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その1.凄まじい苦味に挑め!
「明穂っ! あたしはこれから、大人の階段をのぼっちゃうよ!」
「う、うん」
「その瞬間を、しかと見届けてよね!」
「ああ、うん。まあ、わかったよ、沙弥」
放課後。
二人で下校する途中。赤い自販機の前にて、沙弥と明穂の幼馴染み二人コンビによる、とってもしょーもないやりとりがなされていた。
無駄に勢いに乗った沙弥に対し、突っ込みを入れるのは無粋かなと、明穂はそう思った。こういうときは、好きにやらせるのが一番なのだ。たとえ、その結果がどうなろうとだ。
とにかく、ツインテールの元気娘沙弥は明穂に『階段を駆け上がっちゃる!』と、宣言したのだ。
そして、立会人である明穂を横目に、沙弥は腰に手を当てて、きつく目を閉じた。
「いざ! 参る!」
そのままぐひびっと一気にそれを飲み干……そうとしたが、あえなく失敗した。
「ぶぽっ! ぶ、ふぇっぺぺぺえええっふぇっふぇっぇぇぇっ!」
「わーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
沙弥は、ブラックコーヒーのとてつもない苦さに耐え切れず、吹き出していた。明穂の方目掛けて、黒い飛沫を上げた。スプラッシュした。
「げふぉげふぉぶえへびょほひょひょげひぇひぇぶびょっ!」
およそ、年頃の女子とは思えぬ程に見苦しいむせかえりっぷりだった。
「あ~もう! 汚いなあ!」
「あぎぼ。ずごじ、じんばいじで……」
冗談抜きで苦しそう。沙弥は涙目になっていた。
「あ~はいはい。大丈夫かい?」
明穂はポケットから青いハンカチを取り出し、自分と沙弥を交互に拭きつつ、むせかえる沙弥の背中をさすってあげるのだった。とっても優しい。
「だからやめておきなって言ったのに」
「んな! 悔しいじゃん! たかがブラックコーヒーの一本も飲めないだなんて、舌がお子ちゃまじゃんそんなの!」
「たかがって言うけど、大人でも苦手な人はいると思うよ? ブラックコーヒーなんてさ」
「い~や! 大人はブラックコーヒーの一つくらい、涼しい顔で飲み干せるもんなの! そうに決まってる! そうでなきゃいけない!」
大人はブラックコーヒーを飲めるものだと、なぜか思い込んでいる沙弥だった。根拠など、どこにもない。
「そうかなあ。……というかさ、その缶コーヒー。激苦味とか書いてあるじゃない。苦MAX缶ってさ。話には聞いていたけれど、ブラックの中でもとびきり苦いやつだよ? 伝説級のやつだよ?」
明穂は何気ない手つきで、沙弥が持っていた缶コーヒーを取って口をつけ、一口飲んでみた。
「うっわ……。苦い……。ものすごく苦いよこれ。うぅ……」
明穂は、沙弥よりはコーヒーに対する耐性があると自分でも思っていたが、この缶コーヒーは極め付きだったようだ。とても飲めた代物ではない。ぺっぺっと舌を出して嫌がっている。
「飲むにしてもさ。もう少し優しいところからトライしてみようよ。ね?」
微糖タイプとか、そういうところからがいいんじゃないかなと、明穂は沙弥を諭すのだった。
「そうする。……っていうか、明穂さ。何さりげなく、間接ちゅーしちゃってんの?」
「あ……」
言われてようやく明穂は気づいた。頬がほのかに赤く染まっていく。
「……い、いいじゃない。キスくらい。普通にしてるんだから」
「……最近してないよ?」
急にじーっと見つめられて、明穂は思わず視線を逸らす。
「そ、そういえば、そうだね。していないかも、だね」
「したくなってきた」
「そ、そう?」
「後でしてよね?」
「わかったよ。後で、しようね。キス」
「する!」
飲みきれなかったものの、ここで捨ててしまうのは大層悔しい。家に帰ってミルクでも入れてから飲み直すことにした。
沙弥は、こぼさないようにと缶を握り、持っていくのだった。
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