Souhait.

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Souhait.

888581c1-95ba-4759-8d11-cf18ea60c141  いつの間にか眠りについた辰巳一意(たつみかずおき)が目を覚ましたのは、深夜零時を回った時刻の事だった。ごそりと寝返りを打てば、囁くような声が耳に流れ込む。 「Bonne année」 「ああ、おめでとう」  ともに新たな年を迎えるようになってから恒例となった遣り取りは、今ではなくてはならないふたりだけの儀式のようなものだ。 「今年も一年よろしくね、辰巳」  躰を抱き締め、首筋に口づけながらフレデリックが言えば、くすぐったさに辰巳の顔が僅かに歪む。あるいはそれも、ただの照れ隠しだっただろうか。  未だ明ける気配のない夜空を窓の外に眺め、辰巳はベッドサイドの煙草へと手を伸ばした。フレデリックの手から火を受け取り、紫煙とともに言葉を吐き出す。 「腹減ったな」 「そういえば、夕食を食べそびれてしまったね」  フレデリックが幾分か困ったように笑う。食事もそっちのけでふたりが欲に流されるのは、いつもの事だ。だからといって、自粛する気もないのだからどうしようもないのだが。  食事を用意してくると、立ち上がったフレデリックを辰巳は寝台に寝転がったまま見送った。  フレデリックに呼ばれ、リビングへと顔を出した辰巳はダイニングテーブルを見てて僅かに眉をあげた。テーブルに用意されていたのは、目にも鮮やかなお節料理と頭付きの鯛だ。 「全部お前が作ったのか?」 「もちろんだよ。調べながら作ったから少し時間が掛かってしまったけどね」  辰巳の口からはぁ…と、思わず嘆息が漏れる。呆れも驚きも通り越して、ここまでくれば感心するしかない辰巳だ。  丁寧に並べられた重箱からひょいと煮しめを摘まみ上げて口の中へと放り込む。辰巳のそんな不躾な仕草も、咎める者はここに居ない。 「おいしい…?」 「ああ、旨ぇな」 「よかった」  雑煮も用意してあるのだと、すぐそばのアイランドキッチンへと向かうフレデリックの背中を見遣り、テーブルへと着いた辰巳は改めて豪勢な料理の数々を見た。  インターネットででも調べたのだろう見目鮮やかな正月料理の数々は、中身もまた日本の伝統に則った定番の料理が並んでいる。これをフランス人が作ったと言ったなら、誰もが驚くだろう。  ――ほんとに、とんでもねぇ嫁を娶っちまったもんだ。  そう、思わずにはいられない。出会ってからというもの、フレデリックには驚かされる事ばかりの辰巳だ。そのうえ、今では隣にいないという事すら考えもつかない。  辰巳が重箱のお節料理をいくつか摘まんでいれば、フレデリックが漆塗りの小ぶりなどんぶりを差し出した。  見目はもとより、湯気とともにかつお出汁(だし)の香りが食欲をそそる。花の形に飾り切りされた人参を箸で摘み上げ、どこまで手の込んだ事をするのかと思わずにはいられなかった。辰巳と同棲するまで料理をしたことがなかったなど信じられない。 「旨そうだな」 「そう? 嬉しいなぁ」  嬉々として隣の席へと腰を下ろしたフレデリックは、辰巳が箸を運ぶのをじっと見つめていた。 「おいしい?」  人参を口に入れた瞬間に聞いてくるフレデリックに、辰巳は苦笑した。味わう暇もない。眉間に皺を寄せたまま人参を咀嚼した辰巳は金色の頭を小突いた。 「大人しく食わせる気はねぇのか?」 「だって気になるじゃないか」 「味見くれぇしてんだろぅが」 「それはそうだけどね…」  和食は自信がないというフレデリックの口許へと辰巳の箸がかまぼこを押し付ける。 「熱…ッ」 「ああ、悪ぃ」  なんの気なく辰巳はかまぼをこふぅふぅと冷まして、再びフレデリックの口許へと差し出した。 「ほら」  目の前に差し出された箸に、フレデリックがノックアウトされた事は言うまでもない。くらりとよろけそうになりながらも、頬がカッと熱くなる。 「っ…ちょっと…辰巳…」 「あ?」 「それは狡いよ…」 「要らねぇならいいけどよ」 「要る!」  かまぼこへと瞬時に食らいつくフレデリックに、辰巳は苦笑を漏らした。 「最初っから大人しく食やぁいいだろぅが」 「次は大人しく食べるから食べさせて?」 「ったく、甘ったれてんじゃねぇよ」  口ではそんな事を言いながらも、今度は大根を摘まんでふぅふぅと冷ます辰巳に、フレデリックは幸せを噛み締める。  普段からまぁ甘やかされている自覚のあるフレデリックではあるが、年末年始は特別なのだ。  ――もう何年になるだろう…。  年末には一年間の感謝を。年明けにはこれから一年世話になると。そう言って辰巳はフレデリックをいつにも増して甘やかしてくれる。  ――僕はなんて幸せなんだ。  一年の内で一番特別な時。年末年始はフレデリックにとってまさに天国に等しい時間だった。  美味いかどうかなどそっちのけで、口許へと運ばれる料理をフレデリックはぱくぱくと食べる。その様子を眺める辰巳の黒い瞳は穏やかだった。 「キミに食べさせてもらう食事は、格別に美味しい」 「そりゃあ良かったな」 「僕は世界一幸せなお嫁さんだね」 「あぁそうかよ」 「今年もたくさん幸せをくれる?」 「ああ」  短いけれど、迷いのない返事が嬉しい。 「ひと眠りして、起きたらお参りに行きたいね」 「そんな事まで調べたのか?」 「除夜の鐘は、聞きそびれてしまったけどね」  言いながら時計を見上げてフレデリックが笑う。百八回も撞かれるという鐘を聞いてみたかった。だが。 「間に合うんじゃねぇのか?」 「えっ?」  聞き返すフレデリックの腕を辰巳は引いた。  フレデリックが引っ張って行かれたのは、広いバルコニー。夜景を望む大きな窓を開けて外へ出れば、キンと冷えた空気の中で微かに低い鐘の音がどこからか聞こえてくる。 「これって…」 「除夜の鐘だろ」  都心のど真ん中。高層マンションのバルコニーで、まさか除夜の鐘が聞けるとは思っていなかったフレデリックだ。 「さすがにはっきりは聞こえねぇか」 「でも、除夜の鐘が聞こえるなんて思わなかった」 「小さな神社だの寺だの、案外近くにあるからな」  バルコニーに立ち、こともなげに言う辰巳へとフレデリックはそっと寄り添った。 「寒いかよ?」 「少しね。けど、もう少しこうして鐘の音を聞いていたい」  日本の宗教に興味のないフレデリックでも、何故だか聞き入ってしまう不思議な音色だった。 「百八つ。人の煩悩の数だと書いてあった」 「そうらしいな」 「本当に、たったそれだけだと辰巳は思うかい?」 「さぁな。だが、お前の場合は確実にそれ以上だろ」 「ふふっ、僕もそう思う」  遠くどこかから聞こえてくる鐘の音は確かに不思議と厳かな気分を醸し出してはくれるけれど、煩悩が消えるかと言われれば、フレデリックには信じられない。  ふっと笑えば、白い息が夜空へと消えていった。 「そろそろ戻ろうか」  あっという間に冷えてしまった辰巳の服地を、フレデリックはつんつんと引いた。  部屋の中へ戻れば暖かな空気が躰を包み込む。ほっと息を吐けば、逞しい腕がフレデリックの躰を引き寄せた。 「風呂だ風呂。寒くて敵わねぇよ」 「確かに」  辰巳もフレデリックも、シャツを羽織っただけの姿である。ただ勢いで除夜の鐘を聞きに出たものの、さすがに一月の深夜とあっては寒くないはずがない。風呂場へと直行した辰巳とフレデリックは、羽織っていたシャツを脱ぎ捨ててすぐさま熱いシャワーに打たれた。  湯に打たれてみれば、思いのほか躰が冷えていたのを思い知る。 「お前が除夜の鐘なんぞ聞きてえって言うから思わず外に出ちまったじゃねぇかよクソッ」  辰巳の苦々しい声がバスルームに反響する。が、フレデリックとてまさかシャツ一枚の姿でバルコニーに連れ出されるとは思ってもいなかった。 「僕だって外に出るってわかってたら着替えを用意したよ…」  肌をひっつけたままシャワーの下に身を置いて互いにぶつくさと恨み言を零せば、不意に笑いが込み上げる。まったく、正月早々何をしているのかと。  シャワーを浴びているうちに湯の溜まった浴槽にふたりで浸かる。辰巳と一緒に入れるようにと、特注で設置した大きなバスタブはフレデリックのお気に入りだ。  辰巳に出会うまでは湯に浸かる習慣などなかったフレデリックではあるが、今では湯船のない生活など考えられない。 「気持ちが良いね」 「ああ」  浴槽の縁にかかった辰巳の腕の中へとフレデリックは当たり前のように寄り掛かった。肩口に凭れかかった金色の髪を、時たまに無骨な手が撫でる。  ふたりの間の、ごく当たり前で、けれども何よりも大切な時間。  いつ何時、何が起きるか分からない。そんな世界に身を置くふたりにとっては、“今”という時間を悔いなく過ごすことが何よりも大事だった。  後悔などしたくはない。それが辰巳とフレデリックの不文律だ。 「辰巳。今年もまた一年、宜しくお願いします」  湯船の中でかしこまるフレデリックに、辰巳は小さく笑った。 「素っ裸で言うような科白じゃあねぇな」 「何も纏っていないからこそ、これが本当の僕だよ」  フレデリックに言われてしまえば、辰巳に返す言葉はなかった。誰よりも外見に(こだわ)るくせに、いざとなればその身ひとつでこうして勝負して来るのだから手に負えない。 「こっちこそ、世話になる」 「今年もまた、素敵な一年になると良いね」 「してやるよ」 「ふふっ。キミが言うなら間違いないね」  今年も良い年になる。そう言ってフレデリックは微笑んだ。 END
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