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「ばかじゃないの」。その科白は、二回目になってようやく鋭い牙を剥いた。一回目と二回目で、ぼくの捉える意味は大きくちがった。一回目のとき、彼女は実際、吐き捨てたのだ。目の前でへらへらおどけているぼくを。
ぼくは何も言えなくなった。そうなのだ、このことは、世間話にしてしまっていいことではなかった。少なくとも、軽い気持ちではなかった。ぼくは重い決意をしていた。どこまでも沈むようにと、重く、重く……
結局ぼくは、これが初めての試みだったことを告白できなかった。初めてでも、ぼくにとっては待ち望んだできごとだったのに。
みんな、ぼくのことをどんなふうに思っていたのだろう。ぼくはみんなの期待に応えようと精いっぱいおどけていただけだった。誰もほんとうのぼくなど見てくれなかった。
二人のあいだの沈黙は波の音が埋めてくれた。たぶん、ぼくたちは、各々でもの思いにふけっていた。ぼくと彼女はちがうようでいて、実は同じしこりを胸にかかえているというのが、どこかちぐはぐな気がした。同時に、一人ではないのなら、海とひとつに溶けあえなくても、どこまでも波のあいだを揺蕩っていけるような、奇妙な自信が沸き立ってきた。
「……きみは、初めて会った相手と心中できる?」
彼女は不意を突かれたようすで、瞳がわずかに揺れた。その揺らぎが消えたかと思うと、「素敵なお誘いね」とかすかに笑み、視線を滑らせて水平線の上で止めた。ぼくもつられて見遣ると、それはしゅっと引き締まった、うつくしい水平線だった。
「でも、残念でした。もう七回目はないの」
ぼくの自信は泡となって弾けた。弾けた音は意外に大きく、ぼくをぐらつかせた。力が抜けて、しばらく立ち上がれそうにない。
反対に、彼女のほうはいとも軽々と腰を上げると、曲に合わせてステップを踏むかのごとく、寄せる波に向かって一歩、跳んだ。彼女の素足に透明な水がまとい、飛沫を散らして、きらきら舞った。
普段のぼくだったら、きっと彼女の気持ちは生半可なものだったのだと冷ややかに決めつけただろう。しかし奇妙なことに、今のぼくは彼女を軽蔑することができなかった。六回も海に拒まれるという稀有な体験をしたせいか、彼女はちがうフェイズに存在しているようにみえた。生死の境を越えたところに。
そのとき、肌にひかりを感じた。陽のひかりだ。この砂浜のうえで、届かなかったもの。海のなかで、ずっと見上げていた、あぶくが吸い込まれてゆくその先にあるもの。
「死ぬことを躊躇わないことで、見えてくるものもある。わたしたちはこうして、ちいさな奇跡を、すくいとってゆくしかないの」
息を呑んでいた。「ちいさな奇跡」。ぼくにとっては途方に暮れて、どうしようもないこの情況を、彼女は奇跡と称したのだ。ぼくの身体中を血がめぐるのが伝わった。ぼくにだって鼓動はあった。
彼女はどこまでも彼女であって、彼女が持つひかりも、彼女にひそむ陰も、彼女以外でありえなかった。見ていてそれがよくわかった。だから彼女は海に拒まれる。彼女は海とひとつに溶けあえないひとだ。
滲むような空の青。透きとおるような海の青。ぼくの視界であぶくがちらつく。サイダーを透かしたみたいに。
ぶくぶく、ぶくぶく。
ぶくぶく、ぶくぶく。
ぼくは沈んでゆく。ひかりから遠ざかる。それでも、
ぼくは手を伸ばす。ひかりに。
ほかでもないあなたが「それでも生きよ」と言うのなら。どうか、ぼくと一緒に、生きてください。
Fin.
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