第2話 化け猫遊女

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第2話 化け猫遊女

 下町の飯屋たちばなは、普段の賑やかさに似ず、ひっそりとしております。暖簾(のれん)が掛けられることもなく。如何(いか)なる所以(ゆえん)か、たちばなの親父さんが語ったのは憑き物の話でした。  岩のように寡黙で、静かに料理を作る親父さんは、たちばなの店の一部かと見えます。馴染みの客も、親父、親父と呼びかわし、名前もないのかと思えば、さにあらず。  むろん、人の子として名前はあります。さて、その音の羅列(られつ)、文字の羅列に意味があるかはわかりませんが。  たちばなの看板娘、立花美由紀を男手ひとつで育てあげたのは、齢四十五の頑固者、立花孝蔵(たちばな こうぞう)であります。  江戸から明治に移ろう混沌とした時代に、色街の外れで飯屋を続けてきただけあって、見た目だけでなく中身の詰まった男です。その孝蔵が、どうか助けてくれまいかと泣き言をいうなど余程のこと。  孝蔵に呼ばれて訪ねてきた舩坂和馬少尉は、苦い顔をして、たちばなの店の奥を睨みつけております。  住まいとなっている店の奥から猫の鳴き声が聞こえ、その度に、孝蔵が不安そうに視線をやる。そんなことが、この半刻ほど続いているのです。  互いに愛想よく話をするような性格でもなく、孝蔵が話し終えてからは不安な沈黙が続くばかり。ただ、一本の柱のように微動だにしない舩坂少尉の姿がその場を支えているのか。二人は静かに待っているのでした。 「いやぁ、遅れた遅れた。申し訳ない」  からからと笑いながら、がらがらと戸を引いて、土御門光雄が入って参りました。 「遅い!」  斬り捨てるような短い叱声(しっせい)。舩坂少尉のものですが、怒りだけでなく、どこか安堵(あんど)を含んだような声でもある。それと知ってか、光雄は常と変わらぬ飄々とした雰囲気を崩しません。  そのためか、あるいは外から吹き込んだ新鮮な風のためか、重苦しい空気が、ふっと軽くなったと思えます。 「まあそう言うな。こちとら維新侍とは違うのだ。ひょっこり刀一本で駆けつけるというわけにも行かぬのさ。  可愛い可愛い美由紀ちゃんのため。あれやこれや整えておったのだから御勘弁願いたい」 「詳しい話も聞かずにか」 「そうだね、二度手間になって申し訳ないが、親父さん、詳しい話を教えてくれるかい」  わかったと応じて孝蔵が語るのが、(くだん)の憑き物話でありました。 「美由紀の様子がおかしくなったのは、ここ数日のことだ。なにやら舌足らずな喋り方をするやら、ぼうっとしていることが多いと思っていたら、妙な仕草(しぐさ)をするようになった。  いま思うと、顔を洗ったり毛繕(けづくろ)いをしたり、猫の仕草だったな。狐憑きというのはよく聞くが、猫憑きというのはあまり聞かん。猫は(たた)るが憑かないものと思っていた。夜中には、猫の鳴き声が聞こえると言って怯えてもいたな。  切っ掛けは、やはり猫のことだろう。可愛がっていた猫が犬に食われたのだ。そら、おまえさんらも見たことがあるだろう。痩せっぽちの白猫さ。  うちは食い物屋だ。(ねずみ)を狩ってくれる猫は大事にするが、美由紀の奴は、ただ可愛くてならなかったんだろうな。首に鈴をつけて、ちりんちりんとさせていたよ。  それじゃあ鼠も取れまいと言っても、可愛いからいいのよと口を(とが)らせるから勝手にさせておいたところが、その猫が犬に食われて哀れなことになった。  美由紀の奴は、それは悲しんでな。血溜まりに落ちていた鈴を埋めて塚を作って供養したのだ。それ、例の心水教の霊水を買ってきて、塚にかけては可哀想にと。  そいつがいけなかったのかねぇ。美由紀に猫が憑いちまった。最初のうちは、つっかえつっかえ話をしてもくれたが、ついには言葉を忘れたようになっちまった。  元が畜生だからか、幽霊や化け猫なんぞはそんなものなのか、どうして美由紀に憑くのかねぇ。自分を殺した犬に祟れば良かろうに」 「ふぅん、なるほどね」  孝蔵の話を聞き終えて、腕組みをした光雄が店の奥を見つめます。すると、たしかに猫の鳴き声が聞こえるのでした。 「鳴いているのは美由紀だよ。猫の鳴き声が聞こえると言って怯えるから家探ししたが、どこにも猫などいやしない。自分で鳴いて、自分で怯えていたんだ。  だが、そうして怯えているうちはまだ良かった。とうとう猫そのものになっちまった。化け猫に取って代わられたわけでもあるまいが。  万一、床下に美由紀の骨でも埋められていやしないかと探ってもみた。まあ骨もなにも、おかしなことは何もなかったよ。床下にまで美由紀の鳴き声が聞こえて、ぞっとしたわな」  腕を組んだまま目を閉じ、暗い店内に響く、恨みがましいような、うら寂しいような猫の鳴き声に耳を澄ませている光雄に向かって、勢い込んで舩坂少尉が声をかけます。 「話はわかっただろう。とにかく美由紀の様子を見せてもらおうじゃないか」 「まあそう焦りなさんな。物事には手順というものがある。もつれて絡んだ糸は、無理に(ほど)こうとすれば、逆に締まっちまうものさ。そもそも和馬よ、手前は化け猫を信じるかい?」 「鍋島騒動じゃあるまいし、信じるわけがなかろう」 「なら、美由紀のこともちょっとした気の病というわけか」 「自分で見ての話だが、さもあらん」 「ふむふむ、自分で見れば信じるかね。気の病か化け猫か」 「そうは言っておらん。ちょっとした気の病に決まっているさ」 「ふふん、自分の言葉のおかしさに気付かぬ者こそが人間という奇妙な生き物か。気の病に決まっているなら、そもそも僕の出番はない。何をそう()かすのだ」 「相変わらず回りくどい奴だな。俺の短気は知っているだろう。余計な話は無しだ」 「はっはっは、斬って捨てるなんてのは勘弁してくれよ。僕は暴力沙汰には弱いんだから。まあもう少し付き合え。余計な話だが、無駄な話でもない」 「聞くだけは聞いてやるから、早く話せ」 「そうだね。これはやはり、憑き物であろうと思うよ。おっと、口を挟まずに聞くがいい。さっきも言ったが、物事には手順というものがある。これもそのひとつさな。  ここは此の世の異界、吉原と境を接する場所にある。それはいいかい? しかして、遊女と猫とは切ってもきれぬ縁がある。  格子女郎を買ったことがあるだろう? あれなどまさに檻に入った猫そのものだ。鼠を取るために飼われる猫と、男を取るために飼われる女と、どう違うかね。すると、さしずめ男は鼠というわけだ。はっはっはっ、女を買ってるつもりが女に喰われているのさ。  いまは振るわぬ浮世絵も、その全盛の頃、多くの猫を描いていた。それも遊女と一緒にだ。なぜかといえば、遊女が猫を飼うことが多かったからさ。では、そもそもなぜ遊女が猫を飼うのか。自分に似ているというのもあろう、自由気ままな姿に憧れもしよう、(かご)の中の手慰みでもあろう。  いやはや、生きては苦界、猫は傾城(けいせい)の生まれ変わりってね。女衒(ぜげん)に拾われた寝子(ねこ)たちの悲しい思い。化け猫遊女なるものが流行ったのもわかろうさ」 「なにが言いたい。美由紀は飯屋の娘だぞ。遊女などと関係もない」 「ああ、勿論(もちろん)だ。その通りよ。だがまあ、最後まで聞けやな。言葉というものは無駄なようで無駄でなく、入り用のようでそうでもない。  売られた娘の多くは、食い詰めた家の者よ。家族のためであり、吉原にくればうまい飯が食えるとの言葉を信じ、あるいは信じた振りをしてやってきたものの、その実、そうは手厚く食わしてもらえるわけでもない。  客を取りながら食うわけにもいかず、隠れて飯を食うことも多いのだ。時には宴席の残り物、客の食いさしを食うとかな。  華やかな花魁の影で、腹を空かした野良猫のような遊女も数多くいたのさ。そんな連中の食いぶりを見て、化け猫遊女などという言葉も生まれたのかしらんよ」 「それがどうしたというのだ」 「つまりさ、例の白猫は苦界に身を落として死に、その上で畜生にまで落ちた傾城、すなわち遊女の生まれ変わりだったのかもしれん。  いやはや、まさに生きては苦界(くがい)、猫は傾城(けいせい)の生まれ変わり。差し詰め猫を喰い殺した犬は、女衒(ぜげん)楼主(ろうしゅ)の生まれ変わりかもしれないよ」 「救いもない話だな。畜生に落ちて、そこでも骨までしゃぶられるなど、哀れを越して吐き気を催すぞ」 「だねぇ。でも、忘れちゃいけないよ。維新だ新都だ、陸蒸気(おかじょうき)だとはしゃぐのはいいが、いまだに江戸城中よろしく色街の外へ出ることも許されぬ寝子たちがいる。  それを買う男どもは、それを飼う楼主と一連托生(いちれんたくしょう)の同罪よ。狐穴の話じゃないが、外に憧れ、自由を望み、心中してでも好いた相手と添い遂げたい。そんな思いが(こご)って、詰まって寄り集まって、薄汚れた白猫と化したと思ってみろ。  貧乏暮らしの小汚い飯屋の娘でも、どれだけ(うらや)ましく見えようや」 「小汚い飯屋で悪かったな」  横で聞いていた孝蔵が憮然(ぶぜん)として言ったもの。おっと口が滑ったと笑って額を叩くと、光雄は首を回して店の奥を見つめました。 「つまりさ、寝子の猫が自由気ままな飯屋の娘になりたいと思ってもおかしくないってことさ。ほら、そうだと鳴いてるじゃないか」  暗い店の奥から、んにゃ〜と猫の鳴き声が響きました。果たして光雄の言う通り、そうだと応じたものかどうか。
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