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第6話 憑き物の御門違い 後段
仔猫の前にぱらぱらと雑魚を落とし、その食べっぷりを眺めながら和馬が酒を注ぎます。
「こいつはどこで見つけたんだ? 野犬に食われたんじゃなかったのか」
「いやいや、よく思い出してみろ。親父さんが勝手に、食われた食われたと言っていただけだろう? 血溜まりに落ちていたのは仔猫の死体じゃない。ただ、仔猫がつけていた鈴が落ちていただけさな。猫塚に埋めたのも形代の鈴だ。
親父さん自身も言ってたろう。狐が憑く話はよく聞くが、猫が憑く話はあまり聞かないと。憑くと祟るは別の話だ。鍋島騒動でも取り憑かれたのではなく、食い殺されておるし。
猫に憑かれること自体がおかしいのよ。鈴を埋めたの、床下にまで鳴き声が響いたのと、はてなと思ってのこと。死体があったなら、鈴を埋めて供養したとは言うまいし。
手前が猫塚の鈴を掘り返しておる間に、えっちらおっちら床下を探ってみたところが、案の定、建材と建材の間に縮こまっているのを見つけてな。何に襲われたかは別にして、怪我を舐めて癒しておったのさ」
「では、親父さんが床下で聞いた鳴き声というのは……」
「十中八九、こいつの鳴き声だったんだろうねぇ。もちろん、本当のところは分からないけれどもね」
「わからないというのがわからないな。仔猫が生きていたのだから、要は早とちりの気の病ってことじゃないのか」
「さて、そうとばかりも言えまいさ。自分で斬っておいて、気の病とはよく言えたものだね。なんの気配も手応えもなかったかい?」
「どうだろうな。なにかを斬ったという感覚はあったが、障子を斬り捨てただけと言われればそうであり、それだけでないと言われればそれだけでないような。
半ば眠りかけていた気もするし、たしかに物の気配を感じたようにも思う」
「ふふん、まさに物の気というところだね。この世にあってこの世になく、この世になくてこの世にある。いないけれどいるけれどいない。それこそが化け物さ」
「そんなものかよ。だが、結局、なんだったのか。はっきりした答えはないのか?」
「答えがないのが答えと思いない。気の病か憑き物か、どちらが正しいも正しくないもないわな。美由紀が猫みたいなおかしな行動をとるようになった。その事実は変わらない。
何にでも答えを求めて白黒つけようなんざ、浅はかな西洋かぶれじゃないかね。犯人が何者であれ、起きた出来事は同じことだ」
「西洋かぶれのつもりはないがな。最後に聞こえた猫の鳴き声は、こいつだったのか?」
「いや、加持祈祷の最中にうろうろされても困るからな。こいつは連れてきてなかった」
「では、やはり?」
「やはり、なんだい? 化け猫の鳴き声かって? はてさて、僕は知らないよ。そもそも鳴き声なんて聞こえなかったからねぇ」
「嘘をつけ。恨みがましい鳴き声が聞こえて、親父さんが息を飲んで、その視線の先に気配を感じて振り向いたところが、障子に映る妖しい影を認めて斬り捨てたのだぞ」
「そう思うならそうなのだろう。僕に同意を求めても、なんの足しにもならんよ。知っての通り、この明治の世では、陰陽師など、世を惑わす不逞の輩に過ぎないのだから」
「だが、書き付けや犬神の骨はどうなんだ。化け猫を祓うために準備したのだろう?」
「ああ、あれな。済んだことだから教えてやるが、どちらも大した意味はない。軍服や制服同様、形として着込んできた狩衣と同じさ。
親父さんには悪いが、書き付けは、ひたすら〈ねこはねこなり〉の七字を古い書体で書いてもらっていただけだ。
祭壇に置いた頭蓋骨も、犬神どころか普通の犬の骨でもない。実は、ももんじ屋からもらってきた猪の骨だ。身は牡丹鍋にされて、誰かの腹の中だろうよ」
「なに! ただの骨だったのか」
「そうだよ。和馬自身が、骨は骨だと言ってたじゃないか。悪いが、僕は嘘つきだからね。世を惑わす不逞の輩さ」
からからと笑って徳利を傾けます。普段、あまり感情を表に出すことのない光雄にしては珍しく、機嫌よく、また饒舌に語るのでした。
「和馬よ、維新志士気取りの頃もあったのだから、孔明の故事ぐらい知っていよう。格好と形で実を作るのさ。死せる孔明、生ける仲達を走らすってね。
心水教の霊水だって同じこと。綺麗な容器に入れて、如何にも澄みきった涼やかな装いにしてこそ、高値を出して買いもしよう。たちばなの欠け茶碗に入れて、霊水で御座いと来ても誰も飲まんわな」
「それよ。その霊水が今回の件の原因ではないのか。事実はともかく、不吉な血溜まりに落ちていた鈴を埋めて、その上に霊水をかけたという。そのせいではないのかよ」
「なかなかに聡いじゃないか。ある意味ではその通りさね。知らず知らず、美由紀は自分で自分に猫を憑ける段取りを整えてしまったのだ。
猫に憑かれた者を癒すのも、猫に憑かれたと思っている者を癒すのも手順は同じ。猫を退治した、あるいは退治したと思わせれば良い。
人というのは不思議で胡乱な生き物でな。いくら理路整然と言って聞かせても効果はない。むしろ情緒的に納得しなければ動かぬもの。だからこそ、陰陽師などというものの出番があったのさな。
それと当たり前の話だが、化け猫を見るには化け猫を知っていなくてはならん。人は知らぬ物を見たり聞いたり感じたりはできぬ。まずは言葉を吹き込まないと駄目なのだ」
「なるほどな。そのための寝子の話か」
「ははは、よく分かったな。そうよ、まずは手前を惑わすことからね。見えないものは、そのままじゃ見えないからな。
言葉というものは無駄なようで無駄でなく、入り用のようでそうでもない。そう言ったろう。化け猫を斬らせるための縛りだったのさ。人は信じていようといまいと、聞いた言葉に縛られる。世の詐欺師、弁士、まじない師の類いは、それをよく知っているのだ」
「よくわからなくなってきた。酒のあてにするにも飽いてきたし、必竟、化け猫の仕業ではないということで良いのだな?」
「さてね。何かが何かに襲われたのは間違いなかろう。人か狐か狸か狢か鼬か猫か犬か、あるいは化け物か。
たしかなのは、この猫は生きていたということだけさ。もっとも、死んでいたのが生き返ったとか、化け猫となっていたが斬られて戻ったなどということも、それこそ必竟ありえない話ではない。その場で見ていない限り、いや、その場で見ていたとしても、たしかなことなど何もないのだからねぇ」
「もういい。酔いも回ってきたし、そんな話は終わりだ。どうあれ、美由紀が元気になった、それだけで良しとするさ」
「その通り。仔猫も元気になったし。美由紀に憑く資格があったのはこいつだけだからね。何かが憑いていたとしても、和馬に斬られ、御門違いで弾かれたんじゃないかしらん」
光雄が杯を置き、仔猫を抱き上げて玩具にしていると、住まいとの境の戸を開けて美由紀が入ってきました。
顔色も良く、普段、店に出ている時と変わらぬ地味な着物姿です。髪を結う余裕がなかったのか洗い髪のままで、それが却って愛らしい。
「おや、美由紀ちゃん。もう起きて大丈夫なのかい?」
「うん。ちょっとぼうっとするけど体は元気かな。とにかく、きちんと御礼を言いたくて」
深々と頭を下げて、父親にも和馬にも光雄にも、それぞれ感謝を伝えたものでした。
「はっきりとは分からないけど、助けてもらったのは覚えてる。それと……」
光雄の右手の傷を見て頰を赤らめて言いにくそうに。「光雄さん、ありがとう。噛みついた時のこと、少しだけ覚えてる。本当に、ごめんにゃさい。あれ? まだ舌が回らないみたい。にゃんでかしら」
ますます頰を赤らめ、口を押さえて狼狽する美由紀に向かって楽しげな光雄です。
「はは、かわいいねぇ。時々出ると思うよ。その方がかわいいと思ってね。わざと残しておいたんだ。首尾は上々といったところかな。それだけじゃないんだよ。実は……」
言いかけた光雄に詰め寄ると、美由紀が両手の爪を一閃、まさに猫の如くバリバリと掻きむしったのでした。
「元に戻して! ふざけんにゃー!」
「あ、ちょ、ちょっと。やめて、ぎゃー!」
野良猫の喧嘩じみたやり合いを見ながら、酒臭い溜め息をひとつ。やれやれとばかりに杯を傾けた舩坂少尉の背後で、がらがらと戸が開きました。
暖簾も上がらぬのに、たちばなへ入ってきたのは馴染みの客でもない。一見さんでしょうか。目付き鋭く、険のある男です。
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