを置く。
「ありがとう、お文ちゃん」
成久は笑顔で文に礼を言った。
「どうぞ」
成久に軽く会釈をしてから悠人の前に腕を伸ばした。しかし、悠人は俯いたまま、文字がびっしり書いてある紙の束を読んでいた。文は字が読めない上に、本にも縁が無いため、それが原稿だとわからない。文はちらっと悠人を見た。下を向いているので目は見えないが、お茶を置いた瞬間、悠人の唇が一瞬つぐんだ様に見えた。
「ごめんね、こいつ無愛想で。人見知りで口下手なだけだから勘弁してやって」
成久が悠人の肩をぽんっと叩きながら言った。
「い、いえっ、いつもご贔屓にしてくださりありがとうございます」
文は慌ててぺこっと頭を下げた。今まで何度も接客をして来たが、話しかけられたのは初めてだった。悠人に関しては不愛想だろうが、文にとってはお客の一人に過ぎないため、気にした事も無かった。
「俺は成久。成って呼んでくれ。こいつは…」
名前を言おうとした時、悠人が成久の肩に置いた手を払いのけ立ち上がった。
「おい…」
立ち上がる悠人を成久と文が驚いた様に見上げた。
「厠」
一言だけ言い残すと、悠人はその場を離れた。
*
文はお茶を運んだお盆を、茶葉や湯のみが置いてある台に戻した。
あの方は何を考えているのかわからないな…
文は悠人の綺麗な目に反して出てきたぶっきら棒な言葉を思い出しながら、湯呑みを片付けていた。
すると、後ろから声が聞こえてきた。
「お文ちゃ~ん」
文が振り向くと、そこには先ほど息子の嫁にと文を口説いた中年男がいた。お酒臭く、身体はふらふらとしていて、完全に酔っ払っている。一緒にお酒を飲んでいた男は机に突っ伏して寝ていた。文はあまりのお酒臭さで顔を少ししかめたが、それを気にすることなく文に顔を近づける。
「お文ちゃん、本当にべっぴんだな~」
「お客さん、飲み過ぎですよ」
文は顔をそらした。しかし、その男は文のあごを掴んで自分の方に振り向かせた。
「‼︎」
文は驚いて目を開いた。女将も花も接客中で文と男に気が付いていない。
「お前奉公に来てんだろ?こんなにべっぴんなら吉原に行って体売った方が家族も喜ぶんじゃねえか?」
「や、やめてください!」
文は、あごを掴んでいた男の手首を両手で持ちながら引き離し、体ごとそらした。すると今度は文の両肩を掴んで壁に押し付けた。
「なっ、何を…‼︎」
「こんなはした金しか貰えない所よりもよ、吉原に行きゃ家族がいい暮らしできるんだ。なんなら俺が買ってやろうか~?金がいるんだろ?」
男は着物の袂からお金が入った袋を出して、文の目の前にちらつかせた。文は、かあっと頭に血がのぼる感覚を覚えた。侮辱された悔しさと、なけなしの誇りを踏みにじられた事で、悲しみと怒りが湧いてきた。今まで家族を養うために必死で働いてきた。家族が楽な暮らしが出来ないのは自分のせいなのかもしれない。だが、文は奉公人としての役割を果たして来た自信があった。それを全て否定された様に感じ、文の目には涙が溜まった。しかし、それがこぼれ落ちない様に必死で堪えた。涙を流したら自分の不甲斐なさを認める事になると思ったからだ。相手は酔っ払い、本来なら「お代は高いですよ?お客さん払えるんですか?」とでも言って受け流せばいいものを、文は核心をつかれたように思い、上手く返せなかった。
「なぁ、いいだろ?へへ」
男はお金を袖に戻し、その手で文の尻を触ろうとした。我慢していた文の目から涙が一雫落ちた、その時だった。
「やめろ」
文を掴んでいた男の手がゆっくりと離されていく。厠から戻った悠人が男の右手首を掴んで持ち上げていた。
「‼︎」
文は悠人を見た瞬間、驚きで目を見開いた。彼の綺麗な目が血のような真っ赤な色に染まっていたからだ。身体の内側から出てくる感情が燃え出しているかのように光輝いている。
「おめえさん誰だよ!離せ」
男は酔っ払っていたが、悠人の手から手首を振り解き、千鳥足で悠人に殴りかかった。
悠人はさっとそれをかわし、男の背中を押した。男は身体がふらつき、連れの男が寝ていた机にぶつかり、がしゃーんという大きな音とともに、床に尻もちをついた。
そこで初めて皆が気づいた。女将、花、成久が一斉に振り向いた。
悠人は座りこんでいる男の前に立ち、
「娘に手を出すな」
と、赤く燃え上がる目で男を睨みつけた。
「その目…その顔…お前は十六夜か!…た、祟られる‼︎」
寝ていた連れの男も大きな音で目を覚ました。そして目の前に立っている悠人の顔を見て、酔いが覚めたように驚き慄いた。
「お客さん、大丈夫ですか⁉︎」
女将が男に駆け寄った。身体を支えて立ち上がらせると、男は女将の腕を乱暴に払いのけた。
「こ、こんなところにいたら祟られっちまう。おい帰るぞ」
着物を直しながら、連れの男と店を後にした。
悠人は文を見た。赤い目は落ち着きを取り戻したかのようにすうっと元の色に戻っていく。文はどきっとした。悠人が怖かったのではなく、彼が初めて自分をちゃんと見たからだ。文は気が緩んだのか、腰が抜けたように床に座り込んだ。動きたくても動かない身体が小さく震える。強い力で身体を押さえつけられた感覚は今でも身体が憶えている。座り込んでいるところに悠人が近づいて来たかと思うと、勢いよく文の手を掴み、体を引っ張り上げた。線の細い身体の割に手は大きくごつごつとしていて、厚く硬い皮膚の感触が伝わって来た。文は男の人に手を握られるのは初めてだったため、どきどきした。温かな手に包まれると安心して文の目から再び涙が溢れてきた。
「僕が怖いか?」
「…こ…」
怖くない、と言葉が喉まで出てきているのに、口が震えて上手く言えない。それなのに、涙ばかりが溢れ出ていく。悠人は文の涙をそっと指で拭った。
「気をつけろ」
そう言うと、悠人は文に背を向けて女将の方へ向かった。
文は顔が爆発するかと思う位赤くなった。お店の前で睨まれて、ずっと下を向き、目も合わせない無愛想な人が、今自分を助けてくれ、優しく涙を拭いてくれた。その行動の違いに感情が追いつかない。悠人の姿を見つめながら呆然と立ち尽くしていると、花が駆け寄ってきた。
「文ちゃん、大丈夫!?」
花の声が遠くに聞こえる。文はただ、さっきのことを何度も思い出していた。
女将は近づいてきた悠人を睨みつけた。
「お客さん、お店で乱暴は困るんですよ、さっきのお客さんからお代も頂いていませんし」
十六夜一族であることが、余計に女将を苛々させている。
「すみません」
悠人は俯いたまま小声で答えた。
「女将さん、違うんです!この方は私を助けてくださったんです!」
文が女将に駆け寄る。悠人はちらっと文を見たが、再び前を向き、俯いた。
「事情はなんだっていいんだ。十六夜と揉め事を起こしたってだけでうちの評判は下がるんだよ。あんた、とんだことをしてくれたね!」
「まあまあ女将さん、あの人らのお代は俺が払うからさ」
成久が女将の手にお金が入った巾着袋を握らせた。袋はずしっと重く、中身を見なくてもかなりのお金が入っていることがわかる。
「これで勘弁してくれよ。俺らもここの上手いうどんが食べられなくなると寂しいんだよ、何せ町で一番だからな」
お金をたくさん貰って、かつお店を褒められると悪い気はしない。
「まぁ、いいでしょ。早く食べて帰ってちょうだい。花!ここ片付けてちょうだい」
女将は袋を袂にしまうと、調理場に行ってしまった。
あの方達は悪くないのに…
文は十六夜一族の事をよく知らない。しかし、助けて貰ったのに、お礼も言わずに早く帰れと言うのは失礼に思った。文は十六夜に対する理不尽さを感じた。
「怪我はない?」
成久はそんな事を気にするそぶりもなく、文に優しく聞いた。
「は、はい!」
「よかった」
成久が返事をする前に悠人はもう席に戻っていた。文はお礼を言おう彼らの席に向かおうとしてしたが、女将に呼ばれ、すぐに仕事へ戻った。
*
「ごちそうさま」
担当者も合流し、うどんを食べながらの打ち合わせを済ませると、三人は席を立った。担当者と成久が暖簾をくぐった後、悠人も外へ出ようとすると、文が悠人の着物の袖を掴んだ。
「あ、あの…」
文は少し息が切れていた。悠人が店を出るのを見て、慌てて駆け寄ってきたからだ。悠人は振り向き、文を見た。しかし、文は悠人の顔が見れなかった。自分でも何故だかわからない。ただ、悠人の目を見ると、何かに引き込まれそうになる気がした。文の胸はどきどきと高鳴っていた。それを悠人に聞かれたくなくて、必死で押さえ込もうとした。聞こえるはずがないのに、周りに聞こえるかと思うくらい、文の中ではどくどくと響いている。
「さっきは…ありがとうございました」
文は深々と頭を下げた。
「…気にするな」
悠人がぼそっと言うと、店を出ようと再び暖簾をくぐろうとした。
「あの!」
文は再び悠人の着物の袖を掴んだ。文とは反対方向に向かおうとしてたため、着物を引っ張られたようになり、悠人は少し驚いたように振り返った。
「お名前を伺っても…」
文は頬を赤らめながら悠人に聞いた。下を向いているため、悠人の表情は分からない。睨まれていたらどうしよう。文は怖くてぎゅっと目を閉じた。着物の袖の端を持った指は鼓動に合わせて小刻みに震えている。
「…十六夜悠人」
小さいが、優しい声が聞こえてきた。
文は目を開けた。目の前には悠人の着物の袖が見える。彼から微かに漂って来る良い匂い。花でも無く、食べ物でも無い、独特の香りの正体は文には分からなかったが、とても心地が良かった。文はゆっくりと悠人の着物を離した。
悠人様…
悠人はそれ以上何も言わず、文に背を向けお店の外に出た。
また来てくれるといいな。
そう思っていた時には、すでに悠人を追いかけるように外へ出ていた。
「悠人様!またのお越しをお待ちしています!」
町の中を歩き始めた悠人に聞こえるように、文は叫んだ。外は物売りや食堂などでたくさんの人々の声がする。喧騒の中で文の声は届かないかもしれない。しかし、また会いたいと願いを込め、文が出せる一番大きな声で叫んだ。その思いが通じたかのように、悠人が振り向いた。その目はまっすぐ文を見ていた。睨むような目でもなく、無表情でもなく、微かに笑っているように見えた。悠人は軽く会釈すると、人混みの中に紛れて行った。
文は彼の背中が見えなくなるまですっと外で見送った。
つづく
最初のコメントを投稿しよう!