1 きっとあなた気づくはず 

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咲は、自分が望んだ建築設計の仕事に就き、毎日が充実している。けれど、学生時代は、周りから疎まれ、友人は、一人もできなかった。 でも今は、駿と翔太と梨沙と、そして、茉由と、かけがえのない同期がいる。初めてできた仲間たち、 「今度こそ間違えない」と、自分を律してきた。「もう 失いたくはない!」 そんな咲は、このところ、茉由の危うさが気になっていた ― -1 「… こちらの物件は  ご主人様の勤務地の 駅  までを考えますと 1回  乗り換えが必要になります…  まず …  物件から 最寄り駅までは  男性が歩かれるスピードでは  おそらく…   徒歩6分ほどでしょうか…」 「 … そして  乗換駅までは 朝は座るのが  少し 難しいほどの混雑で …  順調に電車が動いていれば  約8分で乗換駅に着きまして  そこで ご利用になる電車は  始発! に なる ので  並んで 様子を 見て頂くと     座ることも できます…」 茉由はゆっくりと、一言一言が、確り伝わる様に、絶妙の「間」を空け、目の前のお客様の表情を確かめ乍ら、話を続ける。 「 … 如何でしょう  今よりも少し  ご不便になりますでしょうか?   けれど お子様に とっては  こちらはとても良い環境です!」 「 … 車道とはハッキリ分かれた  緑の多い遊歩道が ちゃんと  安全なども考えられていて…  点在する大きな公園や小学校  とも つながっていますし…  こちらには 同じくらいの?  お子様が多くいらっしゃるので  お友だちもスグにできますよ!」 「 あぁ そうだね         僕は 大丈夫だよ それよりも子供の環境は大事だね  確かにここは 公園も多いし  少し 遊歩道も 歩いてみたが  この子たちと    同じくらいのお子さんとも  何人かと すれ違ったよ  お友達がたくさんできそうだね…」 「… ええ私も   こちらの街は気に入ったわ!     ここの近くに見つけた  小児科の病院も良さそうな感じ  だったし…     この子が通うことになる  小学校も そこまで 本当に  遊歩道だけを通って行けるもの     子育てには良いと思うわ…」 「 … ありがとうございます           それでは  パンフレットをご用意致します    ぜひ ご検討下さいませ  本日は…  お足を運んでいただきまして      有り難うございました」 接客の仕事では身だしなみも大切。お辞儀をするのにも、その角度は決められ、頭を下げた時に、髪が乱れるのはヨロシクない。 女性の化粧は、この時代、ナチュラルメイクが主流だが、ここでは少し派手目の、華やかさも要求される。   折り目正しいスーツは、毎週、会社の経費でクリーニングに出され、どんなに暑かろうが寒かろうが、決してルーズにならないように、ブラウスの第一ボタンは外さないなどが注意される。 ウッカリしていて気を抜くと、忘れてしまう指先も、スキが無く、上品なマットカラーで、自分の爪の状態が分からない様に、ネイルの形が整えられている。 接客中はどんな時にでも、相手を不快に思わせてしまうことが無いよう、常に意識し、この時も、パンフレットに伸びた指先に、お客様の目線が向けられても、美しさは、完璧だった。 ここは、新興住宅地の中の、マンション建設地にあるマンションギャラリー。 2年後に完成する、ファミリー向けマンションの、plan別のモデルルームが再現された、かなり広めの2階建ての建物で、 内部は、床面積の違うモデルルームが3タイプ、実物大で造られていて、各部屋は、流行りのインテリアでデコレーションされているところで、 ここに来れば、実際に建つマンションの様子が分かるだけではなく、現地の街並みも確認できる。だから、実際にお越しになるお客様の購買意欲は、高いと考えられる ― 「 おい!   車で待ってるぞ!」 「… はい? で も …  今のお客様はとても良い  お客様でしたので  すぐに?  営業に 引継ぎをして…  本日中にご来場のお礼の!  お電話を入れて頂いた方が    良いかと思いますが…」 「 良いから早くしろ!」        「 は?ぃ…」 お客様が見えなくなるまで、丁寧にお見送りを続ける茉由を、急がせるこの男は高井。マンションギャラリーを、いくつも担当している、 エリアマネージャーのリーダーで、現地責任者の、チーフの上の立場の、 エリアマネージャーの、その上の人間だ。高井は45歳。 今どき出世に響かないと考えているのか、離婚経験が2回ある。だから現在は独身の男で、長身で足の長いところが自慢なのか、細身のパンツで、その細さと長さが強調されていて、中年太りとのことなど、全く無く、腹回りもスッキリしている。 高井は、年齢を感じさせることもなく、身軽に動き回る。まぁこれは、高井だけではない。この会社の従業員たちは皆容姿が美しく、それに、どの年齢層の者も皆センスも良く、 男たちは、清潔感のあるスタイリッシュなビジネススーツが似合う、爽やかな者が多いし、女たちは、目鼻立ちがハッキリしていて、少し童顔系の、優しそうな雰囲気の、華やかな明るさも、身につけた者が多い。 これはこの会社の、営業部の採用基準に含まれているのかは分からないが、身長だって、大きすぎる者や、小さすぎる者もいない。マンションギャラリーのオープン時間に、お客様のお迎えに揃って並んでみると、デコボコしない、同じくらいの体型の者ばかりだ。 そういえば、接客担当に、茉由が採用になった時には、三つ揃えのスカートスーツを支給されたが、担当者からは「サイズは、7号、9号、しかありません」と告げられた。 そのサイズ以外は用意しないようで、強制的に「そこから、はみ出さない体型である様に」との、意味だったのだろうか。とにかく、この会社の営業部は、皆スタイルが良く、男も女も、美しい者ばかりだ。 この男、仕事上の立場からか、本人の性格か、かなり上から目線で、部下の茉由を管理する。 茉由は家庭内の不満、そう、夫からの強い、管理者のような振る舞いが嫌で、外の仕事に出ているところもあるのに、外でもまた、強く男に管理されている。今だって、仕事のことよりも自分を優先しろとの高井だ。 急がされた茉由は視界が狭くなり、周りの目も気にせず、バタバタと帰り支度を済ませると、高井の車に飛び込み、前方だけを注意し運転する、その高井の横顔が険しくなっていないかを確認すると、スマホを隠し運転の邪魔にならない程度の小さい声で、営業担当に仕事の引継ぎをした。 18時を少し過ぎたころ、二人は現地からも、近くの駅からも、車で30分ほど離れた、小ぢんまりとした隠れ家のようなレストランに入った。 -2 この店は、一見さんお断りの、ユッタリと食事ができる、個室形式になっており、今日もこの店に、何組の客が居るのか全く分からない。 料理は焼き肉店のように、二人の衣服や髪にその香りが移ることも無いものが出される。強めの刺激があるスパイスは使われておらず、それぞれの食材の長所を生かした、クドクない料理は身体にも優しい。 高井は善く考えて店を選んでいる。これは接客仕事をしている者にとっては大事なことだが、病気と闘う茉由の身体にも助かるものだ。それだけではない、こん跡が残らないことは、 茉由はこの後、家族が待つ家に帰るのにも、大事なことだった。「おまえはカシスオレンジ、だろ」、高井は茉由の飲み物まで勝手に注文してしまう。茉由は逆らうことなく、小さく頷く。 茉由はいつも、よほどの必要が無ければ、自分からは高井に話しかけない。接客の仕事をしているのならば、話し上手、とも思うが、どちらかといえば聞き上手なのか。 どちらにせよ、この俺様系の高井と一緒に過ごす間は、ただ黙っている方が楽だと感じ、何事も自分で決めなければならないとの、煩わしさがないことは、 これはこれで、不思議と仕事の疲れが無くなっていくような、そう、いつでも、どこに居ようと変わることのない、高井の堂々とした、低くゆっくりと話す強めの言葉が、実は心地よい。 今日は高井が、ただ、一人で食事をしたくなかっただけなのか、二人は二時間ほど一緒に食事を楽しみ、高井は茉由を、自宅前まで車で送っていった。 そんな、住宅地の夜は静かで、動く車の中でも、少し窓が開いていると、風に吹かれて落ちた枯れ葉が、アスファルトの道に、カサカサと転がる音に、気づくほどだった。 アクセルペダルを軽く踏んでも、道の上の、枯れ葉をタイヤが踏みつける音がかなり響く。今夜も、車のブレーキランプの赤い点滅が、遠くからでも確認できるくらい、周囲には動く車はいなくなっていた。 それでも、どんなところでも、高井は動じない。こんなにも、かなり目立つ状況になっているのに、茉由の家の、すぐ前までやって来た、 それでもまだ、周囲を気にしている様子はなく、ようやく車を停車させると、茉由一人だけ助手席から降りるだけの、それは僅かな時間なのに、前方のライトも点けたまま、派手に、ハザードランプをしっかりと点滅させる。そんな明るすぎる車は、ここには、似合わないのに。 でも、こんな図太い無神経さも、茉由は鈍感なのか、全く気に留めない。それに、楽観主義的なところがあるのか、もしかしたら、こんな場面でも、周りの他人様の優しさ、寛大さを信じ、 茉由の仕事を知っている、ご近所の方々は、この仕事柄、車で移動することは多いことで、それ故に「上司が部下を車で送ることも、珍しくは、ない」と、思って下さるかもしれない ―。などと、 勝手に考えているのか、茉由は今夜も、当たり前のことの様に、黙って、大人しく、前方だけを気にしていた。   茉由は、子を持つ母親だが、夫が強く管理している家庭生活では、自分の居場所を見つけられない。二人の息子を、茉由の母に預けて働いているが、それにもひけ目が有って、マンションギャラリーの、ノルマのある営業担当とは違う、接客の仕事をしている。 マンションギャラリーならば、夕方18時には閉館になるので、お客様がいない時には、この接客の仕事は、自分次第で早く帰れるからだ。だが、この選択が、茉由のそれまでの価値観、その後の人生を大きく変える。 この会社のマンションギャラリーは、主要駅近くに造られる、この会社のブランドの宣伝目的での展示建物と、 建設現場に造られる、個々の物件についてのマンションギャラリーがあるが、茉由は、現地に造られるマンションギャラリーで働くようになり、月に一度くらいは本社での会議に参加するが、普段は現地の勤務になる。 これは、マンションの規模にも違いがあるが、郊外のそこには、チーフを先頭に、営業担当が数名、営業事務が1名、接客担当が数名、受付が数名との構成で、チーフが販売スケジュールに合わせ、メンバーを決める。 販売状況が即日完売ならば2週間ほどで、このチームは解散になることも有るし、場合によっては他の物件に応援に入ることも有るなど、決していつまでも同じメンバーで動くわけでもない。 だから、その後に違う物件の最初の立ち上げメンバーになるとすれば、人事権を持つ、そこのチーフに選ばれた者、とのことになる。 そんなこの会社のチーフは係長クラスで、本人の営業成績で、そのポストになるので、年齢は様々だが、順調ならば30前後くらいでその任につく。 ここでの仕事はそんな、チーフによってその仕事内容が大きく変わる。マンションギャラリーの中では、チーフに全ての権限が有るからだ。 そこのスタッフの茉由の毎日の仕事も、すべてチーフが指示を出す。すべてが、チーフ次第、変な見方をすれば、このチーフに気に入られれば、この職場では、楽をすることもできる。茉由は運良く?なのか、このチーフの「お気に入り」だった。 -3 この会社にはそう呼ばれる者がどのマンションギャラリーにもいて、決して他の者よりも役職が上ではないが、チーフのおかげで、楽な仕事ばかりをしている。 そのお気に入りたちは、汚れ仕事、腕力の必要な重労働、それに、当番などでの休日出勤や残業はしない。特権階級ともいえる。 マンションギャラリーでは、営業活動のほか、そこの維持管理も必要になるが、それはイメージを崩さないように、モデルルームが華やかで、生活感のない、いつもきれいな空間でなければならないからで、 それには徹底して『 清 掃!』を!常に心掛ける必要がある。 解放感がある、大きなガラスが入れられた開口部、窓や入口の扉は、天候により、土埃が付くこともあるが、来場者用駐車場に、まだ一台も車が入ってこない、オープンの30分前には、いつも完璧に磨き上げられ、 もしも、お客様の出入りの際に、ドアハンドルに手の跡が残れば、その都度磨き、お子様が外を覗き込んで、ガラスに手や頬の跡を付ければ、また磨きと、一日中そこに気を配る者がいて、 お客様がご使用になるトイレや手洗い場も、1時間に一度ほど、内部清掃する者と、その作業をチェックする者とのダブルチェックが繰り返される。 このように、ここでは汚れ仕事も結構ある。これらの掃除や、それで汚れた雑巾をバケツで手洗いし、キュッと絞ることも、日々のゴミ出しも、 お気に入りになれれば、ほとんどすることが無く、そのための水仕事で、ガサガサした手荒れになることも、ネイルを傷つけることもない。 なので、派遣であろうが正社員であろうが、この、チーフのお気に入りになれば、綺麗な華やかな職場で、自分の容姿に磨きをかけるだけの余裕をもらい、誰よりも美しく、優雅に接客だけすれば良いとのことになる。 そして、繁忙期には、トイレにも行けず、食事もできないほど、次から次へと、エンドレスに、ご挨拶でお迎えして始まり、お見送りで終わる接客担当の仕事。 そんな、何度も繰り返される接客も、チーフの鶴の一声、「他の奴に行かせた」との、他人よりも少ない回数で済まされる。 だから、汗をかかずに、いつでも、どんなときにも、お気に入りは、そのマンションギャラリーの唯一の、花になれる。 それに、マンションギャラリーには、バックヤードに造られた事務所内に事務机が並べられるが、チーフのデスクの横はお気に入りの席になる。 毎朝行われる朝礼の時にも、チーフと向かい合って皆が並ぶ中、お気に入りだけはチーフの横、その少し後ろに立つ。勤務中でも、いつも二人の世界が有り、他の者と、この二人には距離がある。   就業中、チーフが動けばお気に入りも後につき、その後にチーフのカバン持ちがつくことがある。誰からみても、「三人で三角形」、一目で、平社員との立場の違いが分かる。 また、チーフの中には、自ら出入り口を開けずに、おつきの者にさせる者もいる。それは出先でもみられ、取引先にチーフが出向くときにはカバン持ちが車の運転をし、後部座席にチーフとお気に入りが並んで座る。 先方では、カバン持ちが先頭に立ち、扉の開け閉めや、そこでの目的である商談をし、チーフと、一見、秘書のようなお気に入りは、それに立ち会うだけだ。 このようなこの二人の関係は、このマンションギャラリーがなくなるまで続く。茉由はこの優越感に浸れる職場での立場や、生活感のない、華やかな、いつもきれいな空間に身を置けることが、とても心地よかった。 茉由は新人時代に我武者羅に働いていた自分をすっかり忘れている。今では、家庭での空虚感を埋めるためだけに、ひとり、ここで毎日過ごした ― 「 佐藤チーフって     翔太だったの?」 「 おい敬語は?   俺はチーフだからさー」 「 なぁ~茉由? お前が一旦  社から離れたから?  俺とお前が同期なんて誰も  知らないんだなぁー?   可笑しいよなぁー      だから俺たちが?  ただつき合っているとしか       観てないなぁー」 「 そうねきっと?  大人の関係がある男と女と?    思っているでしょうね~」 「 ぜってぇ~無理だよなぁー    男と女になるなんてぇー」       「そうね無いわね 」 チーフが決めたスタッフなのに、お互いがとぼけているのか、茉由だけが鈍感なのか ー チーフは佐藤翔太。茉由の同期の翔太だ。チーフとしては若い方だが、それは営業成績が優秀なのだろう。 -4 郊外に建つ、ファミリータイプのこのマンションは、少し不便で、最寄り駅からバスに乗る必要もあるが、 そんなネックになる要素も、佐藤は逆手に取り、ファミリータイプなのだから、小さなお子様にとっては、繁華街など、時には、危険が伴う賑やかすぎる商業地から離れていた方が、安全に子育てできる環境にあるとのことを、この物件の特徴に出した。 近くの児童公園や、幼稚園、保育園、小学校、中学校、図書館、病院、交番、保健所など、子供に関する施設を分かりやすくMAPにマーキングしてエントランスに展示する、 ギャラリー内には、キッズコーナーを設け、保育士を配置し、その横には授乳室とおむつ交換のためのスペースもある。 そこには、その専門スタッフをおいているのだから、それらを任せることもできる。だから、このコーナーがあれば、大事な商談に繋げられる、ご夫婦だけでの時間もでき、お二人だけで、ギャラリー内を観て廻れる。 そんな、日常のバタバタ感から解放された夫婦二人は、静かにユックリと進んで行く。優しいアロマの香りが漂い、心地よい音楽が、二人の歩く速さを、コントロールする。 そうして、コントロールされた方々がモデルルームの品のある重厚な玄関ドアを開けると、明るいカラーの大理石の貼られた玄関では、同じ仕上げの玄関框が幅広で、グレード感を上げている。 そこでは、ピカピカにミラーコーティングされたフローリングが真っ先に目に入り、それは、開かれたままのリビングドアでは邪魔されず、 続く、リビングの端の大きな掃き出し窓の先、奥行きも十分なバルコニーまでが一望できるので、廊下の長さも、それ以上にメイクする。 そこに配置されている、磨き上げられた、少し低めに、背の高さが統一されたファニチャーも、視界が遮られないので、部屋を広く見せるのに効果もあり、 そんな、生活感がない、邪魔なものがない空間では、預けた我が子のお迎えの約束時間を忘れるほど、いつまでも身を置ける。 ここは二人の安らげる空間でもある。 そうかと思えば、このマンションギャラリーでは、 がらっと変化を持たせ、休日には、賑やかなお祭り感覚で、お子様もお年を召された方も、老若男女、ご家族一緒に楽しめるような、イベントを企画し、 スーパーボールすくいやバルーンアート、綿あめなどの縁日の屋台を出してみたり、着ぐるみのキャラクターも登場させるし、ガーデニングにご興味がある方の、良いプレゼントになる、ドア飾りの、リース造りなども企画する。 こんな、メリハリのある空間をプロデュースするこのチーフ、まだ独身で子供もいないのに、このセンスの良さには誰もが脱帽する。 佐藤が新人の頃はこんなに仕事ができる男になるとは、茉由は思ってもいなかった。 だから、チーフだと分かった時には、たった5年程で、こんなに人は成長するものかと自分と比べて愕然とした。 もう「上司」になった佐藤と、どう向き合えば良いのだろう ― -5 佐藤と茉由は、実は「同期だから」こそ、仲が良いとのこと、このことは二人とも、ここで一緒に働く者にはオープンにはしなかった。 佐藤は上司として茉由を扱いにくくなるし、茉由は、佐藤の急成長について行けずに、頭の中では、幼さの残る翔太がまだいて、スッキリとはしないのに、同期とみられれば、上司として、佐藤と接するのには接しにくい。 だから二人は、皆の前では昔のことは伏せたまま、仕事をスタートさせた方が、何事もスムーズにいくと思っていた — 「 でも …  茉由で良かった …  の かも しれないなぁ… 」        「 な・に・が?」 「 俺 …  お気入りなんていらないから     面倒くさいだけだし  でもいた方が?        男としては …  良く見えるのかもしれない " この会社 " だったらって          思ってさぁ」         「 そう?」 「 私は?  ガムシャラ?に頑張ってた     新人の頃とは違い?  いまはただ  家の中に居たくないから  働いている様なものだし…」 「 この空間は好きだけれど?  別に男好きではないから?  チーフが翔太で!  私をお気に入りにしてくれたら  安心して?甘えられるから…  それはそれで嬉しいかなぁ~          やっぱり…」 「 なら … 良いか?」       「そうね!そうする!」 「 よし! 分った 」 「 あぁ~ 茉由?  お前は敬語で話せ  俺は上司だからさ!」          「 はぁ~ い 」 茉由はおどけて腰をフリフリ振ってみた。 「 ゼンゼン色気感じない!」 佐藤は厭らしくニヤニヤし、けれど、サッサと茉由に背中を向けて、小走りで事務室に戻っていった。 「 えぇ~?   私はお気に入りでしょぉ ~ 」 茉由のこのフザケタ声は、佐藤には届かなかったらしい。 それに、茉由には、佐藤の本当の気持ちが伝わってはいなかった。 それからは、茉由は朝の仕事に向かう足取りが変わった。嫌なものから逃げ出す、頭の後ろが鈍く痛くなることが無くなった。 これから向かう仕事場にはチーフがいる。「今日は何を一緒にしようかなぁー」、茉由はウキウキしていた。それはまるで、アルバイト先に気になる男子がいる学生気分で、茉由は仕事よりも「チーフに会いに行く」様になっていた。常に頭の中は佐藤でイッパイになる。 茉由は『 翔太 』じゃない、仕事ができる男、『佐藤チーフ』に少しでもカマッテほしい。 いつも以上に、茉由は身だしなみにも気を配り、通勤に着る服は、どんどんフェミニンになっていく。 もはや、仕事に向かうために着る服ではない。以前にも増して、周囲の目は気にしなくなり、ビジネスマナーもない。 より華やかな、観る人によっては下品な、仕事とのことを考えない、背中の大きく開いたワンピを着たりする。 茉由は、頼もしい佐藤に、自然と敬語で話しかけるようになっていた。 こんなに茉由が変化を遂げているのに、佐藤は相変わらずの仕事人間で、ただ業務に集中している。 マンションギャラリーのバックヤードの事務室では、朝早くからデスクに座り、PCに向かったまま、その横に積まれた書類にも目を通し、どんなに忙しくても、何でも自分でやろうとする。 その横に座る茉由は、マイペースにゆっくり出勤すると、自分の仕事ですら、する気もなく、何度も、佐藤の方を覗き込むが、佐藤はあまりにもスキが無いので、 朝の挨拶もできないまま、そこに手を出しづらいのか、暇そうだ。 こんな二人、一緒に居ても、佐藤は茉由に構わない、ことが多い — たまに、他のマンションギャラリーから、販売状況の確認にと、チーフ仲間が訪れてきた時、仲間意識からか、サボりに来たようにくつろぎ、仕事をそっちのけで、まるで品定めのように、女性スタッフをチェックし、 ここのお気に入りである茉由をターゲットに、その引き締まった足首から、ゆるくカールされた髪先までを、舐めるようにユックリと目線を這わせる様にミツメルと、 佐藤はようやく思い出したように、 「 おい! 近過ぎるぞ! 寄るな!」と!強く出る。 「 フゥ~ン?」と、相手になったワルノリのチーフが、さらに挑発するように、茉由の横に座ると、 「 ク・ド・イ! 離れろ!」と、さらに語気を強めた。 間に入ってしまった茉由は、口出しはせず、表情も変えないが嬉しそうだ。 こんな女になってしまった茉由は、どれだけ自信過剰なのか、ゆっくりと撓るように立ち上がり、佐藤の肩に両手を掛けて背中に廻る、まるで雌猫のように。 座ったままでも逞しい、学生時代には水球に熱中し、鍛えられた身体はドッシリと、分厚い胸の上半身はデスクに着いていても目立つ。 その広い佐藤の背中に茉由が隠れると、それに佐藤は満足そうに、一度だけニヤリと口角を上げ、譲らない。 貫禄を見せつけた大きな体で茉由を隠したまま、忙しそうにデスクワークを続けた。   こんな時、ちょうど良く温かい、逆三角形の広い背中に隠れた茉由は、こんな他愛無い些細な出来事でも 「このまま、ずっとこうしていたい」と、気持ちが大きく揺らいでいた。 だから、佐藤との間にある温度差を、茉由は気づかない。 この時佐藤は、会社での自分のポジションに合わせた、ライバルの前での、単なる芝居のつもりだった。 -6 優秀な佐藤チーフがこのマンションを売り切るまで、そうは時間がかからなかった。ここのマンションギャラリーが必要とされたのは、たった2カ月ほどだった。 マンションが完売したら、もうここは必要がない。 茉由と佐藤の関係は、このマンションギャラリーが畳まれると、どうなってしまうのだろう。 最後の朝礼の後、佐藤は今後の皆の行き先の説明を始めた。その場には、チーフの上の立場にあるエリアマネージャーの顔も有った。 営業担当の行き先を告げた後、茉由たち接客担当の行先が告げられ始めた、他の3人の女性たちは、これから立ち上げの、かなり大きなタワーマンションに往くらしい。 だが、茉由だけは、同じ路線で二つ先の、低層の億ションへ入ることになった。 けれど、佐藤はそこの担当チーフではない。 これにはここの皆が驚いたが、そこには、佐藤と、朝礼に加わっていた、佐藤の上司のエリアマネージャーとの間に衝突があった。 このエリアマネージャーは、いくつかの、新築マンション販売物件を、同時にグルグルと、廻ながらみる。 いつも、マンションギャラリーからマンションギャラリーをと、廻ることが多い。ここにも、たまにしか来なかったので、茉由はコーヒーなどをお出しする程度だったが、 エリアマネージャーは、営業だけではなく、接客のプロとして働く者も、チェックする。 マンションギャラリーのスタッフを決めるのは、チーフに権限があるのだが、その上司であるエリアマネージャーは、それについても意見する権限はある。 この時、これから忙しくなるタワーマンションも、このエリアマネージャーが視ていて、ここの者は大半が、そこに加わることになっていた。 当然、茉由もそこに入れようと、エリアマネージャーは考えていたのだ。 けれど、佐藤チーフはそれに意見した。 なぜなら、茉由は気づかなかったが、ここで働いていた接客の女性たちからは、茉由は距離を置かれていたからだ。 茉由は、佐藤といつも行動を一緒にしていたので、それに気づかなかった? いや、佐藤のことだけ見ていて、一緒に働く他の者たちの方を茉由は見ようとしなかった。 佐藤が、お気に入りのはずの茉由を、あまり構わなかったのも、 実は、その事に気づいていたからだ。 だが、茉由が家庭内で自分の居場所を見つけられないとのことも、知っていた佐藤、茉由にこれ以上の、傷をつけたくはなかったので、そのことを、伝えてはいなかった。 佐藤は、このまま、自分が担当しないタワーマンションに茉由を行かせたら、そこからは守ってやれないことも分かっていた。 だから、皆から離し、茉由だけは、違うマンションギャラリーに入れることにしたかったのだ。 けれど、そんなことまでは、エリアマネージャーは把握していなかったらしい。茉由をタワーマンションに入れない理由を、茉由のことを庇うが為に、説明できないままの佐藤と、このことで衝突してしまった。 結果、このことは思いのほか大ごとになり、エリアマネージャーに逆らった佐藤は、ここでも成果を出し、営業成績はトップクラスなのだから、 次は、もっと大きな案件で、華々しく活躍できるはずだったが、都心からかなり離れた残物件、 それは、建物完成後も完売できていない、棟内モデルルームに行かされることになった。 これには、茉由と、ここにいる者だけではなく、ここから離れた、この会社のそれぞれ各部署の者、その噂話を聴いた大部分が驚いた。 それほど異例中の異例の異動だった。 何故、佐藤とエリアマネージャーが衝突したのか、誰も本当の事を知らない。けれど、「この二人が衝突したから、佐藤が飛ばされることになった」ことは、皆、分かっている。 そして、その、もめた原因を聴かされなくても、いくら鈍い茉由でも、優秀な佐藤が失速する理由が、他にないことも察しが付き、 この佐藤の処分には、自分が関係していることぐらいは分かる。それもきっと、自分の方が佐藤よりも、本当はずっと、非が大きいことも。 茉由は、ここでの2か月間の、自分の浮かれたバカさ加減に、寒い季節に冷水を浴びてしまった以上に、全身が強ばった。 つかの間の幸せに過ごせていた茉由の足元は、このマンションギャラリーと一緒に、ガタガタガタッーと崩れ、 そしてさらに、また、一人ぼっちで、もっと、もっと、もっと、ずっと、大きな深い穴に落とされた気がした。 まさか、こんなに優秀な、誰からも、その営業センスの良さを認められていた佐藤は、着実に、順調に出世していけるはずだったのに。 それなのに、 「こんな目に合うの?」 と ― このエリアマネージャーが、いや、この会社をとても怖く感じた。 茉由だけは、それほど、社会人として幼過ぎた。 この朝礼後、 佐藤は、何事もなかったかのように茉由に話しかけてきた。 「 … 茉由  今度入るマンションギャラリーの  チーフの云うこと ちゃんときけよ」― それは茉由の知らない、こんな時にも冷静な、穏やかな優しい声だった。 茉由は顔を伏せたままで、その声だけを聴いていた。どんな表情を作ったら良いのか、分からない。 「 でも 私   翔太が大好きだっただけなのに」 ― これ以後、 茉由はいくつかのマンションギャラリーで仕事をしたが、どこのマンションギャラリーでも、佐藤とは、顔を合わせることがなかった ― -7 二人の息子がいる茉由は、子供が小さく手のかかるうちは、母に任せっきりなのも、年老いた母には大変なことから、 5年ほど家庭に入っていたことが、茉由の社会人としての成長を止めていたのか、同僚たちとのレベルの違いから周囲に迷惑をかけ、社会復帰早々に、手厳しい洗礼を受けた。 茉由は、それからは一緒に働く者たち、それは男でも女でも、決して甘えることはなかった。茉由の方から一定の距離を保ち、マンションギャラリーで接客の仕事を続けた。 マンションギャラリーでの仕事は、そのマンションが完売すれば終わる。これに茉由は助けられた。 いつの間にか、佐藤と茉由のことは誰も口に出さなくなっていた。それならば、「翔太の周りでもきっとそのようになっていて」と、 茉由は心の中で祈っていた。そして、「この会社で働くのなら、ここで力を持っている者には絶対に逆らわない」と心に刻む。 エリアマネージャーで、リーダーである高井に出会った時 ― 茉由は真っ先に、頭にそのことが浮かんだ。 何事にも、自信に満ちた態度に出る高井は、ただでさえ、強そうで近寄りにくいが、あれから何年も過ぎていても、なおさら茉由には怖かった — 茉由は自分から絶対に高井には近づかない。どんな仕事の場面でも、なるべく高井の目に入らないようにしていた。 高井はエリアマネージャーなので、茉由の職場であるマンションギャラリーでは毎日は顔を合わせなくても良かった、だから茉由には、こうしたことが、さほど大変なことではないように、感じていた。 それに、茉由が勝手に意識しすぎているだけで、高井が自分の方を見るとも限らないし、二人きりにならなければ、ここには茉由よりも、若くて美しい者は多いので、そう目立つことも無いだろうと思っていた。 いつの間にか、茉由は周囲の者よりも、一歩下がるようになっていた ― 実際に、茉由は若くはないし、身だしなみは、キチンとしていたが、以前のように、華やかさを出さずに、接客の仕事で、失礼にならない程度のものに落ち着き、メイクもナチュラルメイクで控えめになっていた。 だから、まさか、それが逆に、ここで目立つことになろうとは、茉由は全く思ってもいなかった。 仕事を続けていれば、歳月は自然に流れる。異空間のマンションギャラリーの中では判かりづらいが、社会は常に変化していく。 景気の良し悪しで、消費者のニーズも変わるが、それは、マンションを購入しようとしている人たちもそうであって、 このところは、夢のような豪華な異空間のマンションギャラリーよりも、それぞれの生活パターンが一目で分かる現実的なものを求められる。 購入した後にでも、自分たちで変更できる内装インテリアよりも、建物本体の構造の方が気になるとか、ガッチリと固められた間取りよりも、変更可能な、そこでの生活が、どれくらい、自分たちのライフスタイルに合う様に変更できるのかなど、 それぞれの気になることが、具体的にこちらに投げかけられる。 だから、綺麗に着飾った華やかな女性が、優雅に各コーナーを廻る、モデルルームの中を、決められたとおりの順路でご案内しても、お客様はあまり関心を示さない。 それよりも、将来のここでの生活が分かる、イメージできる、伝わりやすい、実際の家庭内にある、キーワードでご案内できる者が、求められる様にもなっていた。 ここでも、若く綺麗な接客担当者より、家事や育児経験者の、茉由の接客数は増えていった ― そうなれば、マンションギャラリーの中でも、よく動く茉由は目立ち、忙しさのあまり気にしなくなっていた、高井との距離感は保てなくなっていた。 接客のスキルを認められ、チーフから重宝がられた茉由が、接客を終えたばかりでも忙しく、次から次へと、受付へお客様をお迎えに伺うと、 なぜか横には高井がいて、二人揃って、お客様をお迎えすることもある。 また、ご案内が終わり、お客様をお見送りした後に、 その都度、接客内容を、高井から尋ねられることも増えていった。 いつのまにか、現場責任者のチーフよりも、高井のとの距離の方が、近くなっていく、 けれども、そんな事も、茉由は忙しさのあまり気づけなかった。 このところ、高井がここに顔を出すことが、日に日に、増えていく。 そして、茉由の接客が終わるたびに、待っていたかのように、高井は茉由に対応した。これにはさすがに、茉由も違和感が出てきた。 これはエリアマネージャーの、そしてリーダーの仕事では、ないからだ。 接客担当は、第一次対応で、その次の出番は営業担当になるのだから、茉由が引継ぎを行うのは営業担当になる。 そこにエリアマネージャーが入るのは、現場責任者としてのチーフにしてみても、厄介なことで、営業担当からしてみても、やりづらい。 なんだか、また、茉由の周りで、おかしなことが、起き始めていた — -8 「 ヤダぁ ... まって!    今日は24日なの?    うそ?えぇ~!あぁ~   何てことイヴじゃない!」 茉由はかなり焦った。忙しくて、日付感覚は全くなくなっていた。子供が二人いる母なのに、 きっと、今、家の中では、子供たちはそれぞれに、好き勝手な想像を巡らせ、盛り上がっているに違いない。 私は母なのに、こんなことも、分からなくなってしまったの?  佐藤のあの出来事が起こった後、そこからも逃げたくて、無我夢中で働いていたのか、ドンドン何も見ない、何も気づかない、人間になっていた。 気づけば、ただの仕事人間になっている。あんなに可愛い我が子たちのことも、どこか隅っこに、置いたままだった。 「 おい  君 茉由君?だったか?」 この会社は、なぜか女性は下の名で呼び、男性は姓で呼ばれる。 「 … は? 私ですか?」 高井はやっとお前を見つけたぞ、みたいに走り寄ってきた。 「 あぁ  さっきのお客さんから  連絡があったぞ これから       来てほしいそうだ  送っていくから支度をしなさい」 「 これからですか?」 「 … あぁ?    その様だ … 」 …なんでよ 今日が! なんの日か分からないのかなぁー クリスマスイヴだよ!勘弁してよ… 「 すぐに支度を致します 」 茉由は、頭の中が真っ白になっていた. 二人は高井の車でお客様宅へ向かった。このシチュエーションは、どう対応して良いのか分からず、茉由は沈黙を守った。高井は運転に集中しているだけかのようだった。 12月のこの時期は、夕方の18時過ぎには、もう真っ暗になっていて、車のライトを点けなければ郊外のこの辺りは真っ暗闇だ。 進む車道の、中央ラインしか、茉由の目に入らない。 ... あぁ~ 子供たち!  プレゼントどうしよう?  ここで家に電話しても?  大丈夫かなー?本当にぃ~       どう?しよぉー... 茉由は言葉にできないが、大きな溜息は何度も出てしまい、それは二人とも沈黙のままの、静かな車内にはハッキリと聞こえた。 「 どうした?   今日は予定が有ったか?      イヴだからなぁー」 「 いえ大丈夫です   失礼致しました 」 茉由は下唇を噛みしめ息をのむ。この場に家庭の話などできない。高井にもお客様にも、全く関係のない話だから。 「 お客さんも …  如何いうつもりかなぁ?   今日が イヴ だって  誰にだって分るのに       自分たちは?  如何するつもりなんだぁ?   こんな日に 呼びつけてー」 高井はどちらにも選らない、中立の立場を強調したいようだ。 「 そう?ですねー」 茉由も返事だけ返した。 「 こんばんは! 先ほど  お電話を頂きました    高井で御座います 」 「 いらっしゃいませー  どうぞお入りください!」 迎えた奥様は、今日が特別な日であるかのことはなく、サラッとした対応だった。 「 アァ~! 貴女が?  対応してくれた方だったわネ?  貴方に担当してもらって    良かったわー きっと?  それが善かったの!ありがとー  主人がネその気になってくれて  私!   このタイミング逃したくなくて  話しをネ 進めちゃおうッテ!  思ったから その勢いで電話  しちゃったの!ごめんなさいネ       忙しかったカシラ?」 「 いえいえ!大丈夫です!  お電話有り難う御座いました  お話しを?   進めさせて戴きますが    どの様になさいますか?」   茉由は高井の前に出て、ご挨拶はしたものの、これより先は、自分が話しを進めて善いのか迷い、恐縮して、高井の後ろに下がる。 高井と茉由が、それぞれ着ていたコートを一つに合わせ、茉由はそれを後ろ向きに持ち替え、二人はお客様宅の、玄関先に留まり、話しを続けた。 「 あのネ!  『 申込んじゃお!』って  思っているの あのお部屋!」 「 左様ですか!  ありがとうございます!」 高井の、張った声が響いた。 「 それでは 早速  書類をご用意致しまして  また改めてお伺い致します  次に お伺い致します間に  何か  お気づきの事がございましたら  何なりと お電話で      お申し付けください!」 高井は サッ!と玄関ドアに手をかけ、少しだけ、ゆっくりと身を引く。 「 では!お忙しい今夜は  この辺で失礼致します  大切なお時間を頂きまして    有り難う御座いました  何卒 ご家族皆様にも     宜しくお伝え下さい  これからの事!    ご家族様にもきっと!  ご満足戴けます様に致します」 「 こちらこそ  よろしくお願いしますネ!」 奥様は、高井の、この手際の良さに、満足そうだった。 茉由が、あまりに早い話の展開に、新人のように、何も出来ずにマゴマゴしている間に、高井はアッサリと、話を纏めてしまい、 ただ高井にくっ付いていた茉由が、やっと我に返った時には、二人は車に乗ってお客様宅から、かなり離れていた。 「 ナンだぁー  クレームじゃなくって     良かったなぁー」 高井は、揶揄うように、ワザとらしく呟いた。 「 やめて下さい!   クレームなんて 私には!   身に覚えがないことです!」 「 冗談さぁー 君の接客は  このところ視ていたからね  そんな事思っていないさぁー」 茉由は大きく息を吐いて、ようやく、声を出せた。 ... 私だって、この日がイヴでなければ、もう少し、仕事の緊張感を保てていて、お客様の前でも、上手く対応できたのかもしれないし、一緒に居るのがリーダーでなければ、こんなに、気が動転しないのに... 茉由はまだ気持ちがセカセカしていて、高井との会話も、これで正解なのか分からない。ただ、高井の機嫌が良いことだけは、茉由にも分かることだった。 「 あっ!  ありがとうございます  この先を  右に行けばもう駅ですよね?  今回は大変勉強になりました!  ご一緒させて頂けて良かったです」 茉由は、自分が今、何を話しているのかよく分からないまま、取り敢えず、失礼のない様に、そして、怒らせないように、頭の中で美辞麗句を並べてみたが纏まらない。 そんな自分の至らなさを誤魔化す様に、少し右横に目を逸らすと、あろうことか、また、失態を繰り返したように、自分がシートベルトをしていないことに気がついた。 「 えー?スミマセン!私?  シートベルトしてなかったですー」 「 おう?   お前?少し落ち着けよぉ    さっきから面倒くさいぞ」      「ぁ?ぇ はい…         スミマセン…」 なんだが、見透かされているような、 でも、この余裕のある高井の方がこっちこそ面倒くさいと、茉由は余計に気が焦る。 もう寒い季節なのに、茉由はお腹の辺りから頭の天辺まで、とうとう体中が火照ってきてしまい、シートベルトをしっかり握りすぎたのか、自分の手の平を見ると、これまでが、真っ赤になっていて恥ずかしい。 きっと今だって" ジタバタ! ” したから、髪やスカートも乱れたままなのかもしれない。急にそんなことが気になりだした。 茉由は慌てて体勢を整えようとすると、今度は " ズリッ!” と、ダッシュボードとの間に腰を落としそうになった。 「 おい ! なんだ危ないぞ   さっきからジタバタしやがって          お前は子供か?」 「 いえ! いいえ大丈夫です  本当にスミマセン!   えーっと もう?  駅に近いのでここで降ります           ワタシ!」 … あ~ 全く会話がかみ合わない。 交差点の信号で停車したタイミングに、突然、急に勢いをつけて、茉由は高井の車から飛び降りた。 「 おぅ お疲れさん!    営業に引継ぎしとけよ!」    「 承知致しました      有難うございました 」 駅に向かいながら、茉由は夜空を見上げ、顔の火照りをとる。 冬の空は暗くなるのが早く、空気が乾いているからか、星が大きく、キラキラ輝いて見える。きっと、上空は風が強く吹いているのだろうが、下を歩く茉由には吹いてこない。 仕方ないので、身体を冷やそうと、いつもよりもゆっくりと歩いた。 茉由は初めて上司の高井の車に同乗したのに、大人らしい対応ができなかったことが情けなく恥ずかしかった。 ... あれじゃぁ、『お前は子供か』なんて云われてもしょうがないよね、リーダーだって、イヴの予定が有ったに違いないのに、せっかく仕事のサポートをしてくれたのに、私、パニクったまんまで...、 ... ちゃんとお礼の言葉!言えて、ないんだよねぇー、本当に! 新人でもなく、若い娘でもないのにバカみたい... ... ナンデ!チャンとできないんだろう。 あー!車から降りた時だって、車が見えなくなるまで、その場で頭下げていれば良かったのに、気持ちが焦って、速攻で逃げてきちゃったじゃない... 「 … ん ~ ん      ぁあ ~ も!」 茉由は頭を抱えた。 「 明日は?  リーダーが来ない日なら         良いなぁ~」 茉由はずっと夜空を見上げたまま、トボトボと歩き、落ち込み続けた、かと思うと、 「 あー サンタさん助けて!  まだ お店 間に合う?  子供たちに  何を買っていこうかなぁ~」 ようやく駅に着いた茉由は、急に周囲の明るさに、我に還ったようだった。 茉由は車の中で別人のように喋りまくっていた。 接客の仕事中では口数か少ない聞き上手なのに、これはどうしたことだろう。過去のトラウマからか、「エリアマネージャー」とのポストの人には警戒心全開だったのか、かなりの狼狽状態のようだった。 茉由は高井に対し、一方的な自分サイドの対応しかできなかった。その不器用さは、茉由の社会人としての弱点なのか、 まぁ、これはきっと、まだ茉由が、高井の事を知らな過ぎたために、どうしようもなかったことなのかもしれない。 けれど、高井の方は、このところ、他の者と比べながら、茉由を目で追っていた。茉由がこの会社で長く働いている方なのに、 同じくらいベテランの他の社員とは、タイプが違うと、思ったからだ。 高井が視るマンションギャラリーの仕事は、営業中心に動いている。 営業は「結果を出さなければならない」とのことから、常に周りの状況を見極め、的確な判断が求められる。 臨機応変な柔軟性や、高い情報収集能力、コミュニケーション能力などの対人関係の構築力も、必要だろう。とにかく、『スキ』があっては務まらない。 「この人の前ではこうで、あの人の前ではそうで」と、それぞれの対応や、その場面、場面でも、自分を、変えていかなければならない。 けれども、茉由は、一見、人に合わせている様に聞き上手なようだが、今も、自分のタイミングで、サッサと車から降りて帰ってしまった。 事故が起こりやすい交差点で、他人が運転している車なのに、これは、高井が咄嗟に対応したから良かったものの、危険な行為だし、 ましてや、今回は、高井に呼び出されたのならば、一緒に行動する間は、高井の考えで動くのが普通だろうに。 茉由は穏やかそうな見た目とは違い、どんな時でも、ただ自分で決めたように動く者のようだ。 良く見てあげれば、純粋で、正直で、裏表がない性分なのかもしれないが、これは、この世界では天然記念物のような存在、の、者だ。 「 … アイツ   やっぱり 面白い な … 」 高井はハンドルを大きく回し、気分転換にスピードを出したくなったのか、高速道路方面へと消えていった。 -9 この男、高井は不動産会社のエリアマネージャーの仕事をしている。 茉由が働くマンションギャラリーの他、同じエリアにある5つほどのマンションギャラリーをグルグル廻り監督する。 ポジションは、営業本部のGMの次のポストで、他のエリアマネージャーよりも一つ上のリーダーだ。だから他のエリアマネージャーのことも視る。 高井は営業部所属なのであるから、勿論、接客の対応をすることもあるが、そこは、さすが、リーダーである、 背筋も真っ直ぐな見事なお辞儀に、巧みなセールストークがサラッとできる。 ただ視て廻る、管理職の仕事だけではなく、仕事の手本も他の者に見せることができる。社内では、周りの者にはかなり鬱陶しい位に完全無敵なオーラが漂っている。 マンションギャラリーは、個々にハッキリと区別されたところなので、そこの全責任者であるチーフは、城主で有るくらいの勢いと力はある。 その城内で働くスタッフには他に逃げ場がないのだから、チーフには絶対に逆らえない。 そして、エリアマネージャーは、そのチーフの上、 ましてや高井はその上のリーダーなので、茉由でなくとも、この営業に属する者には、もしも何か仕出かして、気分を害されでもしたら、茉由の以前のトラウマ以上の、そんな事ができる力を持っている。 そう、茉由以外の現場で働く者たちにとっても、近寄りがたい、できれば直接は関わり合いたくないと思われている。 それだからなのか、キャラが濃い。 茉由が以前、痛い目にあった、当時のエリアマネージャーは、所詮はサラリーマン的な、パッと見は、ただの会社員。 あくが無く、穏やかそうなスマートな立ち居振る舞いの、「バロン」と呼ばれていた人だったが、 高井の場合は、お客様に見せる顔と自分の部下に見せる顔が両極端で、下の者には、目線が鋭く、厳しく、強烈な圧を出し、加えて、ドスのきいた野太い声を出すので、 辺りに響き渡るその声は、大学まで応援団にいたのかもしれないと思ってしまうほど、この時代には珍しい、硬派な雰囲気も出し、 その取り巻きたちも、それに似合う男どもしかいない。それに、プライベートでは離婚経験者でバツ2の男、 けれど、その事は何とも思わない様で、本当にこの男は何につけても動じない。 そんな男だったら、容姿端麗で、したたかな、自分に自信満々の、ビビットな華やかさを身に纏った高飛車な女が似合いそうだが、 意外にも、少し生活に疲れた中年の、世の中の厳しさも悟ったような、あまり面白みもない茉由に目を付けた。 まぁ、まだ、ソコソコは見られる程度なので、誰に対してもスキが無く、攻め続ける自分の傍に置いて、その柔らかさに、癒されたいのかもしれない。 この二人、仕事終わりに合流することが多くなってきた。  茉由は家庭を持ったことが無い佐藤の時よりも、罪悪感がないことに気づいていたかは分からないが、高井の方を向く時に、佐藤とのことは振り返らなかった ― 「 今日は…   オールバックじゃ     ないんですか?」 二月でも、空に太陽だけしかない水色の日は、ガラス張りのマンションギャラリーは暖かすぎる。 「 あぁ 今日は  工事の進捗状況確認の立ち合いで  現場に入る      ヘルメット着用だからな」 「 えー? リーダーの髪って  サラサラだったんですね?   その方が優しく見えるのに     変えないんですか?」 茉由は180センチ越えの高井の右肩にぶら下がるように、背伸びをしながら両手を掛け、そこへ顎をチャッカリのせると目を細め、高井の髪質を間近に確かめると、 春を意識した桜の花色のグロスが、艶っぽく光る唇のすぐ先の、その右耳に話しかけた。 社交辞令のお世辞ではなく、茉由は初めて気づいた高井の爽やかさに、良い意味で驚かされ、つい、いつもの距離を忘れ、引き寄せられたが、 高井は褒められたはずなのに、全く表情を変えず、茉由をそのままに、前を向いたまま動かない。 頭の中は、工事の進捗状況でイッパイなのだろう。口元は微かに緩んだが、きっと、こんなことぐらいでは、明日は以前のオールバックに戻り、 高井の髪型は変わらない。 「 もう  モデルの掃除はしたのか?」 茉由の気持ちに全く繋がらないことを云う。 「 いえ? 平日ですし?  来場予約もないので        まだです」 「 じゃあ 今 お前がやれ!」 「 はい? スミマセン!   只今 上がります…」 このマンションギャラリーは2階建で、上にモデルルームがある。 ここに、今は、お客様は誰も居ない。 けれど、外から丸見えのエントランスホールで、茉由が少し甘えた声で高井に話しかけたのが気に入らなかったのか、普段は、他の者に掃除を任せていた茉由に、直接『汚れ仕事』の指示をした。 茉由は我に還り、ダスターを手にして階段を、かけ上がっていった。 マンションギャラリーでは、常に、決して走ってはいけない。6センチのハイヒールで走ったら危ないし、それに、お客様の前では優雅に見えないからだ。 けれど、今は、走らなくてはいけない、と茉由は思った。 「 うぅー 恐かったぁー  どこでキレるか  分からないのよねー  せっかく褒めて差し上げたのに             もぉー」 茉由は最近、掃除をあまりしない。ここでも、新人ではないから、自分の仕事だと思ってもいなかったし、爪が長くて、雑巾なんて絞れないから、乾拭きだけにしようとサッサと手を動かす。 モデルルームには誰も居ない、ならば適当に手を動かしても良いのだが、他の会社のことは分からないが、この会社のマンションギャラリーでは、防犯上や、お客様の動きをチェックするために、カメラが、あちらこちらにある。 今だって、チーフのデスク上にある、PC画面では、16分割の大きさで、マンションギャラリーの隅々まで、チェックできるようになっている。 これを、茉由は新人の頃知らなかったので、誰も居ないモデルルーム内の、ドレッサーの三面ミラー前で、営業スマイル付きのお辞儀の練習を、何パターンも試行錯誤していたら、 下の事務室では皆の笑い声が起こって、キョトンとしたことがあった。 それからは" ポツン ”と?モデルルームの個室の中に、ひとりで居ても緊張したままだ。 「 おい   終わったのか!」 茉由が手を動かしながら、あちらこちらと這いつくばるように動き回っていると、いつの間に入ってきたのか、 足音を立てずに、高井が背後にピッタリとくっ付いて、覆い被さる様に、茉由の頭の上から声を掛けた。 「 うわぁぁぁ!   ビックリ  させないでくださいよぉー  今 一生懸命に  手を動かしていますから!」 「 アッ 違いますね?   気づきませんでどうも    失礼を致しました!」 茉由は少し不機嫌で、何で私がこんなにジタバタしなければならないの?と、高井に突っかかってみる。 「 嫌なのか?」 高井は茉由の前に回り込むと、上目づかいで、さも小ばかにしたように顎を上げ、その身体の大きさを見せつけたいのか、壁の様に、腕を組んで胸を張った。 さっきは、自分はベッタリと茉由にくっ付いていたのに、全く、茉由の甘えを許さないように、突き放す。 茉由は、距離を感じ、高井に甘え声を出したことを、後悔した。 高井は茉由とは対等になりたがらない。茉由はこの立ち位置に、まだ、戸惑うことが多い。今も、また、唇を噛みしめ、辛そうな表情をする。 「 いえ 今日は  日の光が強すぎますね  暖房を未だ入れていないのに     こんなに暑いなんて…」 茉由は急に余所余所しくなる。 「 ここを出られる前に  先に  お車を冷やしておいた方が  良いのかも しれませんね  きっと!  冬でも車内は暑すぎる!       でしょうから...」 急に話の矛先を変え、無理やり仕切り直す。茉由にだって、小ばかにされれば分かる。優しくしてくれないのなら、早くここから離れてほしかった、 まだ10時、どうせ高井は、自分の知らない処にも、行かなければならないのだから と ―  「 あぁ   今日はこれから本社だ」      「 お疲れ様です」 茉由は事務的なお辞儀をして、高井に背を向けた。  『 ダ !! ン ‼ 』 急に、地鳴りのような、タテ揺れの地震が起こったのか、との低い音が、シ~ンとしていた、モデルルームに響いた。 茉由は"ビクッ!”と身が竦む。茉由に背を向けられた高井は、リビングに配置されたソファーを蹴とばし、出て行ったようだった。 再び静まり返ったモデルルーム。 茉由はひとり、突っ立ったまま、細く息を吐く。 「『 せっかく貌を?   見に来てやったのに 』     だったのかなぁー」 二人の時にはいつも、高井は言葉足らずで気難しい。 「 私に掃除を云いつけたのは  二人きりに?なりたかったの?」 茉由は胸が重苦しい。高井は、気分次第で、お構いなしに、茉由に冷ややかな態度をとる。 ここは静かだが、今も、他のスタッフ達はマンションギャラリーにいる。 誰にも声を掛けないまま、茉由は事務室にはいないのに、他の者たちは、誰も茉由を探しに来ない。 下の事務室では他の者たちに、PC越しに今も見られているかもしれない、茉由はひとりで、これをおさめなければならない。 「 お疲れ様ですー  あっ チーフ! 私  モデルの掃除をしてきました  チーフに指示される前に  サッサと済ませるなんて       私 偉いでしょ?」 まるで朝の清掃を、単独行動でしていただけだったように、茉由は勢いをつけて、事務室に戻り、無理に明るく振る舞った。 「 おっ お疲れサン  珍しいじゃん!掃除するなんて」 チーフも何事もなかったかのように、軽く返事をした。 「 珍しいじゃんっていえば  たまには、本社に行ってくるか?  今度  顧客情報システムの変更に  ついての研修があるけど  俺はチョットお客様に呼ばれてて」 「 はい 分かりました  最近本社に行っていなかったから          私行きたいです」 「 じゃぁ 頼む!」 ここでも経費削減なのか、最近は、全体会議も少なくなっていたので、本社が遠く感じていた茉由だが、知らない者ばかりではないから、気分転換に行ってみることにした ― -10 本社は、東京の真ん中辺りにあるので、こことは空気も、随分と違う 。 「 ちょっとー?  茉由なの? 久しぶりー!」 本社での研修がすんなりと終わり、1階のロビーまで下りてくると、外から戻ってきた同期の梨沙とバッタリすれ違った。 茉由の方は全く気が付かないほど、以前のガーリーな雰囲気とは真逆の、シャープなスタイルの、パンツスーツにストレートの長い黒髪で、 この変身ぶりには、長い年月、全く逢うことが無かった時を実感する。 「 うそ? 梨沙ゼンゼン違う!  都会にいるとこうなるの?   私  田舎から上京してきたみたいに        恥ずかしくなるー」 「 ヤダぁー     茉由だって綺麗よー」 これは社交辞令で、「自分の方が綺麗だけれど」って謂っている。 でも、いくら同期でも、茉由の送別会以来、余りに久しぶりに会ったもので、二人の会話は弾まなく、無意味に微笑み合っているだけだった。 そんな、お互いがこの場をどうしたら良いのか探り合っている中、 不意に"ドン!”と真っ黒いスーツに体当たりされ、堪えきれない茉由はよろけて、茉由より頭一つ小さい梨沙に支えられる。 「 あ~ ワルイ!」 二人の前には高井が立っていた。 「 お疲れ様ですリーダー」 梨沙はすかさず態勢を変え、ソツナク、サラッと挨拶をする。 「 あっ お疲れ様です」 茉由も挨拶だけにする。 「 おっ! お疲れ!     おい お前?    何で本社にいるんだ?」 高井は茉由の名を云わない。 「 はい  システム変更の研修です    もう終わりましたが…」 茉由は淡々と返事をした。 「 そうか? 俺も  もう出るから 送ってくぞ     先に車で待っていろ!」 「 はい 地下駐車場ですか?」 「 そうだ!」 茉由は車の中で待つことにして、高井の手からキーを預かった。すると、梨沙は少し驚き、だが、すかさず、 「 ねぇ? 高井さんの車?   なんで茉由知ってるの?」 もう、何もかも、分かってしまったかのように、けれど、茉由にそれを認めさせようとしたのか、梨沙は確認をした。 「 だって?  マンションギャラリーに  乗って来るもの分かるわよ!」 茉由は完璧な模範解答のつもりだった。ところが、これに高井は余計な口をはさむ、 「 おい  戻らないで直帰にするか?  あ~ やっぱり俺も直帰する  い・い・な! あ~  今日は アクアパッツァか  お前の好きな温野菜にするか?      晩飯 食って帰るぞ!」 "… えぇ~? なんでよ  やめてー 余計な一言でしょー …” 茉由は、高井のこの一声でフリーズした。 けれど、梨沙は、反応が早かった。早々に茉由から二、三歩離れると、手を振り別れの挨拶をする。 「 茉由ぅ~ お疲れ様ぁ!  今度ゆっくり  お話し 聴かせてねー」 茉由は呆然とする。こんな時には、すぐにフォローするべきかとも、咄嗟に考えてみた。 でも、頭も身体も動かない、どうにかやっとこの場に立っている状態だ。 「 なんで 久しぶりの本社なのに  なんで 久しぶりの梨沙なのに  なんで    リーダーは登場するかなぁー」 けれど、力ないまま高井の方へ目を向けると、高井はゼンゼン涼しい貌をしている。「マッタク!」茉由は腹が立ってきた、 「この男 何て無神経なの!」、茉由は目を閉じて俯き、ゆっくりと息を吐いた。自分が落ち着かなければ、どうせ、高井に何を言っても無駄だと思ったからだ。 「 おい 行くぞ!」 案の定、高井は、きっと、何とも思っていない。 茉由はもう、この後のことは何も考えられなかった。ただ高井について行く、俯いたまま「嫌だ お腹空いてないし ゼンゼン嬉しくない」そう思っただけだった。 「コイツ スグ騙される」高井は茉由に背を向けて足早に地下駐車場に向かう。このニンマリした貌を見せないようにしているのだ。 今回も、茉由には分からなかっただけだ。この男が無神経なワケがない。高井は茉由が今日、本社に居ることを知っていた、 なにせ、あの日、高井が「研修に行かせろ」とチーフに指示したからだ。当然、研修の終了時間だって分かっていた。 そう、高井は茉由を、迎えに来たのだ。そして、茉由と梨沙を見つけた。 高井は太々しいくらいの男なので、こんなときにでも、とっさに、ギリギリのところを楽しもうとたくらむ、 高井にとって、下の身分の梨沙が、自分のことをどう思うかなんて関係ない。だから、茉由をいじめた方が、面白いと考えた ― -11 高井は車の運転が好きだ。茉由を乗せて、ドライブするのも好きだ。マンションギャラリーから茉由の自宅よりも、東京の中心から茉由の自宅までの距離の方が遙かに遠い。 ならば、茉由にそう伝えたら良いのだが、『策士』の高井はそうなるようにと事を運ぶ。 だから今、茉由は高井が自分とドライブを楽しみたいとは全く気づかない。茉由はそんな女だ。でも、その方が高井には良かった。 相手がいろいろ気づく者では、またそれに合わせて気遣いするのが煩わしい。 茉由のように鈍感な女は、全てにおいて、高井の勝手で決められるのだ。 例えば、これからのドライブルートだって、今まで電車でしか本社に来たことのない茉由は、自分で車を運転することが無いうちは、分からないだろし、関心もないだろうから、その説明もいらない。 高井がまんまと茉由を拾い、車で向かったのは、湾岸道路だった。 これだって、実は全く、帰り道にはならないのだが、ゼンゼン茉由には分からなかった ― 高井はせっかく手に入れた、望んでいたドライブなのに、浮かれて、茉由に話しかけることもなく、黙って車を運転し、自分の好きな音楽を流す。 ただ、いつもとは違い、この車の中の、高井好みの香りは、かなり強く充満していた。これでは、車内に居る時間が長ければ長いほど、服に纏わり憑いてしまう。 茉由はその匂いを気にしなかった。 いつもとは違うこの強い香りを、自分の家庭に持ち帰ってはいけないものだとは、迂闊にも分からない。 仕掛けを楽しむ高井はワザと車内に強くコロンの匂いを充満させている ― 「 あれー 平日の 今って?  この高速は渋滞がないですね  えぇー?   前の車のテールランプって  両端で『クイッ』って  曲がっているー  猫の笑った目みたい      わぁ~ 可愛いいー」 あー、全く何も気づいていない。それに、さっきまで、あんなに落ち込んでいたことさえも、忘れているのだろうか。 せっかく、茉由がドライブを楽しみだしたのに、高井は無表情に運転をしているだけで、茉由にだけ、喋らせている。 営業出身なのだから、相手を喜ばせる話術だって身に着けているのだろうが、二人の時はいつも口数が少ない。表情だって無表情のまま、ずっと口を噤んでいる。茉由に微笑みかけることもない。高井は本当に、楽しんでいるのだろうか?  いや、楽しそうな表情をしてしまうと、さすがに、茉由にドライブ目的だと気づかれてしまうのではと、考えているのかもしれない。 「 おい 何か食べるか?」 とりあえず聞いてみた。 「 いえ 私は大丈夫です」 茉由は気遣いできずに、高井には聞き返さない。けれども、高井はそこにあることを知っていたのか、暗闇の中にポツンとしたコンビニの、そして、この時間には、きっとこうだ、との事も、知っていたかのように、 車が一台もない、その広い駐車場に寄る ― たった一台だけ、特別に停められたような車に、茉由を置き去りに、ひとり降りた高井は"ブルッ!”と身震いした。 二人の温もりのある車の中とは違い、外の空気は夜になると肌寒かったのか、少し前屈みになると、ジャケットの襟を立て、ポケットに手を突っ込み、 「 あー 腹減ったー」と、茉由に聞こえないように、しっかりと離れたところに来てから呟く ― 他になにもない、だだっ広い駐車場で、ドップリと暗闇に包まれた、 高井の車に残された茉由の目の前では、高速道路を照らすオレンジ色の光が、周囲に広がった夜空の真っ黒いベースカラーをバックに、余計なものは全て消され、その下を通る、それぞれの車の色をピカピカに際立させている。 それらはまるで、色とりどりのジェリービーンズグミのように見え、それに次々に動いていく車のテールランプの光の線も連なり、これはもう、ピュアな性格の者ならば、幼心を取り戻し、懐かしい童話の中に出てくる、 森の中のスイーツファクトリーで、夜なべして働くドワーフ達の可愛らしい手で、セッセと一生懸命に作られていく中、ツヤツヤに出来上がったばかりで、レーンの上を運ばれているように見えてくる。 流石、策士の高井が考えたこれは、かなり良い雰囲気で夜景を楽しめる ― せっかく、そんな夜景の綺麗な、そして、さらにそこに加わる波の音も効果的な、海の近くにポイントを決めて高井が車を停めたのに、 それは茉由のためにと、わざわざここに連れてきてやったのに、 茉由は、自分のバッグの中の整理をはじめ、外の様子を観ようとしない。 海近くの星空の下、たった一人だけに与えられた『ワイドサイズの絶景スポット』の夜景を楽しんでいる様子はなく、 ここで一人にされたのも、高井の演出だなんてことにも、全く気づいていないようだ。 そんな『鈍感な女』とは分かっていても、 まさかこれほど鈍いのかと、どんなことにも動じない高井でも、チョット、骨折り損のような虚しい気もして、振り返りざまにノソノソと、暗闇の中虚しそうに、 ひとりで向かったコンビニは、反対に、自分には過剰なほど強烈に明るすぎて、そこに直ぐには、可愛そうにも中年の目は慣れなかったのか、 つい目を細めて店内に入ると、真っ先に目に入った、真っ白な壁に掛けられた時計は、『19時』と有り難く知らせてくれた。 「まぁ良いさ まだ あと1時間位はドライブできる」と高井は思った — ブラックの珈琲缶を二つ買うと、高井は車に戻る。 茉由は図々しくも眠っていた。高井がそれを睨みつけ、車体が傾くくらいにシートに「ドスン!」と腰を下ろしても、茉由は起きなかった。 それに呆れて、いきなり茉由の左の頬に唇を圧しつけても、気づかない。 「 そんなに疲れたのか?」 高井はもう、諦めたかのように、静かに運転席のドアを閉めて、レザーシートの擦れる音にも気を配ると、ゆっくりハンドルに手をかけ前方を見る。 「 女って 夜景が好き   なんじゃ ないのかよ」 高井にも、計算外のことがある。 高井は、エンジンを掛けようとしたが、思い出したように珈琲缶に手を伸ばしプルトップの音に注意しながら一口、空腹を紛らわすようにと多めに飲み込んだ。 せっかくだから、いつもは鬱陶しい位に全開の、警戒モードがOFFになっている状態の、全く動かない茉由を起こさないように、助手席の背凭れを倒してみた。 「 俺が一緒なのに 何故?        眠くなるんだ …」 高井のひとり言が続く。 「 俺の横で寝たヤツは     誰も いないんだぞ …」 それでもなお、開くことのない茉由の瞼のすぐ上で、高井の唇は僅かに開き、2回目のキスは茉由を起こさないような、柔らかい、軽めのキスをした ― 「お母さんただいまー   お腹減ったけど   食べるもの ある?」    「あぁー梨沙?    さっきは久しぶりに   バッタリだったから    ビックリしたぁー」   「お母さん?    洗濯ありがとー   畳んでくれたんだー   私が片づけるからー   なにか   作ってもらって良い?」    「え?そうだよ   送別会以来ずっと   逢えなかったでしょ?      ずいぶん前じゃん」   「あ?お母さん?    子供たちはもう   食べ終わったの?」    「うん だって~   ゆっくり話かったのに   梨沙ったら        サッサと?    居なくなっちゃうし~」 鈍感な茉由は玄関に走り込むと、無神経にも高井の香りが「タップリ」と滲みついたコートを、出迎えた母に投げ渡した。 だが、それは運良くも、あまりにも豪快にバタバタとやらかしたせいで、いつもとは違う娘の香りを、母は気づけなかった。 「茉由ちゃん?子供たちは今  食べ終わったところだから  残り物しかないけど良い?」 母はキョトンと、茉由を出迎えた。それは、いつもよりは遅い娘の帰宅時間だけが予想外であったようだが、けれども、あっけらかんとしている娘の様子に、その心配を裏切られたと、思えただけのようだ。 「う~んそれで良い  良いよ!食べる食べる!   エッ? そうそう!   今 自宅 そうよ!   何を言ってるの?        私は自宅よ!」 茉由はいつまでも、大げさにバタバタと音を出し、通話中の梨沙と、同時に、玄関で茉由から上着を預かった母に囃し立てる。 母には、遅めの帰宅時間の説明をしたくないし、梨沙には今日中に、いや、少しでも夜中に近づかない時間に、連絡したかった。 今は少しでも早く、上手に言い訳をする必要があることだと、茉由だって分かっている。 先ほど勘の鋭さを見せた梨沙と、何かと悪い方への心配をしがちな母への言い訳を考えながら、かなり頭を働かせてみたが、 茉由は鈍くさく、結局こんなことになってしまった。 『ナンだぁーツマラナイ!  高井さん イイ男だから  羨ましいぃーって  思ったのに ホントに?   送ってもらった だけ?      だったんだぁー』 どこまでが本気か、本当は、それ程興味がないのか、梨沙の突っ込みは、軽かった。 梨沙は茉由と同期だが、リーダーの高井の事を「高井さん」と呼ぶ。 それは茉由とは違い、入社以来外れることなく、ずっと本社勤務だし、その厳しい競争の中に居て、仕事だけに集中し、プライベートを二の次に、結婚はせずにキャリアを積んできた、 彼女の、プライドともいうべきか。 まぁ、本社勤務の者からは、高井のポジションなんて、そんな程度なのかもしれないが ― 「 ねぇ?   私 梨沙にビックリしたの  凄く変わっていたから  だって前は  あんなに可愛らしい 女の子  女の子した ヒラヒラの  フンワリスカートが  似合っていたのに 私    気づかなかったもの」 「 梨沙ったら凄く『キリっ』  って しているから  髪だって黒? なんだねー  ストレートで だから  全身シャープな感じで  仕事できる感全開だね  今 仕事は何をしているの?」 『 やだ? 私? 私は  相変わらずヨ ずっと  新人で配属された  修繕部のままだけど?   あぁ~ あの時?   ちょうど  グループの管理会社から  帰ってきたところだったの   私もビックリしたけどー』 『 茉由ってー あんなだった?  ナンか柔らかくなったねー  女らしい? カンジ  戻ったって聞いていたから  いつ会えるのか  なんて思っていたけど  マンションギャラリー?   なんだね~ 意外だったー』 「 そう? 私  接客の方が向いているって        カンジだけど」 『 そうなんだぁー でも  変わらず  茉由は綺麗だったよー お似合いじゃない!       高井さんと!』 「 どうしてよ!   私にはタダの恐い上司よ      だってあの人は!」 『 そうだね 茉由は  そう思っていた方が   良いのかも知れないね~』 梨沙はどこまで知っているのか、茉由の弁解も無意味なようで、 間を置かず、茉由の話し中に声を重ねた。茉由には聴きづらい、やっぱり含みのある感じだった。 梨沙は佐藤の事も知っているだろうし、「今度は、高井?」、なのか、と。 けれど、梨沙は大事な同期の茉由を、再び、壊したくないのかもしれない。 社会人の同期はライバル意識もあるが、同士の意識が強い。 梨沙を懐かしみ、その存在には、いくら時が過ぎても、同期ならばすぐに共感できる。 「 じゃあねー梨沙  またね! お母さんありがとー」 茉由はダイニングに入っていった。まだ、母の食事は温かかった。 「 あー? ゴメン  ゴメンどこまでだったぁ ?」 梨沙は周りの者に向かい、小さく乾杯のポーズをした。仕事仲間たちと、本社から近いホテルのバーで、シュリンプカクテルをつまみ乍らギムレットを口にする ―。   茉由は、医者である夫から癌告知され、夫の癌摘出手術を受けて、夫の施す、抗癌治療を受けながら仕事を続けてきた。 もう5年、 度重なる手術の痕は、そのままだが、意外にも、体形の欠損部分をカバーする下着を着け、露出の少ない服、そう、ちょうど、ビジネススーツなどを身に纏っていれば、 茉由の躰はキチンと管理されていて、その見た目は、肥満とは無縁のスタイルの良さで、メリハリのあるシルエットに艶っぽさは有った。 茉由は高井に対し、過去のトラウマから、恐れの、委縮した心持ちから受け身になっているが、 佐藤の時とは違う、高揚したドキドキ感はない。大人しくしているだけで、それは「強いものには逆らわない」とのことから来るものだった。 だから、逆らって気分を害されることが無いようにと努めているのだ。 だが、この先、高井に振り回される日々が続けばどうなるのか分からない。 あれほど自分の躰に代償を払った茉由が、もしも、心も、躰も高井に全てを投げ出した時、 茉由のこの躰は、その見た目通りに、本当に高井の高揚した気持ちを止めるものになるのだろうか。 それに … 茉由は、忘れている 11才のあの夏 … 病院で遭遇した、大男は … -12
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