それ、お母さんのお腹

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最後に私が見たものは、月明かりに照らされる継母の青白い顔だった。 扉の閉まる音と共に私の視界は黒く塗り潰された。 窓のない納戸には冷たい月明かりさえも入ってこない。 裸電球が一つ低い天井からぶら下がっているはずだが、継母はそれをつけてはくれなかった。 視覚と一緒に全てを奪われたように感じた。 音も匂いも温度も全て暗闇に吸い込まれてしまったかのように。 春の夜はまだまだ寒い。 一番最初に戻ってきたのは触覚だった。 肌が司るその感覚は人が思う以上に繊細で、物体だけでなく、液体、そして気体までも敏感に感知する能力を持っている。 「さむい」 私は納戸の冷んやりと湿った空気に晒した下半身をすり寄せた。 冷たくなった左右の足の指先を重ねる。 「おかあさん、まだ?」 自分の声と一緒に聴覚が戻ってくる。 戻ってきた聴覚で扉の向こう側を探る。 何も聞こえない。 その場にしゃがみ込むと、ぴちゃりと濡れたような床がお尻に吸いついた。 何も聞こえないはずなのに、ツーーーと細い電子音のようなものが聞こえてくる。 子どもの頃の私はそれが面白く、しばし暗闇の中でこの音で遊んだものだ。 大人になって分かったが、これは耳音響放射という静かな場所で脳から聞こえてくる単調な高音で、生理的な耳鳴りらしい。 耳鳴りで遊んでいると次第に嗅覚が戻ってきて、納戸のうっすらとしたカビ臭い空気に鼻をひくつかせた。 触覚、聴覚、臭覚が戻っても、視覚が戻ってくることはなかった。 相変わらず私の視界は黒く塗り潰されたままだった。 これでは目を開けていても閉じていても同じだった。 途中から自分が目を開けているのか閉じているのかが分からなくなってくる。 継母はいつまでたっても戻って来なかった。 「おかあさん」 私は囁くように継母を呼ぶ。 大声を出してはいけないと思った。 扉に鍵はかかっていなかった。 けれど勝手にここから出てはいけないと思った。 大声を出したり、ここから出たら継母に叱られる、そう思った。 きっとさっきよりもっとキツくお尻をつねられる。 さむい。 私は団子虫のように体を丸めた。
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