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最後の夏と最初の恋
翔太の家に来てから3日目の夕方、日が沈みかけていた時だった。
翔太はついさっき仕事から帰ってきて、いまはシャワーを浴びている。
汗をかいてしまったから晩ごはんの前に入らせてくれと言われた。
父と翔太に言われたからではないが、なるべく早くに宿題を終わらせたいため、大地はずっと机に向かっていた。
リビングで国語の宿題をやっていると、家のチャイムが鳴った。
翔太はまだシャワーを浴びているため、大地が玄関に出ることにした。
自分が留守のときも、そのようにしてくれと翔太に言われている。
玄関を開けると、2人の男の人と女の人が立っていた。
男の人は短髪で色黒、白のタンクトップを着ていて身長も高く、全体的にがっしりとした体つきをしている。
爽やかなスポーツマンタイプに見えるが、顔はなんとなく猿を連想させる。
女の人は長髪で、男の人と対照的に牛乳のように白い肌をしていて、全身真っ白のワンピースを着ていた。頭には麦わら帽子を被っていて、一瞬、幽霊なのかと思うくらいであった。はっきり言って、美人だ。
大地は少しだけ女の人に見とれてしまっていた。
幸運なことに、先に口を開いたのは女の人だった。
「こんにちは。」
にっこりと控えめな笑顔をこちらに向けてくれて、体を前に傾けて聞いてきた。
「こ、こんにちは。」
翔太の時とは違った緊張感のため、返事をしたが、声が上ずってしまった。
「大地君だよね?久しぶり、覚えてないかな。ほら、ずっと前に僕達の結婚式に来てくれたよね?」
そう尋ねてきたのは隣にいる男の人だった。
結婚式?
いつの話だろう?
頭の中の記憶の引き出しを探ってみたけど、結婚式に参加した記憶は見つけられなかった。
「そうか、あの時はまだこんなに小さかったもんね。覚えてないか。ほら、この顔、よく見て。ほら、ほら。」
男の人はしゃがんで、大地と同じ目線になった。
それなのに、自分の顔を指差しながら聞いてきた。
見ず知らずの人にこんなに迫ってこられたら、さすがに恐怖を感じてしまう。
もしかしたら、これだけのいい人の雰囲気を出しながら、誘拐犯であるという可能性だってまだ残っている。
大地は失礼に当たらない程度にほんの少し後ずさった。
その大地の心を察したのか、女の人が男の人の首根っこを引っ張って後ろに下げた。
まるでイタズラをした猫のようだ。
男の人と同じように大地と同じ目線にしゃがみ、優しく聞いていた。
大地は至近距離で女の人の顔を見てしまい、急に恥ずかしくなってしまった。
「ごめんね、翔太さん、いるかな?」
「あっ、いま、シャワーを浴びていて。呼んできますね。」
「うん。お願いします。」
女の人はしゃがみながら丁寧に頭を下げてきた。
万が一、この人達が悪い人だったとしても、女の人にだったら誘拐されてもいい、大地は不謹慎なことを考えてしまった。
「はい。」と返事をして、大地は家の中へ戻っていった。
「もう、あんなグイグイ迫ったら困るに決まってるでしょう。まだ小学生なんだから。」
案の定、嫁の真由美は怒っていた。
いきなり相手の懐に飛び込んでみたけど、逆効果だったようだ。
大地が怯えていることはすぐにわかった。
これが自分の悪い癖だ。
まったく人見知りをしない、初対面でもグイグイ話しかけてしまうので、いつも真由美に怒られる。
「まだ小学生じゃない。もう小学生なんだ。6年生っていったら、もういい大人だ。こんな変なやつ相手でも、ちゃんと対応できるようにしておかなくちゃな。」
でかい顔をしながら、胸を張って言ってみたが、真由美の顔は晴れない。
しかし、そんな顔も俺は好きだ。
よくこんな美人が俺みたいな猿顔のところへ嫁に来てくれたものだ。
「あなたの距離の縮め方は異常よ。人には人のペースっていうものがあるの。あとでちゃんと謝ってよ。」
「わかったよ。」
とは応えたものの、おそらく謝ることはない。
それが俺のやり方が。
まあそのおかげで、いつもこの美人の嫁には怒られているのだが、実はそれも嬉しいものだ。
「翔太さん。」
翔太はちょうどシャワーから出たところだった。
なるべく下半身を見ないようにしながら、濡れた翔太の顔を見た。
「チャイムが鳴ったな。誰だ?」
バスタオルで頭を拭きながら、翔太が聞いてきた。
男同士だからか、とりあえず股間を隠すつもりはないようだ。
「あ、あの、男の人と女の人が来てます。猿みたいな顔の人と、とても綺麗な女の人です。」
猿みたいな顔でピンときたのであろう。
少々鬱陶しそうな顔をして、ため息をついた。
「わかった、すぐに行く。」
翔太はそう言うと、急いで体を拭いてからジャージのズボンと紺色のシャツだけを着て、脱衣所を出てきた。
大地と翔太は並んで玄関で待っている2人のもとへ向かった。
「なんだ、やっぱりまたお前達か。」
翔太がうんざりとした顔をして言った。
しかし、口元は少しだけにやついている。
一人暮らしの翔太は、誰かが訪ねてきてくれることが嬉しいようだ。
「翔太さん、こんにちは。」
丁寧に挨拶をしたのはやはり女の人だ。
その姿は本当に絵になる。
猿顔の人と並んでいると、ずいぶんと不釣り合いに見える。
「よう、兄貴。」
ここでようやく大地は理解が出来た。
男の人は、翔太の弟なんだ。
つまり、大地の父の弟でもある。
そして、この女の人は翔太の弟の奥さんなんだ。さっき、結婚式と言っていたから。
「なんの用だ。」
「おいおい、ずいぶんな言い方だな。俺達は兄貴が大変だと思ってわざわざ来てやったのに。」
兄弟だというのに、翔太とはずいぶんとキャラが違う。
もともとこんな人なのか、それとも結婚をしたら人間が変わってしまったのか。
おそらく前者だろう。
「なにがわざわざ来てやっただ。冷やかしに来たの間違いじゃないのか?」
「ばれているみたいね。」
兄弟の不毛なやりとりを、女の人の空気が優しく包み込んでいる。
思わず会話に参加したくなってしまったが、いまのところは大地が入り込める余地はない。
「大地、心配しなくていい。こいつは俺の弟の哲朗だ。」
「よろしく、大地。」
「よろしくお願いします。」
やはり、猿顔の人は翔太の弟だった。
名前は哲朗、覚えておこう。
手を差し出してきた哲朗の手を、大地は握り返した。
心の中では、この後くるであろう展開に胸が高鳴っていた。
「で、隣にいるのが奥さんの真由美さんだ。」
「よろしくね、大地君。」
真由美さんは控えめな笑顔のまま手を差し出してきた。
こういう笑顔が笑うときの癖なのだろうか。
大地は真由美の手を握り返したが、手が汗ばんでいないか不安だった。
真由美の顔を見られず、思わず下を向いてしまった。
「2人はこの近くに住んでいて、いまだに独り身の俺をからかいにやって来るんだ。」
「またそんなこと言って、俺達は兄貴のことを心配してきてやってるんじゃないから、いい歳して、彼女の1人もいない兄貴のことをね。」
「哲朗、そういうこと言わないの。」
なんとなくこの2人の関係性がわかってきた。
翔太と哲朗のやりとりを、真由美がまろやかにしている。
翔太と哲朗2人の会話だけなら、どこかで喧嘩でも起こってしまうかもしれないが、真由美がいるためにいい関係性になっているのかもしれない。
「わたしたちのこと、覚えてない?」
真由美は大地に聞いてきた。
やっぱり綺麗な人だ。
思わず動揺してしまう。
「ご、ごめんなさい。」
「ああ、謝らなくていいよ。だって、確かあの時、大地君は3歳か4歳くらいだったもんね。覚えているわけないか。」
大地が謝ったことで、真由美に申し訳ない気持ちにさせてしまったことを申し訳なく思ってしまった。
大地のおかげで、この場でたくさんの申し訳ないが集まってしまった。反省した。
「こいつらの結婚式の時だ。お前は、母親の腕にしがみついて、帰りたい帰りたいってぐずっていたよな。」
「お母さんの?」
翔太の言葉を聞いて、大地は母親のことを思い出して、急に複雑な気持ちになってしまった。
「でも、最後には、おめでとうって言ってくれたよね。あの時は、どうもありがとう。」
その場を取り繕うかのように、真由美が付け加えた。
綺麗な上に、とても優しい人なんだ。
大地はペコリと頭を下げて、やはり顔を背けてしまった。
「それで、今日はなんなんだ?」
翔太は改めて2人に尋ねた。
そうだ、用もないのに来るはずがない。
もう少し真由美と一緒にいたいと大地は思っていた。
「いやいや、兄貴から連絡があってね。大地の顔を久しぶりに見たくなったんだよ。いつこっちに来たの?」
この兄貴というのは、大地の父のことだろう。
「一昨日のお昼頃です。」
「宿題は終わった?」
「ま、まだまだです。」
不思議だ。
哲朗に対しては普通に話せるのに、真由美に対してはやはり緊張してしまう。
こんな気持ち、初めてだ。
「よかったら、うちに遊びに来ない?夏休みの間はずっとこっちにいられるんでしょう?宿題も手伝ってあげるよ。」
「そうしようよ。うちは全然構わないから。ねっ、大地。」
真由美と哲朗が聞いてきた。
哲朗はいいとしても、真由美と一緒にいられるというのは、大地にとって願ってもいないことだ。
心の中では両手を挙げて大ジャンプをしていた。
しかし、気がかりなこともあった。
ちらりと翔太の顔を見ると、翔太も大地の顔を見ていたようで、すぐに目が合った。
「俺のことは気にしなくていい。たまには1人でゆっくりしたいから、行ってこいよ。明日の仕事終わりに迎えに行ってやる。」
「よし、決まり。それじゃあ明日は、翔太さんも一緒にうちで晩ごはんも食べよう。用意しておきますよ。」
真由美は両手をパンッと叩いて言った。
大地はもうそわそわして仕方がなかった。
いますぐにでも真由美の家に行きたい。
どんな家なんだろう、家ではどんな服装なんだろう。妄想は膨らむばかりだった。
「なんだ、そこまで世話になっていいのか?」
「なに言ってるんだよ。兄貴のためじゃない。大地のためだ。」
「わかった。それじゃあ、仕事が終わったらお邪魔させてもらうよ。」
「待ってますね。じゃあ、行こうか、大地君。」
「はい。」
大地は大きく返事をして、手を繋ごうとしてきた真由美の手を握ろうとしたところで、翔太の声が飛んできた。
「待て大地。そのまま行くつもりか?まさか、ただ遊びに行くつもりじゃないだろうな。」
大地はハッとして、繋ごうとした手を引っ込め、家の中に走りながら飛び込んでいった。
宿題と着替えをリュックに無造作に入れ、背負いながら外へ戻った。
「それじゃあ、行きましょう。」
真由美は再び手を差し出してきたので、大地は今度こそしっかりと手を繋いだ。
だが、すぐ後悔することになる。
走ったおかげで手に汗をかいてしまい、真由美に不快な思いをさせてしまっていないか不安であったが、真由美は相変わらず控えめな笑顔で大地を見ていた。
その笑顔に、やはり大地はやられてしまった。
大地にとっては最後の夏休み、そして最初の恋が始まったのであった。
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