337人が本棚に入れています
本棚に追加
/32ページ
安達ヶ原の母子4
冬は明けない。まるでその予言を証明するかのように、連日綿々と雪が降り続けた。
放っておくと、家の窓が雪で埋まってしまいそうになるほどだ。いつもならダラダラと日がな一日過ごす東雲さんも、この時期ばかりは雪かきに精を出していた。
臨月を控えたお豊さんのお腹は、日に日に大きくなっていった。
隣家には、毎日誰かしらが訪問していた。菓子屋ののっぺらぼうの奥さんなんかは、精がつくようにと色々と差し入れしていたようだ。時折、もらいすぎたのだとお豊さんはうちへお裾分けに来てくれた。
私も――ナナシと一緒に、お豊さんの家に度々お邪魔させてもらった。
おしめやおくるみ、靴下なんかを一緒に作るためだ。
先生役はもちろんナナシ。薬屋として普段からいろんなあやかしと接している彼は、赤ちゃんの世話も一流なのだという。
「布は一度水で洗ってから縫うの。糊を落としておくのよ。おしめはいくらあっても足りないくらいだわ。たくさん作っておきましょうね。きっと春頃には、庭におしめのカーテンができるわよ」
「本当に!? た、大変だわ……」
「大丈夫よ。アタシも手伝うし、近所の奥さん方、可愛い赤ちゃんの面倒を見たくて、手ぐすね引いて待ってるのよ?」
クスクス笑いながらも、ナナシは手を止めることなくおしめを縫っている。その手付きは見事で、みるみるうちにおしめが一枚完成した。それに比べ、私のおしめになるはずだった布の出来は悲惨の一言。ああ、不器用な自分が恨めしい……。
すると、私と同じようにおしめに苦戦していたお豊さんが呟いた。
「なんというか……ありがたいけれど、本当にいいのかしら?」
「お互い様でしょう? 今度、どこかで赤ん坊が生まれた時に、お豊ちゃんが助けてあげたらいいんだわ。今までみんな、そうやってきたんだもの。心配しなくても平気よ」
お豊さんは、どこかソワソワした様子でお腹を撫でると、はにかみ笑いを浮かべた。
「そうね。そうよね。なにも心配することなんてないんだわ……」
一見すると、お豊さんは件の予言に関しては特に気にしていないように見えた。
遠近さんの手配してくれた医者にも診てもらったらしい。医者によると、産んでみなければわからないことも多いが、今のところ胎内の子に異常は見つけられなかったそうだ。そのことは、みんなを喜ばせた。誰もが件の予言を気にしていたからだ。お豊の子が予言の子ではなかった……そんな雰囲気が広がる。
けれど――。
「母のことなんて関係ない。私はひとりでも子どもを産めるもの」
ふとした瞬間に零すお豊さんの言葉に、私は胸がざわついて仕方がなかった。
万が一にでも、お豊さんの子が予言の子だったら――。
しかし、私たちにできることはあまりにも少ない。傍にいることしかできない自分をもどかしく思いながらも、出産に向けて着実に準備を進めていった。
それからの二ヶ月はあっという間だった。気がつけば、お豊さんの臨月だ。
――お母さんとのことは、どうなったのだろう?
疑問を抱きつつも、私は直接事情を聞くことができずにいた。
他人の事情に土足で踏み込むのは、とても失礼なことだ。お豊さんとは、今まで仲良くしてきたつもりだったけれど、それはあくまで隣人として。気の置けない友人ならばともかく、私なんかが口を出していいものかわからない。
そうしている合間にも、お豊さん以外のあやかしの妊婦たちは続々と出産を終えた。
冬の幽世がほんの少しだけ賑やかになり――しかし、ちっとも春が訪れないことに、誰もが不安な心を抱えていた……そんなある日のこと。
強風に家が煽られ、カタカタとガラス戸が震える音がする。落雪でガラスが割れないようにと板で窓を覆ってはいるものの、隙間から舞い込んでくる風で盛大に揺れて、どこか不安が募るような――そんな夜。誰かがわが家の玄関の戸を叩いた。
「お裾分けにきたのだけれど」
猛吹雪の中、お豊さんがやってきたのだ。
驚いて、急いで家の中へ招き入れる。
隣家でそれほど距離がないとはいえ、こんな日に臨月の妊婦が出歩くには危険すぎる。なにかあったのではないかと心配で、堪らずお豊さんの顔を覗き込んだ。
「どうしたの? なにかあったの? 顔色が……」
「体調が悪いわけじゃないのよ。心配しないで。またたくさん頂いちゃって」
お豊さんが差し出したのは、お肉が入った包みだ。お裾分けをもらえるのはありがたかたが、私はそれよりもお豊さんの思い詰めたような表情が気になった。
「……旦那さんはお家にいるの?」
「今日は夜勤なのよ。明日のお昼には帰ってくるわ」
その瞬間、一際強く風が吹いた。ガタン! と大きな音がして家が震える。すると、お豊さんは私にしがみついてきた。小さく震え、俯いて硬く目を瞑っている。
風の唸る音が、まるで怨霊の声のようだ。こんな日にひとりでいるのは不安だろう。
私はお豊さんの背中に手を回すと、優しく撫でてやりながら言った。
「びっくりしちゃったね。お豊さん、よかったら今晩はうちに泊まらない?」
すると、お豊さんはハッとしたように顔を上げると、涙で濡れた顔でコクコクと頷いた。
「……頼ってくれてありがとう」
私が笑顔で言うと、お豊さんはふるりと大きく震え――小さく洟を啜った。
外の猛吹雪は一向に止む気配を見せない。そんな中、お豊さんと夕食を一緒に作って食べ、お風呂も入った。私の部屋に布団を二組敷いて並んで眠る。
「お豊さん、寒くない? お布団、もう一枚いる?」
「大丈夫よ、ありがとう。夏織ちゃん」
「寒かったらにゃあさんを貸すからね。湯たんぽ代わりに」
「ちょっと。あたしの扱いが雑すぎないかしら」
クスクス笑いながら、眠るまでの束の間の時間を過ごす。相変わらず外は大荒れで、ガラスが震える音に驚きはするけれども、三人でいるせいかちっとも怖くない。
「本当に助かったわ、夏織ちゃん。すごくすごく不安だったの。こんな日に、万が一にでも産気づいたらって……。ただでさえ、件の予言があったでしょう?」
「そうだよね。確かに不安になるよね……」
「――それに、最近誰かにじっと見られている感じがして怖かったの」
「……え?」
思わず起き上がると、お豊さんは少し困ったような顔をして笑った。
「出産を控えて神経質になっているだけだと思うわ。視線を感じても、すぐに消えちゃうの。だからきっと私の思い違い」
「なら、いいんだけど……」
脱力して、そのまま横になる。私のお腹の横で丸くなっているにゃあさんを撫でながら、じっとお豊さんを見つめる。
「不安なことがあったら、すぐに言ってね? なにがあるかわからないじゃない?」
「ありがとう。そう言ってくれると心強い」
すると、お豊さんは笑いを引っ込めてまっすぐに私を見つめた。薄闇の中で目が合うと少しドキドキする。思わず視線を泳がせると、おもむろにお豊さんが口を開いた。
「……ねえ、夏織ちゃん。すごく訊きづらいことを聞いてもいいかしら」
「え? ど、どうぞ?」
「あなたって、まったくお母さんのこと覚えていないのよね?」
あまりにも突然の問いかけに戸惑う。布団の中でにゃあさんがモゾモゾ動いている。私は彼女の背をゆっくりと撫でながら、ひとつひとつ言葉を選びながら言った。
「うん、そうだよ。私には幽世で過ごした記憶しかない」
母と過ごした時間も、母から感じた温もりも私の中にあったはずなのに、なにひとつ覚えていない。にゃあさんから話を聞くことはできても、なにも実感が湧かないのだ。
――私にも母はいた。そういう人がかつて存在していた。私の中の母は、ただの情報でしかない。その笑顔も、柔らかさも、温もりも、優しさも私には残っていない。
そう思うと途端に胸が苦しくなる。注いでもらった愛情を、まるで手のひらから零してしまったような。ぽろりぽろぽろ、零れた愛情や優しさが戻ってくることは二度とない。
……まあ、それは仕方のないことだ。どうしようもないことだ。そう理解しているのに、人の感情というものは本当にままならないもので。いつまで経っても心の中にしこりのように残っている。
「……それで、どうしたの?」
気を取り直してお豊さんに訊ねる。すると彼女は、少しだけ沈黙した後に続けた。
「もし……もしよ? 今、死んだお母さんと再会したら、すぐにその人が自分の母親だってわかる自信がある?」
「……ええと?」
すぐに質問の意図を汲み取れずに言い淀む。そしてお豊さんが言ったような状況を想像して、思わず首を捻ってしまった。
「絶対にわからない自信がある……」
「……ぶっ……」
すると、布団の中でにゃあさんが盛大に噴き出したのがわかった。ムッとしてわざと強めに撫でてやる。するとにゃあさんは布団から顔を出すと、どこか楽しげに言った。
「秋穂とは全然違うわね。あの子……夏織が行方不明だった時、親子だからわかるの、だから生きてる! って自信満々だった」
「私、そういうのは嫌なの。思い込みで突っ走るのがすごく不安なタイプ」
「顔は似ているから、わかるかもしれないわよ?」
「ええ? 自分の顔に似てるかどうかなんてわかんないよ。瓜ふたつならともかく」
思わず唇を尖らせると、にゃあさんはクスクス笑った。
「きっと秋穂、泣いちゃうわね……」
「そしたらごめんって謝る。親子だって、わからないものはわからない!」
私が自棄気味に言うと、ふとお豊さんと目が合った。するとお豊さんの瞳が濡れているのに気がついて、慌てて起き上がる。
「……お、お豊さん!? 具合悪いんじゃ……!」
「ご、ごめん。そうじゃなくて……」
お豊さんは浮かんだ涙を手で拭うと、少し困ったみたいな笑みを浮かべた。
「ああ……私、馬鹿だなって思って」
「どうしてですか……?」
お豊さんは身体を起こすと、膨らんだお腹をゆっくりと撫でながら言った。
「私と母のこと、夏織ちゃんは知っている?」
私が頷くと、お豊さんは笑みを零した。そしてカーテンの隙間から見える幽世の赤い空を見ながら言った。
「……私、ずっと母を赦せなかった。他の子に構ってばかりいて、私になんて見向きもしないんだもの。覚えているのは母の背中ばかり。寂しくて寂しくて、小さい頃は母の後を追って困らせてばかりいたらしいの」
――そのくらいの年の頃のことは、はっきりとは覚えていないのだけれど。
お豊さんは、苦しげに顔を歪めると、俯き加減になって話を続けた。
「……仕舞いには、母は薬を求めて旅に出てしまった。私や家、なにもかもを置いて。そしてあんなことになった。恨んだわ、母のこと。鬼になってしまうくらいには」
「それは……」
「――でも!」
私の言葉を遮ったお豊さんは勢いよく顔を上げると、泣き笑いを浮かべた。
「本当はわかっているの。これは、全部私の我が儘。乳母は母の仕事で、母は自分の役目をこなすために懸命になっていただけ。母は姫様の兄君の乳母でもあった。私の兄が兄君の側近として働けたのは、母の尽力があったから。姫様の病気が治れば、私も姫様の友人としていい縁談が来るはずだったの」
そしてポロポロと大粒の涙を零すと、掠れた声で言った。
「結局、母は私のために頑張っていた。自分のためじゃない。私が大人しく母を待っていればあんなことにならなかった。私が岩屋で会った母の顔を見分けられれば――……」
――ああ、だから私にあんな質問をしたのか。
お豊さんの質問の意図をようやく理解する。幼い頃に別れたきりの母。きっと、朧気にしか覚えてなかったのだろう。幼かった子どもが、伴侶を得て妊娠するほどに時が経過していたのだ。京都で乳母をしていた頃と違い、長い旅路の末に福島にたどり着いた岩手だって、容貌が変化していたに違いない。
くしゃくしゃに顔を歪めたお豊さんは、お腹のわが子に語りかけるように言った。
「でも……私、生まれてくるわが子を母に見せたかったの。孫を抱いて欲しかった。可愛いわねって褒めて欲しかった。いつも背を向けていた母に、こっちに向いて欲しかった」
それは、子としてごくごく当たり前の願い。
それなのにこの親子は……どうしようもなくすれ違ってしまった。
子のためと旅に出て、顔を忘れられてしまった母。
母を追って旅立った時には、実母の顔を忘れてしまっていた娘。
誰も悪くない。お互いをただ想い合っていただけなのに、どうしてこんなにも哀しい結末を迎えてしまったのだろう。
「お豊さん、そんなのお豊さんのせいじゃないよ!」
堪らず言うと、お豊さんは次々と零れ落ちてくる涙を袖で拭いながら言った。
「うん……だからね、さっきの夏織ちゃんの言葉に救われたの」
「え? 私の?」
意外な言葉にキョトンとする。お豊さんはクスクス笑うと続けた。
「親子だって、わからないものはわからない。……すごくしっくりきた。私……ずっと、母のことがわからなかった自分を責めてた。娘なのに、母への愛情が足りなかったんじゃないかって自分を疑っていたの」
親子なのだから、通じ合っていて当たり前。すぐに見分けがつくべき。もしかしたら、お豊さんはそんな風に自分に呪いをかけていたのかもしれない。
「……絶対にそんなことないよ。神様じゃあるまいし、気づかないことだってあるよ」
「うん。そうね。本当にそう思ったわ。ありがとう……夏織ちゃん」
涙で頬を濡らしたまま穏やかに微笑んでいるお豊さんに、私は少し迷ってから訊ねた。
「あの……お豊さん。お母さんを赦せそう……?」
すると、お豊さんは一瞬だけ視線を彷徨わせると――。
ゆっくりと首を横に振った。
「あの人が、私と子どもを殺したのは変えようのない事実よ。簡単に赦せたらこんなに悩んでないわ」
「……そっか」
私が相槌を打つと、お豊さんはぽすんと勢いよく横になり、天井を見上げて言った。
「心ってどうしてこう面倒くさいのかしら。もっともっと心が単純にできていたなら――今頃は母に助けられながら、子どもが生まれるのを待っていたのかもしれないのに」
そしてゆっくりと目を瞑った。ぽろり、一粒の涙が、窓から漏れる星明かりを反射しながら、お豊さんの頬を滑り落ちて行った。
最初のコメントを投稿しよう!