プロローグ:橄欖石の涙、黒猫の見る夢

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プロローグ:橄欖石の涙、黒猫の見る夢

 ――宝石みたいな涙。  なるほど詩的な表現だ、と黒猫は思う。  この言葉は黒猫にとってお気に入りだった。ふと眠りに落ちる瞬間や、朝露に濡れた草を目にした瞬間、脳裏に浮かんでくる程度には好きな言葉だ。  一度、知り合いにそのことを零したことがある。  自分よりも永い時を生きているあやかしの彼は「人間みたいなことを言う」と黒猫を茶化して終わった。彼はきっと、言葉の意味する涙を実際に見たことがないのだ。  だから、この言葉の美しさを理解できない。可哀想にと心の底から思う。  とはいえ――黒猫自身も、宝石みたいな涙を見たことはないのだけれど。  だから、黒猫は想像する。  炎の熱を映した涙は、|石榴石(ガーネツト)。  赤々とした炎の揺らぎを内へ取り込み、まるで燃え尽きるように弾けるのが赤い涙。  月明かりを映した涙は|金剛石(ダイアモンド)。  切れそうなほどに冷たい光を湛え、儚く散ってしまう貴石の涙。  ――ああ、なんて美しい。是非とも本物を見てみたいわ。  美しいものは好きだ。キラキラしたものがあると触れたくなる。けれど、手に入るとすぐに飽きてしまう。だからこそ、その瞬間しか存在しない宝石の涙は尊い。  黒猫は日々夢想した。  朝も、夜も、昼も。気まぐれに眠る度に、宝石の涙について想いを馳せた。  焦がれる心は順調に育まれ、徐々に大きくなっていく。  ――いつか出会えるはず。みたこともないくらいに美しい涙に。  黒猫の願いは届き、とうとうその時がやってきた。  それは、五月蠅いくらいに蝉が泣き叫ぶ夏の幽世。  黒猫が、まだ「にゃあ」という名前をもらう前。緑色が濃い幽世の夏の夜空に、まるで狂ったみたいに流星が降り注いだ日――。  森の中で、幽世にしか棲まない光る蝶……「幻光蝶」の群れを見つけた時だった。 * * * その日はどこか特別だった。  特別……いや、異様だった、と言った方がいいかもしれない。  夏特有の緑色が強い夜空を彩っていたのは、眩い光を放つ流星。流星群の接近時期でもないのに、数多の星々が地上へ落ち、その儚い生涯を終えていた。  それは、幽世に生きる者たちを落ち着かなくさせた。  何故ならば――流星、それすなわち人間の命が燃え尽きた証だったからだ。  現し世では、ロマンチックな象徴のように捉えられている流星だが、幽世では嘘偽りなく「死」の象徴だった。  ――現し世のどこかで誰かが死んだ。それも大量に!  自分たちに関係ないこととは言え、気持ちのいいものではない。黒猫も、それを忌々しく思ったひとりだった。どうにも落ち着かず、行く当てもなく適当に外をぶらつく。  やがてたどり着いたのは、鬱蒼と木々が生い茂る、幽世の町から離れたはずれの森。そこに無数の幻光蝶が飛び交っているのを見つけた。  ひらひらひいらり、踊るように、舞うように。なにをするでなく、光る鱗粉を撒き散らしながら、中心にいる者を飾り立てるかのように、辺り構わず眩しい光を放っている。 「……えぐっえぐっ……」  蝶の中心にいたのは、小さな女の子だった。  年の頃は三歳くらいだろう。茶色がかった髪を二つ結いにしていて、小花柄のワンピースを着ている。何故か片方だけ靴を履いておらず、ぐっしょりと濡れそぼっていて、剥き出しになっている腕や足は傷だらけ。小さな腕で自身を抱きしめるようにして、ポロポロと大粒の涙を零していた。  ――ああ! 人間だ!  黒猫は、幼子を見つけた瞬間に内心で歓喜の声を上げた。  そして、自分の耳のよさに感謝した。黒猫がこの場所へやってきた理由……それは、大量の蝶が羽ばたく音と、幼子の泣き声をたまたま聞きつけたからなのだ。  幻光蝶……儚くも美しいこの蝶は、人間に惹かれ寄っていくことで知られている。蝶が集まる場所に行けば、そこに人間がいる可能性が高い。  しかし、幽世に人間は滅多にいない。今回の幼子のように、なにかのきっかけで人間が迷い込んでしまうことは少なくないけれども、この世界に棲まう住民(あやかし)たちには、人間を好んで喰らう者が多い。だから、迷い込んだ人間がよほど強運だったり強者だったりしない限り、すぐに誰かに見つかってしまい、食べられてしまうのが常なのだ。  ――一番乗り! 今日のあたしはツイてるわ。  黒猫は上機嫌に目を細めると、足音を消して歩き出した。  昏い森の中、蝶に照らされた幼子。細く、白い足や腕から流れている血の色がやけに色鮮やかだ。黒猫はコクリと喉を鳴らすと、すん、と鼻を動かした。途端に、芳醇な血の匂いがして思わず顔が緩む。次いで辺りに素早く視線を走らせると、どこにも動く者がいないことを確認してほくそ笑んだ。  ――子どもの肉は柔らかくて臭みがない。しかも、雌だわ。最高のご馳走ね!  黒猫は色違いの瞳を細めると「なぁん」とわざと甘えた声を出した。  すると、幼子がビクリと身体を硬直させたのが見えた。それに構わず、黒猫は澄まし顔で近寄って行く。頭の中では、幼子をどう料理するかでいっぱいだ。  ――生き肝、生き血。そんなものに興味はないわ。殺した後は数日寝かせて、いい感じに熟成させましょう。頭からバリバリ食べるの。ああ、よだれが出そう!  幸せな妄想に耽りながら、驚いた顔で黒猫を見つめている幼子へと近寄って行く。  相手は見るからにか弱く、抵抗すらままならないように思えた。黒猫の持つ鋭い爪や、凶悪な牙に襲われればひとたまりもないだろう。  だから油断した。  まるで、木に生る果物を狩るくらいのつもりで近づいてしまった。  近づいた瞬間に幼子自ら抱きついてくるなんて、想像もしなかったのだ。 「……ッ!」  小さな腕に捕らえられ、頭が真っ白になる。  予想外の反撃。油断した自分が情けなくて、同時にわが身に勝手に触れているその手を憎らしく思った。咄嗟に牙を剥き出しにする。威嚇するのももどかしい。身体をくねらせて顔を幼子の頭部へと向ける。幼子がなにをしようとしているのかは知らないが、殺られる前に殺ってしまえ。幼子の小さな頭を噛み砕いてしまおうと思ったのだ。  しかし――その次の瞬間。 「うう……」  やけに弱々しい声と同時に、ぽたん、と温かな雫が黒猫の上に落ちてきた。  それを知覚した瞬間、黒猫は動きを止めた。無意識に、自分へ降り注いでくるものに視線が奪われる。  透明感のある緑がかった夜空。絶え間なく落ちてくる流星。  ポロポロと涙を零し続けている栗色の瞳。  黒猫に降り注ぐ涙の粒は、深緑色の夜空と流星を写し取って、爽やかな煌めきを放っていた。それはまるで|橄欖石(ペリドツト)のよう。ああ、夏を煮溶かしたような緑色だ。  夢見るほどに焦がれていた宝石の涙。黒猫の心はあっという間に囚われてしまった。  ――綺麗。  だが、それも一瞬のことだ。  涙の橄欖石は、黒猫の毛並みの表面で弾けると、儚く消えていく。  黒猫は、絶え間なく降り注ぐ貴石の雨に見蕩れて――。 「泣かないで」  堪らず、幼子の頬をペロリと舐めてやった。 「ひゃあ」  すると、驚いた幼子が素っ頓狂な声を上げた。まるで泣いていたのを忘れてしまったように、涙で濡れた瞳をパチパチと瞬くと、じっと黒猫を見つめ――。 「にゃあちゃん」  ふんわり、花が咲くみたいに笑った。  その笑顔があんまりにも可愛くて。  ――ああ、これも綺麗だな。  先刻まで食べようとしていたことなんてすっかり忘れ、黒猫はしみじみそう思った。 「ん……」 瞼を開けると、そこは幽世の貸本屋だった。  クツクツとお湯が沸騰する音が聞こえる。少し離れた場所に石油ストーブがあって、その上に薬缶が置かれているのだ。電気ストーブとは違う、肌がチリチリするくらいの熱。それは黒猫の身体をほどよく温め、夢と現の境を行き来していた意識を、また夢の世界へと引きずり込もうとしていた。 「にゃあさん?」  すると、聞き慣れた声が傍で聞こえた。  優しい手付きで、誰かが黒猫の背を撫でている。ゆっくりと首をもたげた黒猫は、視界にひとりの女性を捉えて、パチパチと両目を瞬いた。目をまん丸にしたまま呼びかけに答えない黒猫に、声をかけた女性はおかしそうに笑った。 「おはよう。どうしたの? 寝ぼけてる?」  そして、慣れた様子で黒猫の顎を指先で擽る。  やわやわと触られて、黒猫は心地よさげに目を細めると言った。 「別に。大きくなったわねって、思っただけよ」 「なにそれ?」 「……夏織に初めて会った時の夢を見ていたから」  女性……夏織は大きな栗色の瞳を瞬くと、へらりと気の抜けた笑みを浮かべた。 「幽世に落ちた私を、一番最初に見つけてくれたのがにゃあさんだったね」 「覚えてるの?」 「ううん、あんまり。だって、三歳の頃だよ?」  穏やかな表情のまま、夏織は視線を移した。釣られて同じ場所を見る。視線の先には、白い雪に埋もれた中庭があった。 「でも、一番最初に出会ったあやかしが、とっても温かくて柔らかかったのは覚えてる」 「…………そう」  チラチラと白い欠片が舞い始めている。ああ、今は冬だった。そんな当たり前のことを思い出して、黒猫は目を細めた。すると、黒猫に夏織は言った。 「でも確実にわかってることはあるよ。にゃあさんが私を見つけて、東雲さんが拾ってくれたの。それが私の、幽世での始まり。現し世に帰る場所のない私に居場所をくれたこと、感謝してる」  ――帰る場所、ねえ……。  夏織に血の繋がった家族はいない。現し世には夏織を待つ者は誰もいなかった。だからこそ幽世で暮らしている。夏織は、そう思っている。  黒猫は三本の尾で床を叩くと、コロンと仰向けになった。 「ねえ夏織、撫でてくれてもいいわよ」 「あれ、珍しい。じゃあ遠慮なく」  クスクス笑いながら夏織が黒猫の腹部を撫でる。心地よい感触に身を任せ、ふと窓の外へと視線を遣ると、外は随分と冷え込んでいるらしい。窓が結露で白く曇っていた。 「……幸せだわ」  ちっとも優しくない季節に、暖房の効いた温かな部屋で、気の置けない相手と穏やかな時間を過ごせること。黒猫にとって、それは幸福の象徴のようなできごとだった。  黒猫は顔だけ向けると、夏織へ問いかけた。 「ねえ、夏織。今は幸せ?」 「またそれ?」  夏織がおかしそうに笑う。それは黒猫の癖のような問いかけだった。  気まぐれに、思いついた時に夏織の幸せを確認する。だから、同じ問いが何度も繰り返される時があった。今もそう。冬の暖房の心地よさは黒猫の琴線をしょっちゅう刺激したので、この問いは冬になってから頻繁に繰り返されていた。  すると、夏織はニッコリ笑って言った。 「もちろん」 「……ふうん」  ――なら、いいわ。 「夏織が幸せで、あたしも幸せよ」  黒猫は、自身に「にゃあ」という新しい名をくれた親友を薄目で見ると、 「ねえ、もうちょっと下も撫でて」  と強請り、夏織は夏織で「はいはい」と唯一無二の友の要求に応じたのだった。
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