安達ヶ原の母子5

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安達ヶ原の母子5

 お豊さんと一緒に夜を過ごした数日後。とうとうお豊さんに陣痛がきた。ナナシや近所の女性たちは大わらわで出産の準備に走り回っている。水明やクロ、私や東雲さん……それにぬらりひょんは、お豊さんのことを話し合うために貸本屋に集まって来ていた。 「――駄目だったか」  お豊さんは未だに母親と和解していないようだと伝えると、ぬらりひょんは渋茶を啜りながらそう言った。今日のぬらりひょんは、目もとが涼しげな美青年だった。詰め襟の学生服に制帽を被っていて、明治期あたりのレトロな雰囲気を醸し出している。 「簡単にはいかぬとは思っていたがのう。ややこしいことになりおった」 「で、どうすんだよ。他の妊婦は無事に子を産んだんだろ? つまり――あの予言はお豊のことに間違いねえ。お豊が母親を赦さなきゃ、子は死に、幽世に春はこねえ」  苛立ったような東雲さんの発言に、ぬらりひょんは宙に浮いている海月を見つめ、どこか飄々とした様子で言った。 「儂もただ子が生まれるのを待っていたわけではない。手は打ってある」 「もったいぶってねえで、具体的にどうするかを言えよ、ぬらりひょん。お前のことは信頼しているが、もうすぐ子が生まれるんだぞ。のんびりしている場合か!」 「まあ待て。急いては事をし損じると言うじゃろう?」 「だけどよ……!」  焦った様子の東雲さんに、ぬらりひょんは「待てばわかる」と言うばかりだ。東雲さんの眉間の皺はみるみるうちに深くなり、どうにも嫌な雰囲気が居間に流れた時、やけに表が賑やかなことに気がついた。 「な、なに……?」  不思議に思っていると、激しい足音がして誰かが入ってきたのがわかった。そして勢いよく引き戸が開いた瞬間、場の雰囲気にまったくそぐわない面々が顔を出した。 「おう! お邪魔するぜー!」 「こんにちは~。捕まえてきたよ!」 「ウワハハハハ。なんだボロいな! 想像していたよりもボロい! 文車妖妃に相応しい場だとは思えないが、彼女の不愉快さを押し隠す顔もいい……!」 「ああん、本がいっぱいありんす! この中にあちきの知らない恋物語はどれくらいありんしょう? 髪鬼、あっちに連れて行っておくんなまし」  現れたのは金目銀目、そして髪鬼にお姫様抱っこされた文車妖妃。そして――。 「……なんの冗談だ……これは……」  首根っこを掴まれ、無理矢理連れてこられたらしい玉樹さんだった。  一気に人数が増え、貸本屋の居間はぎゅうぎゅう詰めになってしまった。かなり狭苦しく感じる室内で、ぬらりひょんは金目銀目から報告を聞いていた。 「福島まで行ってきたけどよ。特になにもなかったぜ」 「ま、お寺になってたからね~。鬼婆がいつまでもそこにいるとは思えなかったけど」  ぬらりひょんは、予めふたりへ調査を依頼していたらしい。彼らが様子を確認してきたのは、岩手ゆかりの地だ。  福島県の安達ヶ原には観世寺という寺がある。そこには岩手が住み着いた岩屋の跡だと言われている笠石や、出刃包丁を洗ったと言われている血の池などが遺っているのだそうだ。しかし、その近くにある黒塚と呼ばれる岩手が埋葬されたと謂われている場所にも、遺っている岩屋にも岩手の姿はなかったのだという。 「気配すら残っておらなんだか?」 「まったく、これっぽっちもね。あやかしの気配はしなかったよ~。断言するよ、あそこには長いことあやかしは棲んでない」 「幽世中も捜し回ったけどな。岩手を見たってあやかしはどこにもいなかったぜ」 「ふむ……。一体、どこにおるのやら」  双子の言葉にぬらりひょんは思案顔で瞼を伏せた。するとその時、黄色い声が上がった。 「ああん、素敵な旦那様。あちき、文車妖妃と申しんす。どうぞご贔屓に」 「お? なんだ、別嬪な姉ちゃんだなあ」  いつの間にやら東雲さんにしなだれ掛かっていた文車妖妃は、指先で東雲さんの胸を戯れに弄くっている。養父も、まんざらでもない様子でヘラヘラ笑っているではないか。 「東雲さん……なにをしているの。今、そんな状況じゃないでしょ!?」  思わず低い声を出すと、東雲さんは途端に慌てた様子で目を逸らした。 「うおっ! ええと。夏織、これはだなあ……」 「あら、よしなんし。女の嫉妬は見苦しいでありんすよ?」 「父親に嫉妬なんてしてませんけど!?」  堪らず声を荒げると「冗談だんす」と文車妖妃はクスクス笑った。何故か東雲さんはショックを受けたような顔をしている。  ――調子狂うなあ……。  さっきまでのシリアスな雰囲気が、あっという間にどこかへ行ってしまった。  東雲さんは気がついていないけれど、髪鬼が血走った目で睨んでいるし……。 「……滾る……!」  ――怖っ……。  私は見て見ぬ振りを決め込むと、ぬらりひょんに問いかけた。 「それで、ぬらりひょん。金目銀目はわかるんですけど、この三人を呼んだのはどうしてですか?」 「俺は呼ばれていない。無理矢理連れてこられたんだ! まるで物語のクライマックスに、処刑台に送られる死刑囚のようにな!」 「俺が捕まえたんだぜ! すげえだろ」  心底悔しそうな玉樹さんに、得意げな銀目。とうとう混乱極まってきたと思っていると、ぬらりひょんは呵々と豪快に笑って言った。 「いやなに、岩手を捜すのにこいつらは最適でな。特に玉樹は便利じゃぞ?」 「人を道具のように言うんじゃない。総大将」 「ホッホ。数々の妖怪画を手がけた天才絵師を道具などと。畏れ多い」  するとぬらりひょんは懐から一冊の本を取り出した。それは古い和綴じの本だ。  表紙には――「画図百鬼夜行 前篇陽」とある。それは言わずもがな鳥山石燕の画集で、私も何度も読んだことがあった。 「それがどうしたんです?」 「ここにな……ほうれ、あった」  ややくたびれた黄ばんだ和紙を慎重に捲ったぬらりひょんは、あるページを開いて私に見せた。そこには「黒塚」という題名と共に「奥州安達原にありし鬼 古歌にもきこゆ」と説明書きがある。生首やら千切れた足が入った竹かごを前に、老婆が不気味な笑みを浮かべている絵だ。――まさか、これは! 「岩手の絵……?」 「そうじゃ。そしてそこの男は、己が描いたあやかしと通じることができるのだよ。そうじゃろう? 玉樹……いや、石燕」  すると玉樹さんはあからさまに顔を顰めた。  そんな彼を余所に、私はあまりの驚きにぽかんと口を開けたまま固まってしまった。  ――玉樹さんが、鳥山石燕……?  鳥山石燕と言えば、妖怪画の大家だ。現代で言うと、あやかしと言えば水木一郎というイメージがある。実際、水木一郎が現代における妖怪像に多大なる影響を与えたのは間違いない。けれども、水木一郎が遺した妖怪画の多くは、鳥山石燕の絵をもとに取材したものも多く、それを鑑みると、日本におけるあやかし像を作り上げた第一人者が鳥山石燕と言えるのだ。  そんな人が身近にいただなんて。驚きのあまりに玉樹さんを見つめる。 「……やめろ。本当にやめてくれ。今の俺は、あの頃の俺とは違う」  すると、玉樹さんは大きく頭(かぶり)を振ると、忌々しげに視線を床に落とした。 「今の俺は、石燕だった頃の残り滓のようなものだ。確かに多くの妖怪画を遺したが……人としての生を終えた時点で仕舞いにしたんだ。今の俺は玉樹で、石燕はもう表舞台から降りた。だから、放って置いてくれ……」  項垂れてしまった玉樹さんに胸が痛む。  私の記憶が確かならば、鳥山石燕は人間としての生をきちんと終えているはずだった。なのに、玉樹さんの姿はどう高く見積もったとしても四十代にしか見えない。一度死んだ人間が、若々しい姿になってあやかしへと変ずる……そんなこと、あるのだろうか?  すると見かねた東雲さんが口を挟んだ。 「ぬらりひょん。コイツ、元の名に触れられるのは嫌いなんだ。別にその話は今はいらねえだろ? 話を進めようぜ」 「そうじゃの。悪いことをした」  ぬらりひょんはもうひとくち渋茶を啜ると、とんと「画図百鬼夜行」を指さした。 「玉樹にはすまぬがのう。この岩手の絵を描いてもらう。さすれば、行方知れずの岩手へと一瞬でも繋がるはずじゃ。玉樹、やってくれるな?」 「チッ……」  玉樹さんは不満げに顔を逸らしたものの、拒否するつもりはないらしい。今が緊急事態だとは理解しているようで、協力はするつもりのようだ。 「ホッホッホ。よきかな。万が一にでもやらぬと宣ったら、あやかしの総大将として無理矢理にでも従わせるところじゃった」 「だから玉樹を虐めるなって、ぬらりひょん。コイツこう見えても繊細なんだぜ?」 「……東雲、黙れ……」  玉樹さんは、まるで地獄の亡者のような目つきで東雲さんを睨みつけている。当の本人にはまったく通じていないようで、友人を守った満足感でニコニコしているのだけれども。 「そ、それで。その後はどうするんですか?」  ちぐはぐなふたりから目を逸らして、ぬらりひょんへ説明を求める。すると、ぬらりひょんは文車妖妃と髪鬼に視線を向けた。 「後は文車妖妃がなんとかしてくれる。そうじゃろう?」  すると、話を振られた文車妖妃はどこか自慢げに言った。 「そうざんす。紙に遺った想い……それはあちきの得意分野でありんす。絵を介して想いを辿り、岩手とやらのところまであちきが案内してやりんしょう。ねえ、髪鬼?」  艶やかな笑みを浮かべた文車妖妃に、髪鬼はうっとりと見蕩れながら言った。 「ああ、そうだな。どんなに悪意に満ちた者がその先にいようとも、文車妖妃の案内で行く以上は確実な成果が残せるに違いない! ……命の保証はしかねるが!」 「い……命の保証……? 悪意?」  何故か徐々に不穏な空気が漂い始めている……。助けを求めてぬらりひょんへ視線を向ける。するとぬらりひょんは、湯呑みを手にしたままどこか無邪気に笑った。 「なんじゃ。夏織……お主、気がついておらなんだか。今回の件、髪鬼の言うとおり命の危険も伴うやもしれぬ。そうそう……戦えるものは漏れなく準備を忘れぬように。ああ、夏織も来るんじゃぞ?」 「――へ? 私も? あの、東雲さん。どういうこと……?」  説明になっていない説明に、東雲さんを見上げる。すると、東雲さんは青ざめた顔をしてぬらりひょんを見つめていた。 「嘘だろ? ……もしかして」 「そういうことだ、東雲。それに夏織のことは仕方あるまい。件が言ったのだ。混ざり物の咎を祓うは幽世へ落ちた子ら、と。そこな小僧と夏織には来てもらわねば」 「……ぐう……」  すると東雲さんは、苦虫をかみつぶしたような顔をして黙り込んでしまった。訳もわからず混乱していると、水明がニコニコしているぬらりひょんへ詰め寄った。 「くそ。どうしてあやかし共は誰も彼も話が適当なんだ。わかるように説明しろ!」  するとぬらりひょんは、海月に似た銀色の瞳に冷たい光を宿して言った。 「冷静に考えてもみよ。今まで、この幽世では数多の死産があった。けれども冬が訪れなくなるなんてことはなかったのだ」 「……そうなのか?」  すると水明は僅かに眉を顰めると、動揺したように視線を彷徨わせた。 「死んだ子どもの身体を媒体に、死産した母親の負の感情を引き金にして、幽世へ変化をもたらすなにがしかの仕掛けがあるのだと思っていたんだが……。てっきり、ここでは当たり前のことなのかと」  するとぬらりひょんは、呵々と笑った。 「いやいや、小僧らしい。実に祓い屋らしい考えじゃのう」 「…………まさか」  するとなにかに気がついたらしい水明は、更に顔を険しくした。ぬらりひょんは制帽を脱ぐと、そっと胸に当て――どこか気取った様子で皆に向かって言った。 「この度の騒動――恐らく、幽世へ悪意を持った者の攻撃じゃ。どうも幽世へ春を来させたくない輩がいるらしい。新しい命を産み落とすは、命懸けの大勝負。野暮な横入りをしてきたやつを――成敗しに参ろうではないか」  そして制帽を被り直すと、ニッと白い歯を見せて笑った。
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