むかしむかしのお話で

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むかしむかしのお話で

 狸は無実だった。その真実に気が付いた時には、もうすでに彼は、兎の腹の中に納まっていた。先刻まで、うまい、うまいと舌鼓を打っていた己への嫌悪感が、口から飛び出そうとするのを、必死に抑える。  考えてみれば、あの純朴で人を疑うことを知らぬ若者が、老夫婦を害そうなどと企むはずがあり得なかった。騙されていたのは兎自身だったのだ。 「どうかしたのかい」  背後からそう声をかけてきた人物へ、兎は振り向くやいなや飛びかかり、その喉元を掻っ切った。迷う暇などなかった。そんな躊躇をしていれば、此方がやられていただろう。そこに立っていたのが、狸に殴り殺されたはずの人物であるという現実が、なによりもの証拠だった。  だが致命傷を与えたはずの彼女が倒れることはない。おばあさん、いや人の形をしているだけの、得体の知れぬ化け物が、そのしわがれた指で首を一撫ですると、何事もなかったように傷は閉じた。 「お前は鬼なのか」  兎は自らが理解している範疇で、最大限の悪を彼女に問うた。 「それを演じていた時もあった」  その問いは聞き飽きるほど、投げかけられたものだったのだろうか。彼女は冷たい声でそう答える。しばし訪れた静寂の中で、兎は己の小さな心臓が激しく跳ね回っているのを感じた。 「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり」  背後から突如、聞き慣れた声が兎の大きな耳に入った。それは彼に「妻の敵討ちをしてくれ」と懇願してきた声であった。見ると、少し前まで自らが居た場所に、音もなく現れた老人が、あぐらをかいて座っている。 「野山にまじりて竹を取りつつ、よろずのことに使ひけり」  彼が吟じているのは全ての物語の始祖、竹取物語であった。とすれば、彼らの正体は。しかし、あのお伽噺の結末は、月の姫から渡された不死の秘薬を、山の頂で燃やしたというものだったはず。 「そんな、勿体ないことするはずがないじゃない」  兎の心を見透かした声は、鈴のような音色を纏っていた。振り返ると、今度は見芽麗しい乙女がそこにいた。だが彼女が放つ瘴気が、先程までの媼であることを示している。まさか狸を食らったことで、化けられるようになったとでもいうのだろうか。いや違う。もう既にこの者達は、理を外れているのだ。  狂っている。と兎は思った、だがそれが、生来の狂気なのか、力に溺れた結果なのか、はたまた悠久の時に蝕まれたものなのかの分別はつかない。  かちかちという耳障りな音が、自分の歯から出ていることに気が付き、やっと己が恐怖している事を理解した。前門の虎、後門の狼などという生易しいものではない。彼らが発する重圧によって、天敵から身を隠すための茶褐色の毛皮が、冬が訪れたように真っ白に染め上げられる。  しかし、兎の瞳は諦めていなかった。この事実を誰かに伝えなければならない。部屋の入り口に向かって、文字通り脱兎のごとく駆け出した。  だがその僅かな勇気も、細い腕によって簡単にねじ伏せられる。女は軽々と兎を持ちあげ、もう片方の手で、腰に着けていた袋から何かを取り出した。それを見て、兎の頭の中で警鐘がけたましく鳴る。それは本能だけの警告ではない。その効能を彼は知っていたのだ。あの団子を口にすれば最期、どんな畜生も、主の言いなりになるしかない。 「のろまな亀と競争させるなんてのも面白そうね」  そう笑う彼女に、もう殺してくれてと頼んでも意味がないのだろう。そう嘆願しても殺されるのは己ではなく、代わりすっぽん鍋が明日の食卓に並ぶだけだ。  もはや残された道は、道化を演じることで、他の動物を傷つけることなく、この夫婦を楽しませ続けるしかないのだ。だが何時か、何時きっと、その時が来れば...。兎は怒りと復讐の決意を、その眼に赤く宿した。  さてこれ以上、事の顛末を話す必要もないだろう。全てはむかしむかしのお話で、その続きを書こうなどという思いあがった行為は、誰にとっても不幸な結末しか生まないのだから。
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