Il aime le chocolat amer.

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Il aime le chocolat amer.

1841c43e-18e6-492e-9e52-e8959bc9e40a  その日、辰巳一意(たつみかずおき)が仕事から帰ると、マンションの玄関には随分と甘い匂いが漂っていた。いつもなら鍵が開けば動物並みの聴覚で玄関まですっ飛んでくるフレデリックの出迎えが、今日はない。  僅かに感じる寂寥感を気のせいだと押し殺しながら靴を脱いで上がりこみ、リビングのドアを開ければ甘ったるい香りは増々強さを増した。甘いものが苦手な辰巳にとっては、その匂いだけで胸焼けしそうな勢いだ。自然と、零れ落ちる声が渋くなる。 「おいフレッド…、こりゃあ一体何の匂……ああ?」  辰巳の声が途中から怪訝な呻きに変わったのは、広いリビングのど真ん中に置かれた大きな布の山のせいだった。  胸像などのお披露目の際に目隠しのために布がかけられている様を想像して欲しい。ダイニングテーブルの上に置かれたその高さは、身長百九十一センチのフレデリックの胸の辺りまである。と、そう言えば大きさはお分かりいただけるだろうか。 「おかえり辰巳」  にこにこと上機嫌なフレデリックの表情が明るければ明るいほど、辰巳の表情は険しくなっていく。  美術品でも購入したのかなどという思考に辰巳が至らないのは、当然部屋に漂う香りのせいだった。嫌な予感しかしない。 「一体そりゃあ何だ…」 「ふふっ、今日はバレンタインだからね。辰巳のために一生懸命チョコレートを作ってみたんだ♪」  ササッと音もなく歩み寄り、辰巳の腕をフレデリックがあっさりと捉える。そのままズルズルと布の目の前へと連行された辰巳は、思い切り眉根を寄せてフレデリックを見た。 「チョコレートってデカさじゃねぇだろうお前…」 「辰巳への愛が溢れてしまった結果かな」  照れもせずそんな事を宣いながら、フレデリックは辰巳の頬へと口付ける。チュッと軽やかな音をたてて離れたキスに、辰巳の口角がピクリと引き攣った。はっきり言って、碌でもない予感しかしない。 「さあ辰巳、あけてくれたまえ♪」 「はぁ…」  頗る嬉しそうな顔つきで左手で布の山を指し示すフレデリックに、辰巳は渋々と布地の端へと手をかける。 「あ、繊細なものだから優しくね」  僅かに頬を赤らめながら言うフレデリックを横目に、辰巳は小さな溜息をつきながら嫁の力作を覆っていた布を外した。  中から現れたのは、まるで生け花のようなチョコレートアート。  花弁の一枚一枚まで美しいラインを再現されたそれは、確かにフレデリックの言う通り繊細なものだった。ついでに言えば、周囲には本物の生花がセンス良く飾り付けられている。 「お、おお…?」  チョコレートアートなどに興味のない辰巳でも思わず驚いてしまうほど手の込んだそれは、素人が作ったものとは思えない出来栄えだった。 「ふふっ、驚いてくれたかい?」 「まぁ…」 「甘いチョコレートも使っているから香りは甘いけれど、基本的にはビターチョコで出来ているから辰巳にも食べられるはずだよ」  言いながらあっさりとチョコレートで出来た花を一輪、ポキリと手折ってフレデリックは辰巳の口元へと運ぶ。  その様子に、辰巳は呆れたように小さく首を振って口を開けた。パキッと微かな音を立てて花弁を一枚齧り取れば、口の中に程よい苦みがひろがった。 「せっかく作ったのにそんな簡単に折っちまっていいのかよ?」 「辰巳に食べてもらうために作ったのに、食べさせなかったら本末転倒じゃないか」 「そりゃあそうだがな…」  食べさせるためだけならばもっと簡易な食べやすい形に作ればいいと辰巳などは思うのだが、フレデリックにそんな事を言ったところで、また”愛が溢れた”などと言われるのがオチだろうとそう思う。  フレデリックにされるがままジャケットを脱がされた辰巳は、椅子を引き出して腰かけた。 「ところで晩飯は? …つっても、この匂いじゃあ食欲も沸きやしねぇんだがよ…」  ガシガシと頭を掻きながら、辰巳は小さく鼻を鳴らす。どうしてくれるんだとフレデリックを見上げる辰巳はだが、そこに視線を泳がせる嫁の姿を発見して苦笑を漏らした。チョコレートを作る事に熱中して夕食の支度を忘れていたらしいと辰巳が気付くには、それだけで充分だったのである。 「忘れてやがったな?」 「う…っ」  大げさに溜息を吐いて辰巳が立ち上がれば、フレデリックに慌てたように肩を押し返された。 「すっ、すぐ用意するから少しだけ待っていてくれるかな…!」 「こんな甘ったるい匂いん中で飯なんぞ食う気分じゃねぇよ。たまには出るぞ」  脱がされたジャケットを再び羽織り、辰巳はフレデリックへと玄関を顎で示す。行くぞ…と、そう言うように。  今しがた帰ってきたばかりの玄関へと戻れば、フレデリックが大人しくついてくる。辰巳が振り返れば、未だすまなそうな顔をしているフレデリックの姿がそこにあった。 「何をしょげかえってやがんだよ。あんだけのもん作ってりゃ飯作る余裕もねぇだろ」 「うぅ…」 「ったく、嫁に愛され過ぎんのも考え物だな。胸焼けしてしょうがねぇ」  呆れたように笑いながらそう言って、辰巳はフレデリックの頬へと唇を寄せた。ついでの如く耳元に囁いてやる。 「ありがとな」  一瞬にして真っ赤になるフレデリックの頬へと再び口付ければ、その肌は随分と熱かった。 END
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