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「千代子先生は千代子先生だよ」
当然知ってるよねというふうに私が言っても、
「だからさ、その先生、誰?」
A子は表情を険しくするだけです。
肌寒いのか、しきりに両手で身体をさすっています。
息が浅いのが見た目でも分かりました。
「産休で休んでる吹奏楽部の顧問だって。音楽室の噂を調べてほしいって頼まれたから二人で……」
私は彼女を落ち着かせるため、なるべく優しい声で説明しようとしましたが、
「違うよ。ぜんぜん違う。あたしが調べに来たのは稲波先輩に言われたからで……」
A子は私をさえぎって喋り始めました。
「イナミ先輩って誰のこと?」
私がそう聞くと、A子はひゅうと息を吸って言葉を失いました。
今度こそはっきりと、冷たい風が吹き抜けていくのを感じました。
A子の視線が定まらなくなっていきます。
「稲波先輩は吹奏楽部の部長で、えっと……」
困惑する頭で、A子は必死に記憶の糸をたぐります。
「男の人? 女の人?」
私は助け舟を出すつもりで聞いたのですが、
「男……の人。たぶん」
A子の返事は曖昧でした。
「やばいよこれ。なんかやばいって」
遂にA子が動揺を隠さずに言いました。
「稲波先輩って誰だっけ? なんで頼まれたんだっけ? どこで頼まれたんだっけ?」
しだいにかん高くなっていく彼女の声は、丸い穴が無数にあいた防音の壁に吸い込まれるように、はかなく消えていきました。
これ以上彼女を混乱させるのは酷でしたが、私は決定的な質問をすることにしました。
「あのさ、私の名前って分かる?」
それを聞くとA子の顔が固まり、私を凝視したまま息を荒くしていきました。
私も実は彼女の名前が分からなかったので、頭の中で勝手にA子と呼んでいたのです。
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