月とすっぽんぽん

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月とすっぽんぽん

 我慢と諦めばかりの人生だった。  いつでも、自分さえ我慢すれば揉めずに丸く収まるのだと思うと我慢してしまう。それが物心ついた時からの早智子の性格だった。  欲しいものがあっても、他に欲しがっている子がいれば黙って譲る。  他にやりたいことがあっても、黙ってみんなと同じことをする。  それで喧嘩にならずにうまくいくなら、ちょっとくらい自分が我慢すればいい。なんでも諦めておけば、楽に生きられるのだから。  そうして早智子は四十代の今まで生きてきた。  今日は上司に怒られた。  早智子が担当した客から、商品に同封した納品書の金額が間違っていると電話があったのだ。  間違えたのは早智子のミスだったが、たいしたことのない間違いだった。  客も別に怒っているわけではなかったし、納品書ぐらい謝って作り直せば良いだけの話だ。それなのに部長に呼ばれ、ネチネチと三十分も説教を聞かされた。 「抗議したほうがいいですよ」  数年後輩の野宮さんはロッカーでデオドラントスプレーの缶をシャカシャカ振りながら鼻息荒く言った。 「そんなちょっとしたことで三十分も使うなんて部長は暇なんですよ。先週佐々木さんが同じようなミスした時はぁ、ちょっと注意しておしまいだったっしょ。あたしだったらえこひいきだって文句言ってやりますよ」  野宮さんはみっちりした固肥りの体のあちこちにスプレーを噴射し、せかせかと着替えをすませると、子供の塾の迎えの時間だからと慌ただしく出て行った。  話に出てきた佐々木さんは、入社数年めの若手女子社員である。大人しくて顔がまあまあ可愛くて、おっぱいがまあまあ大きい佐々木さんは男性社員に人気がある。  そりゃ同じミスをしても二十代の若く可愛い女の子と、分け目から白髪がピンピン立った四十代のおばさんとでは部長の態度が違って当たり前だ。自分が部長だったとしても、佐々木さんは許すが早智子にはネチネチ嫌味も言いたくなるだろう。  こんな時までいつもの癖で、自分さえ我慢して謝っておけばうまく収まるんだから、と思ってしまうのだった。  ぐう。  日々のあれこれを我慢しても腹は減る。  ああ疲れた、夕飯は近所の定食屋で食べて帰ろう。こんな日はジューシーで香ばしいザンギ定食に限る。  おひとりさまでの外食は、これと言って趣味のない早智子の唯一の息抜きなのだ。  帰宅した早智子は、帰りにセイコーマートで買ったチューハイを飲みながらテレビをつけた。  画面に映ったのは、ちょうど今期人気のドラマで、さえないOLの主人公がひょんなことから大企業の御曹司と出会い、最初は反発しあっていたが最後には多分結ばれるコメディータッチのラブストーリー、というありきたりな代物だった。主演の女優と相手役の俳優が今人気の美男美女なので人気があるというだけのことだろう。  こんな美人がさえないOLなんて、設定からして無理があるっしょ。  心の中でつぶやきながらドラマを見る。 「君が好きだ」  画面の中のイケメン俳優が真面目な顔で囁いた。 「ちくしょう」  早智子も囁いてみた。  本当は大声で叫んでみたいところだけど、隣の住人に聞こえて迷惑になるといけないから我慢したのだ。 「バカヤロウ」 「ふざけんな」 「部長のハゲー」  囁いているうちにだんだん面白くなってしばらく続けていたが、ふと馬鹿らしくなってやめた。  ドラマは主役の二人が両想いになり、めでたしめでたしと思いきや腹黒っぽい元カノが登場して一波乱起こりそうという、いよいよありがちな展開になったところで次回に続く、となった。  もう風呂に入って寝よう。  早智子は残りのチューハイを飲み干して缶を潰した。  夜中。  ふと気配を感じて早智子は目を覚ました。  何かが部屋にいる。  ハッとして身を起こすと、部屋の真ん中に宇宙人が座っていた。  宇宙人。  もちろん早智子は宇宙人なんて見たこともないし信じてもいなかったが、それでもそれは宇宙人としか言いようのない姿だった。  灰色がかった肌は体毛も頭髪もなくぬるりとしている。  丸い頭は大きく、あごは小さく尖っている。  大きな目は真っ黒でつり上がったアーモンド型。  体つきは痩せてひょろっとしている。 「え」  こんな時でも大声で騒ぐことができない性分である。  小さな声を上げて早智子が身を起こすと、宇宙人が喋った。 「ワ~レ~ワ~レ~ハ~、ウチュ~~ジン、ダ」  その声は、よく子供がふざけて喉を手でチョップしながらやる宇宙人のモノマネそのものだった。 「な、何」  状況がよく呑み込めないままに早智子が眉をひそめると、宇宙人はうなずき、早智子に素早く近づくと顎に手をかけた。 「キ~ミ~ヲ~、ム~カ~エ~ニ~キ~タ~」 「私を? 迎えに?」 「ウ~チュ~ウ~ニ~カ~エ~ロ~ウ~」 「宇宙に……」  黒くつやつやした宇宙人の目に、天井の常夜灯に照らされたオレンジ色の早智子の顔が映っていた。  顎に添えられた彼の指はひんやりとしていた。  こちらをじっと見つめる彼の黒い目は、今はどこまでも深い穴のようで、早智子は吸い込まれそうな気がした。  恋に落ちるのに理屈はいらない。  その瞬間早智子の心は決まった。 「はい、宇宙に行きます」  ああ、こんなにもはっきりと自分の気持ちを表したのは生まれて初めてかもしれない。  早智子はうっとり目を閉じた。  翌朝。  いつものスマホのアラームに起こされ、早智子が目を覚ますと宇宙人の姿はどこにもなかった。  あのあと、宇宙人は早智子にそっとキスをし、そのまま二人はベッドに倒れこんで愛し合ったはずだった。  夢だったのだろうか。  宇宙人がやってきてあんなことやそんなことをしたなんて、やっぱり夢に決まっている。ちょっと私、欲求不満なのかしら。でも、まさに夢のようなひと時だったな……。  余韻に浸りながら早智子が立ち上がった瞬間、ぐりん、とお腹の中で何かが動いた。 「あっ」 「ツ~ギ~ノ~マ~ン~ゲ~ツ~」  早智子の頭の中に直接声が響いてきた。 「ツ~ギ~ノ~、マ~ン~ゲ~ツ~ノ~、ヒニ~」 「次の満月の日……」  夢じゃなかった。次の満月の日に、やっぱり彼は迎えに来てくれる。  早智子はお腹に手を当て、薄く微笑んだ。  北海道は春になってもまだまだ朝晩は結構冷える。  早智子は長いトレンチコートを着て、夜の札幌駅前広場に立っていた。  あれからろくに会社にもいかず、毎日部屋で瞑想ばかりしていた。そのおかげで早智子にはだんだんとわかってきたのだ。  あの宇宙人は、宇宙の意識体だったのだ。私は彼と愛し合い、宇宙の集合意識につながった。  私の魂の一部は、生まれる前からずっと宇宙に残されていたのだ。  そして、あの夜彼によって宇宙の一部が私の胎内に残されることによって、それらがつながってきたのだ。  毎日瞑想を繰り返し、自分の中の宇宙意識と対話を続け鍛錬してきた。そして今日こそ、人間としての実体から解放され、宇宙と一体化し、ついに私は宇宙の一部となるのだ。  早智子は夜空を見上げた。  満月がしんと輝いている。  早智子は静かに目を閉じるとトレンチコートの前を広げた。  コートの下は裸だった。  肌寒さに紫っぽく縮んだ乳首がピンと立った。  干からびた塩もずくのような陰毛が風にそよいだ。  正面から歩いてきたサラリーマンが早智子にぶつかりそうになり、スマホから目を上げた瞬間「うわっ」と驚いた。  近くにいた化粧の濃い女子高生たちがギョッと目をむいて口々に「あれヤバクナイ⁈ ヤバクナーイ⁈」と騒ぎ出した。  チャラチャラした大学生風の若い男のグループは「まじで⁈ まじで⁈」とゲラゲラ笑いながら早智子にスマホを向けた。  向こうの方のキャリーケースを引いた中国人の団体も、早智子を指差して声高に騒ぎながらスマホを掲げ始めた。  そんな騒ぎは意に介さず、早智子は靴を脱ぐと、一歩踏み出してはらりとコートを落とした。  生まれたままの姿になった早智子は大きく息を吸った。 「おぼおおおおおおおおお‼︎」  叫びながらマウンテンゴリラのドラミングのように拳で胸をどどどどど、と激しく叩いた。  そして早智子は走りだした。全速力で札幌駅前通りを走った。  乳や腹肉がたぶたぶ揺れた。息が苦しかった。それでも早智子は走りに走った。  早智子が走ると、道ゆく若者たちも帰宅途中の会社員たちも、外国人観光客たちも次々に「うわっ!」「キャッ!」「アイヤー!」「Oh!」と驚きの声をあげて道をあけた。  横断歩道も早智子が差しかかると示し合わせたようにちょうど青に変わっていった。  モーセの十戒のように人波を割りながら、ノンストップで裸の早智子は走り続けた。  走って走って大通公園近くまで来た。息が切れて胸が痛く、もうこれ以上走れないと思ったその時、歩道の段差につんのめって早智子は転んだ。  顔面を強打した上にあちこち擦りむいたらしく、体中がヒリヒリと痛んだ。大の字になったまま、歩道の上で早智子はゴロンと寝返って天を仰いだ。  満月が綺麗だった。  ――宇宙へ。 「連れて行って」  遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。  早智子は目を閉じた。ズキズキする両鼻から生温かいものが流れるのを感じた。  その瞬間、あたりを眩しい緑色の光が包んだ。  あまりの眩しさに、その場にいた人々は全員叫びながらしゃがみこみ目を閉じた。  走っていた車たちは凍りついたように動かなくなった。  光はいよいよ強くなり、建物も街路樹も公園も、早智子の姿も何もかもが飲み込まれて見えなくなった。  少しののち、唐突に光はやんだ。  人々は目を開け、何事もなかったかのようにまた歩き出した。車たちもいつも通り走り出した。  街のざわめきが戻って来た。  しかし路上に早智子の姿はなかった。  人々は誰一人今の出来事を覚えてはおらず、また彼らの全てのスマホからも早智子の写真や動画は一つ残らず消えていた。  それきり早智子は消えてしまった。誰の記憶からも。  早智子がどこへ行ったのか、それは誰にもわからない。  ただ満月だけが、何もかもを知っていながら静かに輝いていた。
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