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第5話 憑き物の御門違い 前段
翌朝、立花美由紀が目覚めたのは慣れ親しんだ煎餅布団の上でした。長い夢を見ていたような、ずっと頭に靄がかかっていたような心持ちであったといいます。
「目が覚めたね」
無遠慮に覗き込んでくるのは土御門光雄です。普段の安っぽい着物姿で、飄々ととらえどころのない様子ながら、どこかほっとしたような声でした。
「光雄さん! あたし……」
美由紀が身を起こすと、体に巻きつけていた布切れが、憑き物が落ちるようにほろりと落ち、その胸元を半ば露わにしてしまいました。
はっとして掛け布団を引き寄せ、身をよじる仕草が愛らしく、顔を赤くして縮こまっているところなど、昨夜までの寝子とは別人のよう。
「いやぁ、眼福、眼福」
「もう! やめてよ」
「はっはっはっ、その様子なら大丈夫だね」
「なんだか、まだぼうっとしてるわ。そうだ。あたし、猫になってたの。その時々の日差しの温かさや風の冷たさ、鳥の声に衣擦れの音。怖かったり嬉しかったり。
最初のうちは、変だなぁ、お店に出なきゃって思ってたけど、そのうち、どうしてお店に行かなきゃならないんだろう。どうしてそんなことを思っていたのかなって。
あたしだったものは段々なくなって、日だまりで眠る幸せに溺れてた。そんな時に、縄張りに入ってきたのが光雄さんで、猫のあたしは腹を立てて噛みついて……。
ねぇ、あたしは死んだ仔猫に取り憑かれていたの? そんなことってあるのかしら。猫のあたしはどこへ行ったのかしら」
「さて、どこへ行ったか」
目を細める光雄の懐から、にゃ〜、と幽かな鳴き声が響きました。続けて、ひょこっと顔を出したのは件の仔猫です。
薄汚れた白い毛並みの隙間から金色の鈴も顔を覗かせ、ちりんと音を立てました。目を丸くして、美由紀が仔猫に手を伸ばします。
「まあ! おまえ、無事だったのね」
「やっぱり、こいつが例の仔猫かい?」
「ええ、野犬に食い殺されたとばかり」
ぴょこぴょこと寄ってきた仔猫の頭を撫でながら。「じゃあ、あの血溜まりはなんだったのかしら。この子が野犬に襲われたんじゃなかったのなら……」
「そうだねぇ。本当のところはどうだろうか。その仔猫が人の言葉を話せれば分かるかもしれないが、想像するほかないな。この世の半分は想像でできておるのさ」
「よくわかんないけど、光雄さんは、どう思ってるの?」
「そうさな。文明開化のなんのと言っても、この東京には、野犬だけでなく、いまでも狐や鼬、狸、狢も住んでいるからね。襲ったのも襲われたのも、はっきりどうとは分からんなぁ。ただ、その仔猫も怪我をしていたようだし、鈴が落ちていたことを考えても、何かに襲われて逃げ出したのだろうよ」
「何かって?」
「はてさて、そいつは難問だ。もしかしたら血溜まりは鼠のもので、餌の取り合いで他の猫に襲われたのかもしれん。あるいは、野犬に襲われた仔猫を助けようとして、誰かが野犬を殴り殺したのかもしれん。それとも、たまさか落ちた鈴の上で辻斬りがあったかもしれん」
「やだぁ。怖いこと言わないでよ」
「ふふ、まあ安心しない。それが化け猫でも幽霊でも呪いでも、よくわからんものは和馬が斬り捨てたよ。二度と現れまい。もう少しゆっくり休んでおくといい」
着物の裾を払って、すっと立ち上がりました。障子が取り外された部屋の中は明るく、廊下から縁側へ、そのまま繋がっています。乾いた秋の空が、縁側を歩く光雄を見送っているのでした。
今度は逆に、店の方が薄暗い様相で。
さすがにまだ店を開けず、今日は御礼かたがた、光雄と和馬のために親父さんが腕を振るいます。もっとも、食って飲んでは専ら光雄の方で、和馬の方は黙々と酒を干していきますな。足元に擦り寄る仔猫に、時々、あての雑魚を落としてやっています。
「結局、猫は無事だったのだろう? どういうことだったのか、俺が斬ったのは何だったのか。酒の肴に話してみろ」
「さてね。わからんことはわからんし、美由紀ちゃんが元気になったのだから話なんぞいらんだろう? 猫の尻尾に蛇の足ってな」
「馬鹿を言え。いらんものだからこそ肴になるんだろうが。姿勢を正して聞くような話なんぞ、酒のあてになるものかよ」
足元から、もっと雑魚をもらおうと仔猫が甘えた声を出しました。
「ほれ、仔猫も聞きたいとさ」
「勝手に通訳するんじゃないよ。くだらん話はもう御免だと言っておるかもしれんじゃないか。だが、どうせ話を聞くまで納得せんのだろうな。頑固な飲み連れを持つと苦労が絶えん。さて、なにから話したものか……」
腕を組んで考え込むような光雄ですが、その顔には面白がっている様子がありありと浮かんでおりました。
まだ日も高いうちから徳利を前にしての与太話。どんな話か、もう少し聞いてみると致しましょう。
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