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第4話 化け猫退治
閉め切った六畳間に異様な光景が広がっております。獣脂の焼ける厭な匂い、揺れる蝋燭の炎、部屋の四隅で熱を放つ火鉢。時折、ちりんと鈴の音が響き、思い出したように影が踊るのでした。
畳の上には、後ろ手に縛られ、猿轡を噛まされた若い娘の姿。立花美由紀が熱さに悶えながら獣じみた声を漏らしております。巻き付けた着物の途切れめで肌は露わ、爛々と輝く目が怒りに燃えていました。
哀れで、また官能的で。そこだけ見れば、女衒に攫われた娘のようでもありますな。美由紀が身動きする度、澱んだ空気が動くのか、蝋燭の炎が揺れ、室内の影をも揺らします。
土御門光雄が、今宵は化け猫退治と言ったまさにその夜のことでありました。
縛られて苦しげな娘の様子を気遣いながら、父親の立花孝蔵は、しゃっ、しゃっと墨を擦っては半紙に何やら書きつけております。合間、合間に、ぽたぽたと額から汗が滴っている。
また閉めた障子の内側には、曲がりくねった文字の浮かぶ札が貼り付けられ、そこへ背を向けて舩坂和馬少尉が胡座をかいておりました。両手に持った軍刀の柄に例の鈴が結わえられ、かすかな身動きにも、ちりんと音を立てます。こちらも相当に熱いらしく、物言わぬ背中が汗ばんで無骨に浮かんでおりました。
では、後の一人、土御門光雄はと言いますと、全員に背を向け、整然と座って身じろぎもしない。奥の壁に設えた祭壇の如きものを前に、冷たく、低く、唸るような声で、ところどころ意味が拾えるようで拾えない言葉を繰り返しています。
祭壇には獣の頭蓋骨と何本もの蝋燭が置かれており、ゆらゆらと影を踊らせておりました。部屋の四隅に置かれた火鉢が作る影と混じり合い、競い合うようにしているのです。
それはちょうど部屋の中央にいる美由紀の体に向かって伸び、華やかな色彩の着物を裂いて噛み付こうとしているかのようでした。
それを、塵ひとつ分の身動きもしない光雄の背中が頑として許さない。ゆらゆらと揺蕩う海草の如き影たちの只中で、黒々とした男の背が、巌のように留まり、鎮まっていました。
どこか淫蕩で毒気のある祈りだか呪詛だかを垂れ流しながらも、甘美なものが感じられるのは何故でしょうか。
秋の夜長に月を愛でるでもなく、何をしているのか、何をしようとしているのか。少し前に遡ってみると致しましょう。
さて、今宵は化け猫退治だと言って出て行った土御門光雄が下町の飯屋たちばなへ戻ってきた頃には、すでに日も落ち、肌寒くなってきておりました。
御免よとも言わず、黙って戸を開けた光雄は黒い狩衣を身につけており、江戸の香りを残した当時のこととて、一種、異様の体ではありました。
さらに懐から獣の頭蓋骨を取り出してみせたのですから、親父さんが驚いたのも無理はありません。舩坂和馬少尉の方は平然と応じて。
「なんだ、その格好は? その骨も」
「どうかね。似合うかい?」
「似合うもくそもあるか。なんのつもりだと聞いているんだ」
「まったく、無粋なやつだよ。それじゃあ女も口説けまいて。なかなか似合うと思うがね。
この狩衣と骨とは倉橋の土蔵から失敬してきたのさ。何事も外見と由縁が大事。まあ所詮は畜生相手、烏帽子や笏までは面倒だから省いたが。この骨は、なかなかの上物でな。急ぎのことゆえ分家秘蔵の呪物を借りてきた」
「呪物だと?」
「そうさ。あまり使いたくはないのだがね。犬神は知っているだろう。蛙には蛇、猫には犬だ。犬神の骨を使って、化け猫を炙り出してやるのさ」
「くだらん。骨は骨だ」
「そうだね。その通りさ。しかし、こいつは正真正銘、犬神の骨よ。なんせ分家の土蔵にあったのだからな。
犬の首だけを出して土に埋め、飢えさせて、飢えさせて。あげく、ぎりぎり届かぬ餌を目の前にしてその首を切る。すると、犬の首は飛んで餌に食らいつくという。そんなことを本気でやった連中の遺した骨だぞ。
神通力やら呪いやら、そんなものがあるかどうかは別の話。こいつが犬神の骨であることは間違いない」
からから笑って骨の口を開けてみせると、少尉の懐から、ちりんと鈴の音が鳴りました。
「ほれ、化け猫が恐れているぞ」
「そんなわけがあるか。だがまあ、とにかくおまえの言う通り、猫塚から鈴は掘り出してきたぞ。後は何をすればいい」
「そうだねぇ」
わざとらしく首を傾げ、孝蔵の方を見ました。「いろいろ準備はいるが、まず親父さんには、この七字の書き付けを願おうかな」
光雄が渡した紙には、のたうちまわる蛇のような不吉な文字が書かれておりました。無学の故でもなく、孝蔵には読むこともできません。
「これは、なんと書いてあるのかな」
「知らなくていいでしょう。いや、むしろ知らない方がいいかな。
今宵、化け猫退治を始めた後は声を出さず、一心に書き続けてもらいたい。親父さんの可愛い娘を助けるためと思って、ただ信じて手本通りに書き続けて欲しいのです」
「俺の方は?」
じれったそうに問いかける舩坂少尉に向き直ると、にかっと笑ってみせました。
「その刀で、化け猫を斬り捨ててもらいたい」
「馬鹿なことを。この世に居もしないものを斬れるかよ」
「出れば斬れ。それでいい」
「出なければ?」
「出るさ。化け物は化け物。どう姿を変じ、どう身を隠そうと、影だけは取り繕えぬ。そういうものだ。
およそ丑三つ時、障子に影が映れば、障子ごと斬れ。かなり無理をしての祓いだからな、機会は一度。二度目はない」
「それで? おまえは何をするんだ」
「僕かい。僕は加持祈祷でもするさ。言っただろう、荒事は苦手だって」
と笑っていた光雄ですが、一度、加持祈祷に入って後は、振り返ることもなく一心に禍々しくも淫靡な言葉を唱え続けております。
宵から始まり、どれほどの時間が経ったのか、延々と繰り返される意味の掴めぬ言葉と韻律に、時折混じる鈴の音。火鉢の爆ぜる音に、書きつけの所作による静かな音が走り、蝋燭の燃える匂いと、篭る部屋の熱さに流れる汗。
祭壇から立ち昇る獣脂の焼ける匂いが鼻腔から入り込み、頭がぼうっとして参ります。はぁ、はぁ、と猿轡から漏れる美由紀の声も淫蕩で苦しげで、これが本当の寝子の鳴き声かと思えてくるのでした。
夜も更けて、眠たくもあり、疲労もあり。書き付けや祈祷を続けている孝蔵や光雄はまだしも、無防備な背を障子に晒し、何をするでもなく、ひたすら張り続けていた舩坂少尉の気が途切れがちになってきました。
疲労が警戒に勝り、その瞼が重たくなってくるのも致し方なきこと。ほんの数秒眠っては鈴の音で目を覚まし、また眠り、また目覚め。繰り返しているうちに、光雄の言っていた丑三つ時です。
徐々に溶けて縮んで、最後に、ぼうっと燃え上がっては蝋燭が消えていきます。ひとつ消え、ふたつ消え。みっつ、よっつ、いつつ、むっつ。すべての蝋燭が消え、ほどよい加減の炭火のみが残りました。
ことり、炭が崩れ、ぱちっと音がするや、飛んだ火花に室内の影が踊り、すっと眠りに落ちた舩坂少尉の手元から、ちりんと鈴の音が。その時を待っていたのか。障子の向こうから、
……猫の鳴き声が聞こえました。
ひっ、と息を呑んだ孝蔵が慌てて口元を抑えます。その声と仕草に目を開いた舩坂少尉は、その背に感じる気配を頼りに、振り向きざま、障子を斬り捨てたのです。
縛られて転がっていた美由紀が声を上げて気を失うのと、斬り捨てられた障子が音を立てて倒れるのと同時でした。
廊下から冷たい夜気が風となって流れ込み、雨戸から漏れる月明かりが、赤や青、金銀紫、稲妻色、美由紀が纏う色物を華やかに染め上げます。
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