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〈哀切の御曹司 〜高層ビルの夜景〜〉
超高層ビルから大都会を一人、見下ろす男、日下部統真。
彼は、マンハッタンに構えるオフィスの窓から、窓の外を眺めていた。
目の前には、エンパイアステートビルがそびえ、煌めく幻想的な光は見る者を、ともするとここはどこかのテーマパーク…夢幻の世界へ迷い込んだのではないかとさえ錯覚させる。
しかし振り返ればそこにあるのは無機質なオフィスだけ。
彼は、眼下の光の渦の中のどこかに彼女がいるのではないかと、想像してみた。
『ねぇ、見て見てトーマ、こっちもライトアップされてるよ!すっごくキレイだね。こんな場所を歩けるなんて、幸せだな。あっ!あそこに何かお店が出てるよ。トーマ、見に行ってみようよ!』
大きな瞳をキラキラさせながら燥ぐ彼女の姿。
統真は目を細め、彼にしては珍しい、温かみのある微笑みをその顔に浮かべた。
その微笑みは見るものを蕩けさせるように甘く、もしもここに、寄り添う女性でもいたのならきっと、見惚れて言葉を失った事だろう。
しかし今、彼の思考は孤独にたゆたい、息を飲む程の、眼下に広がる百万ドルの夜景さえも、彼の寂寥を癒してはくれなかった。
ーークッ。酔えねぇな。
そう、独りごちた統真は、飲みさしのワイングラスをコトリと置くと、人間が作り出した虚構の美しさ…腐臭を放つゴミや、汚染された汚らしい水、ボロを纏って放浪する浮浪者…そんなモノなど、まるで存在しないかの様に全てを覆い隠して光り輝く世界に、奇妙な親近感を覚えながら、気がつけば独り、狂ったように笑い転げていた。
「クククク…あはははは!」
ーーなんだ。俺と同じじゃねぇか。
輝かしい虚飾も。
うちに含んだどす黒い汚泥も。
彼の、どこか狂気を孕んでいさえするような乾いた笑い声も、防音設備の行き届いた最上階のオフィスの壁に吸収されて、消えた。
そう、彼は日下部統真。
日本の、いや世界の経済の一翼を担う、日下部HDの若き指導者。
人々は彼との面会を求め、アポを取ろうと、我先にと列をなす。
しかし、彼が本当に心の底から会いたいと待ち望む人物は、いつまで経っても現れなかった。
・・・、そろそろ、迎えに行ってやってもいい頃か。
地の果てまでも。
たった一人のちっぽけな、だが彼にとっては全世界と引き換えにしても惜しくない、あの純朴な彼女の下へ。
眼下に広がる夜景は相変わらず虚構に満ちていたが、その中に彼女がいるかも知れないと思うと、ほんの少し、温もりを帯びて見えた。
彼はもう一度だけ、夜景に目をやると、残りの書類を片付けるため、再びデスクに向かって書類に取りかかりはじめた。
〈哀切の御曹司 〜高層ビルの夜景〜 完〉
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