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男がテレビ局内にある喫茶店のソファーに腰掛けタバコを吸っていた。
男の骨ばった骨格とかつてジャワ島にいたとされる原人のような平らで引っ込んだ頭蓋骨が男の知能の低さを周りの人間に印象づける。そして細くするどい鷹のような眼差しには優しさのようなものがまったく感じられず、野生生物のような緊張感にあふれた瞳は男が小さなことでも興奮して怒り出すだろうということを如実にあらわしていた。
男の名前は田所守(たどころまもる)。日本人なら誰でも知っている大物芸能人である。お笑い芸人である彼はトーク番組でのその軽妙なトークでゲストとしてやってきた芸能人たちの魅力を引き出す能力に長けていた。彼の番組に出た後で世間からの認知度が上がり人気が出て他の番組からの出演依頼が殺到するということもめずらしくはないことだった。
だから田所は芸能界で一目置かれる存在であった。それは大手芸能事務所の社長が彼の楽屋に現れ、わざわざ菓子折りを持って挨拶をしにくることでも分かることだろう。
田所が肺の中に大きく吸い込んだ煙を吐き出す。禁煙と書かれた張り紙が田所にはちゃんと見えていた。しかしそんなものを彼はまったく気にしていなかった。禁煙の喫茶店なんてバカげている。喫茶店なのだからタバコを吸って何が悪いのだ。自分は芸能界の頂点に立っている男なのだ。そんな自分が一般人みたいに人目を気にしてタバコを吸いたいのを我慢する必要などないのだ。
さっきからさかんに田所はテーブルの上に向かって煙を吐き出していた。テーブルの上に置いたタバコを煙で動かそうとしていのだ。動くわけがないのは田所にもよく分かっている。ひまつぶしにちょっと思いついた遊びのようなもので時間つぶしに何気なくしていたのだった。
田所の視界の隅に若い女性の姿が目に入る。
彼女の名前は佐藤美樹(さとうみき)、女優だ。CMにもたくさん出ている人気者の彼女は多数のドラマに出演し人々の心を鷲掴みにしていた。
美樹と一緒にいたマネージャーが田所に気がつく。そして一緒にいた美樹に何かを言うと自分はそのまま真っ直ぐ通路を通り過ぎていった。
美樹が田所の方をチラリと見て一瞬、逡巡してから田所の所にやってきた。
それを田所はじっと見ていた。
当然のことだ。芸能人で自分がいるのに気がついて挨拶もせずに通り過ぎることなど許されることではないのだ。
「おはようございます田所さん」
頭を下げながら挨拶する美樹の姿を田所がじっと見つめる。
いつ見てもいい女だ。田所は前々からテレビ番組で美樹のことが好きだと公言していた。美樹が今の人気者の立場にあるのも田所の番組での発言が大きいと彼は思っていた。
それなのに――。美樹は田所をどうやら避けているようにも見える。さっきも彼女は田所に気づかずに前を通り過ぎようとしていた。しかし美樹が通り過ぎる前に田所がいることに気が付いていたことはあきらかだ。なぜなら田所がいつもこの時間にこの場所でお茶を飲みながら美樹を待ち伏せしているのは彼女も知っているはずなのだから。
さっきも田所の所に来る前に一瞬嫌そうな顔をしたのを彼は見逃さなかった。まるでストーカーにでも付きまとわれて迷惑しているようなあの顔をいつも美樹がするようになったのはいつからだろうか?
芸能界に入ったばかりの頃の美樹は田所によく笑顔を見せてくれた。そして彼のファンだと言っていたのだ。それがちょくちょく顔を合わせて話をするようになり、お互いのことをよく知るようになると急に彼女は田所を避け始めるようになったのだ。
二人が無言で見つめ合う。
それは愛する二人がするようなものではなく、まるで性犯罪者に付きまとわれ困っている被害者と加害者のような雰囲気を美樹が醸し出すのだ。
相手がイケメン俳優だったらこんな態度を取らないくせに――。
美樹は週刊誌にドラマで共演した俳優たちのマンションに訪れる姿をたびたび取られているのを田所は知っていた。
本当は男のことが好きなくせに。どうして自分にはそんな嫌そうな態度を取るのだろうか? まさか顔がイケメンではないという理由だけではないはずだ。
田所がタバコの煙を空に向かって吐き出す。それを黙って美樹が見つめる。
ほら見ろ。もし自分のことを美樹が嫌っているとしたら、どうして吐き出したその煙を避けようとはしないのだ。田所の体内に入ったその煙は田所のエキスを含んだ代謝物のようなもので、それを避けずにその空気を吸っている美樹の態度は田所の身体を欲しているというサインなのではないのだろうか?
女性は本心をはっきり言わない。自分が相手の身体を求めているのにそれを素直に自分の口からは言わないのだ。二人きりで部屋の中で裸で一緒になる機会があったなら、美樹も素直になるだろうことは疑いのないことだ。
田所の頭の中にある考えが浮かぶ。
いっそのこと胸を触ってやろうか? いつも田所がパブでやっているように何気ない仕草でテーブルの上のオシボリを手に取ろうとするフリをしてそのまま美樹の胸を触っても彼女は嫌がらないのではないだろうか?
彼女も女優だ。ドラマでは好きでもない男たちと唇を重ねたり、一緒のベッドに裸で入ったりしているのだ。ちょっと胸を触られたくらいで騒ぐような真似をしたりはしないだろう。ドラマの撮影で痴漢に襲われ、身体を触られるシーンを撮っていると思えばいいじゃないか。
……よし、やろう。
田所がそう決意をして左手を美樹の方に伸ばそうとする。そして美樹の目をチラリと見た。
まっ、まずい。あ、あの目はいけない。完全に田所を拒否している目だ。生理的にまったく受け付けないという目をしている。なぜだ、なぜ、そんな目をするんだ。まさか胸を触ったら警察に通報でもするつもりではないだろうな? テレビの人気者がそんなことをしたらワイドショーのイイカモになってしまうんだぞ。
美樹の手に携帯が握られていることに田所は気がついた。その液晶画面に映るその番号は警察へのものであった。
田所の手の動きが止まり、その額からは大量の汗が出てくる。
なんてことだ。自分が身体から出したかったのは汗ではなく他のものだったのに……。
くそう、なんてことだ。こんな小娘にこんなにも恐怖を味合わされるなんて。相手がイケメン俳優だったら喜んで胸を触らせるくせに、どうして、どうして自分には胸を触らせてくれないんだ。顔の作りがちょっと違うだけじゃないか。人間とチンパンジーなんてDNAが99%一緒であんなに違うんだぞ。それに比べたら自分とイケメン俳優なんて同じようなものじゃないか!!
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