あの時は、君じゃなくても良いと思っていた。

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どのような仕事をしているのかも一切知らない中、珍しく彼が自分のことを話したことに驚いた。 「へぇ、そうなんだ」 「それだけ?」 それ以外に何が欲しいのだ。 金銭でも求めているのだろうか。 「貯金、ないの?」 「やっぱりそうなるか」 「さっきから何言ってるの?」 「いや、何でも」 説明するのが面倒になったのか、彼は口を閉じた。 私たちにしては長い会話だった。 来年度から転勤ということは、あと数ヶ月もない。 これから忙しくなりそうだ。 私は転勤のない会社を選んだため良かった。 転勤だなんてもの、面倒で嫌だ。 「あのさ」 「え、いきなり何」 静かな空気が流れたのも束の間。 再び彼が口を開いた。 私に話しかけるような言葉だった。 「今の仕事、楽しい?」 「まあ、普通だけど」 何の脈絡もない質問だった。 明らかに普段と様子が違う。 「辞めたいとかは?」 「転職とか面倒だから特には。 それで?さっきからどうしたの?」 このまま質問され続けるのも面倒なため、本題に入るよう促した。 「───いや、何でもない」 けれど彼はそれ以上説明することなく口を閉じた。 どうやら質問が終わったらしい。 その日は微妙な空気になったため、体を重ねることを拒否したけれど、なぜか彼は折れようとしなかった。 結局私が折れて同意したのだが、その日の抱き方はいつになく激しいものだったと思う。 その理由もわからないまま、彼と最後の日が訪れてきた。 といっても、何かするわけでもない。 いつもと何一つ変わらない時間だった。 そこまで思い入れ等なかったということだ。 あっさりした別れ方が何とも私たちらしい。 見送りに行くことなく、彼はこの土地を離れた。 それからの日々も、私からすればこれまでと何一つ変わらない。
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