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2.異変の兆し
放課後、ボクは沙彩とひとしきり遊んでから帰宅した。
「ただいまー」
「おかえり。おニィちゃんなら二階に居るよ」
雑誌を読んでいるママが横目で告げた。お見通しとは恐れ入る。すぐにニィニと遊んでも良かったが、ひとまずボクは鞄を降ろしてソファーでだらけることにした。
「そうだママ、土曜に沙彩が遊びに来るんだけどいいかな」
ママって沙彩のこと知ってたっけ……と言ってから思ったが、ママは特に気にすることも無く「いいわよ」と返してくれた。
「わたしその日は出かけてるから、まあ適当にやっててね」
好都合だ。俄然、週末が楽しみになってきた。ボクが心の中でほくそ笑んでいると、ママが思い出したように「あー」口を開いた。
「そう言えば、最近レナちゃんの話聞かないわね。何かあった?」
ぐっ、と喉が詰まるような思いがした。
「別に……何も無いよ」
「ふーん。秋月さんのお宅、最近なんか慌ただしそうだから何かあったのかなーって思ってたんだけど、あんたが聞いてないなら大したこと無いのかしらね」
「えっ……それどういうこと?」
ボクはソファーから身を乗り出した。
「どしたの、その食いつきは」
「いいじゃん、何か見たの?」
ボクの勢いにママは少し戸惑ってしまっている。
「えぇー……、別に大したことじゃないわよ。こないだ前通ったんだけど、トラックが何台も止まっててね。大荷物運び込んでたから、何か特別なことでもするのかなって」
「特別なことって?」
「いや、適当言ってるだけよ? ただ、こーんなでっかい木箱まで届いてたから」
秋月邸と言えば勝手知ったるレナの家だ。通学路から二筋外れ、天神様を過って右。竹林を背にする立派なお屋敷なのだが、ここ最近は前も通っていない。レナが素っ気なくなってからは訪ねるのが怖くなったのだ。だからママの話から想像することしかボクにはできない。
(大荷物って何? 誰かの引っ越しの荷物? 何か大胆な買い物でもしたとか? いや、でも……それがレナに何か関係あるか? そもそもボクが詮索する意味は?)
ママは「お金持ちって色々とスケール違うわよねぇ」とひとりで話を完結させてしまっている。ボクはそろそろ二階に行くことにした。学校で沙彩には気丈な振りをしておきながら、レナのこととなると未だにあれこれ考えてしまう。何とも情けない。
(やめよう。ボクは鬱陶しい人間にはなりたくない。レナにはレナの自由がある。土曜には沙彩も来る。今は深く考えずに目の前だけ見ていよう。とりあえずニィニと遊ぼう)
ニィニと遊んでいる時は、このもやもやも少しは忘れられる。ボクは癒しを求めるように自室に向かい、ドアを開けた。が、そこには癒しとは程遠い光景があった。
何が居るのかと思った。
そこに居たのは間違いなくニィニだった。しかし、ボクの知っているニィニではなかった。まず胴が長い。猫は思ったより伸びるとかそんな次元ではなく、胴体部分が餅かスライムのように異様に伸びていた。しかもそいつは勉強机に掴まり立ちをし、パソコンに向かっていた。ボクのノートパソコン……ネットにも繋がる、ボクの暇潰しのお供……それでもって、そいつは、嗚呼そいつは……ハダカの女性を映していた!
(猫が、パソコンで、エロ動画見てるっ!)
金切声が部屋中に響いた。ボクの声だ。一瞬にして頭が沸騰したボクの叫びだ。ニィニが驚いて跳び上がり、その拍子に胴体が元の長さに戻る。ニィニは恐る恐るボクの方を振り返るが……その全身がみるみるうちに総毛立つ。ボクはどんな形相をしているというのか。
「ま、待ってくれ! 叩かないで! 叩かないでくれーっ!」
今の声は誰だ。ボクじゃない。でも今この部屋に居る人間はボクだけの筈だ。
「誤解だ、これは誤解なんだ! せめて釈明を……アッ」
再び声がした。言葉の途中で慌てて口を押さえたのは……ニィニだった!
(猫が、喋ったっ!)
ボクの頭が更に沸騰しそうになる。
「その棒から手を離せーっ!」
ニィニの叫びにボクは我に帰った。いつの間にかボクは金属バットを振りかぶっていたようだ。これでニィニをぶん殴ろうとしていたのか。何てことだ。
「ちょっとー、何の騒ぎー?」
出し抜けにドアが開き、ママが顔を出した。ボクは慌てて金属バットを背中に隠した。
「な、何でもないよ。ちょっとヒートアップしちゃって……」
汗びっしょりのボクにママは怪訝な顔をしている。やばいやばいと思っていると、ふとママの視線がボクの後方にある勉強机の方へ飛んだ。
「あら、おニィちゃんパソコンやるの? インテリさんなのね」
パソコンの画面に映っていたエロ動画を思い出し、ボクは心臓の止まる思いがした。ところが、意外にもママは表情を綻ばせたまま、スッと部屋を出て行く。
「静かに遊びなさいよー」
扉が閉まり、部屋に静寂が訪れた。ボクはパソコンの方を振り向いた。すると、パソコンの前にニィニがちょこんと座りこんでおり、ママの視線を遮っていた。
「もしかして……助けてくれたの?」
ニィニはコクリと頷いた。ボクは頭が急速に冷却されていくのを感じた。
「ハハッ……とりあえず、お茶でも飲もうか」
温かいお茶で一服し、ボクは落ち着きを取り戻した。試しにニィニにも一杯ついでやると、なんと両手でカップを掴んでゴクゴク飲んだ。しかも正座でだ。どうやらこいつにとっては二足歩行が普通らしい。ともあれ、まずは現状を把握しなければならない。
「お前に関しては、もう信じられないものを散々見たからね。だから今更何を言われてもボクは疑ったりしないよ。その代わり、ありのままを答えて。いい?」
「……ああ」
ニィニはまだ少し怯えているようだ。さっき思わずバットまで出してしまったことが悔やまれるが、ここは心を鬼にして毅然とした態度で臨まなくては。
「それでは最初の質問。お前は猫じゃないよね。お前は何なの?」
「……この星の人間じゃねぇ。オーメ星系第三惑星っていう遠くの星から来た」
なんと、宇宙人だったのか。まあ、こんな生き物地球上に居るわけがないから、そう考える他無いだろう。さしずめ猫型宇宙人と言ったところか。
「じゃあ、なんで捨て猫みたいな真似をしてたの?」
続けてそう尋ねると、ニィニはもごもごと言い淀んでしまった。何か込み入った事情があるのだろうか。これは尋問ではないのだから、無理に詮索するのも気が咎めるというものだ。
「細かいことはいいよ。一言で言ってみて」
「女子高生のペットになりたかったからだ」
こいつやっぱ殴っとくべきだったかな。
「……えーと、何か助けを必要としてたってことでいいのかな?」
「いや違う。ひとえに女子高生に養われたかっただけだ」
なんでこっちの好意的な解釈を無にしようとするかな。それも淀みなく。
「質問を変えようか。ボクと普通に言葉が通じてるのはどうして?」
「……姐さんが外出してる間に、パソコンを借りてこの星の言語を勉強してたんだ。パターンを翻訳機に打ち込んだから、多分大抵の会話はできると思う」
翻訳機と言いながらニィニが指差したのは、猫で言えば耳にあたる部分だった。体の一部ではなかったらしい。しかも小ぶりな癖に物凄く高性能な翻訳機のようだ。
「宇宙の技術力ってとこか。ってか、お前も結構頭いい?」
「うーん、まあ学校の勉強だけはできたんだよなぁ……」
頭を掻いてニィニが照れる。こういう仕草も知的生命体っぽい。一方、パソコンと聞いてボクは嫌なことを思い出してしまった。
「……エロ動画見てたのは何? 息抜き?」
そう言ったボクの顔がどんなか知らないが、ニィニは体を更に強張らせた。
「ちっ、違う。この星の人間の生態がどんなものか調べてただけで……決してやましい目的じゃねぇ。……本当だってば! ほら、ちゃんと男の動画も見てる!」
ニィニはパソコンを操作して別タブを開き、必死にボクに突きつける。すると見たくもない肌色が画面いっぱい。彼の言うことに間違いは無いようだ。
「わかったから、見せんでいい。何もそんなとこまで勉強しなくていいのに」
「いやぁ、親切にしてもらってるのに粗相があっちゃいけねぇと思って。だから、想定しうる限りことは全部調べておこうかと……不快な思いさせちまってすまなかったな……」
そう言ってニィニは少しうなだれた。その姿がボクには不思議と健気に映った。
(こいつはこいつで筋を通そうとしてるわけか。ちょっと不埒だけど悪い奴じゃなさそうだよね……うん、それに、不覚にもこいつのことをいじらしく思ってる自分が居る……)
ボクは少し考え、やがて膝を打った。
「しゃーない、これからもうちに置いてあげる。感謝してよ?」
ボクの言葉を聞いてニィニは一瞬目を丸くしたが、やがて目に涙をいっぱい溜めて飛びついてきた。ボクは驚いたが何とか受け止めた。
「ありがとう! 本当にありがとう!」
この喜びようから察するに、ニィニにはやはり余程の事情があるのだろう。それからニィニは延々と嬉し泣きを続け、結果、ボクの制服はクリーニングに出すことになった。
驚きの「遭遇」からはや数日、ボクは案外ニィニと上手くやっていた。何のことは無い、普段はこれまで通り猫の振りを続けてもらい、ボクと二人きりの時だけ喋ったり伸びたりしてもいいことにしたのだ。ニィニは更にボクに懐くようになり、こちらとしても身近に話し相手が増えたので悪い気はしなかった。
それから、ニィニは香辛料多めのジャンキーな味を好むことがわかった。宇宙人とはいえ猫の癖に変な奴だ。ママはお得意のニンニクの利いた料理を大盤振る舞いできるようになって上機嫌なので、いいことではあるのかもしれない。ただ匂いだけは考えものだ。
(ニンニクかぁ。確かニンニクは吸血鬼の弱点だったような……いやいや、やめよう)
パンチの効いたおかずを頬張っていると、思い出したくもないことが頭をよぎる。その度に慌てて頭を切り替え、ボクは平常を保とうと努めるようになった。
沙彩とも遊んだ。沙彩はニィニをとても気に入ったらしい。すりすりされ、もみくちゃにされ、ニィニは満更でもない様子だった。彼のことは後でつねっておいたが、この日はボクも楽しかった。明るく積極的な沙彩は、ボクを悩み事からいっとき解放してくれるのだ。レナとの関係は相変わらずだったが、それでもボクは穏やかな時間を過ごしていた。
だがその一方で、不穏な事件が世間を騒がせていた。
また一人、若い女性が遺体で見つかったのだ。新たに発表された情報によれば、これまでに死亡した女性たちの死因はいずれも失血死で、原因は不明だがとにかく大量の血液を失っていたらしい。しかも、奇妙なことに現場には殆ど血が零れていなかったというのだ。
偶然にも、今度の第一発見者はボクのクラスメイトだった。学校であれこれ聞かれる彼女が急に泣き叫ぶ姿をボクは見た。河原に打ち捨てられていた遺体を見た時の恐怖が、彼女を苦しめているようだ。しかし、何よりもボクを驚かせたのは彼女の証言の内容だった。白い顔で事切れていた女性のうなじにはキリで穿ったような傷痕が二つ、痛々しく残っていたとか。
たちまち学校中を飛び交ったのは、他でもない吸血鬼の噂だった。
『吸血鬼!』
『吸血鬼!』
『吸血鬼!』
『血を吸う怪物だ!』
『牙持つ吸血鬼が生き血を求めて女をさらうのだ!』
『暗闇に気を付けろ! 夜道を歩くお前の、ほら後ろに!』
男子連中などは、気になる女子を怖がらせようと盛んにはやし立てている。全く幼稚と言う他無いその行動を目の当りにしながらも、ボクは呑気に軽蔑などしてはいられなかった。
(違う。牙じゃなくて髪の毛だ……!)
心の中で呟きながらボクは震えた。ボクにとってこの怪談は他人事ではない。皆が言う吸血鬼にボクは出会っていたのだから。夢か幻だと思って懸命に忘れようとしていたが、吸血鬼は確かに実在したのだ。その上、今も街に潜む連続殺人犯そのものだったのだ。
(うなじを傷つけられて失血死だなんて……間違いなくあの吸血鬼だ。ボクだって危うく餌食にされかけた。あの時は助かったけど、次出会うようなことがあったら……っ)
あの夜に味わった恐怖が現実味を増して襲い掛かり、ボクは背筋が凍る思いがした。
ただ、この怪談をネタにボクはレナと言葉を交わすことができた。
ある日のこと、たまたま学食が混んでいたことを口実に、レナの向かいの席にボクは滑り込んだ。レナはボクの話を無言で聞いていたが、やがて「そうでしたの」と呟いた。
「誰かが大袈裟に騒いでいるものと思っていましたが、あなたがそう仰るなら私も精々気を付けましょう。吸血鬼でしたら、暗い道はできるだけ避けるのがいいですわね」
こんな長い言葉をかけてもらったのは久しぶりだった。
「そう、そう! 気を付けてよね。特にレナみたいな可愛い子は危ないから……っ」
思わず声が上ずるボク。しかしレナは食事もそこそこに席を立ってしまう。
「あなたこそ、放課後は早々に下校なさるといいですわ。危ないのですから。私にかかずらっている必要はありませんのよ」
去り際までレナはボクの顔を見なかった。残されたボクは、しばらく呆然として空席になった向かいを見つめていたが、やがて他の人が座ると無心に飯をかきこんだ。
(……これでいい。今はその時じゃなかったってことだ。まだレナがボクを見てくれないというならそれでいい。またいつか振り向いてくれるなら、ボクはそれを待つだけだ)
それはそれで美しいじゃないか。そんな風に考えながらボクはその日の午後を過ごした。だが、放課後の解放感も、ニィニの出迎えも、ボクのもやもやを晴らしてはくれなかった。
(気にしないと割り切ったのに……その時まで待つと決めたのに……)
中学の時もそうだった。悟朗が東京へ去ってからも何となく尻込みしていたボクに、レナは声をかけてくれた。距離ができる前と何も変わらず、ボクを一番に見てくれたのだ。その時ボクは心弱くも涙ぐみ、思ったのだ。ボクは餌を待つ犬で構わないと。今だって同じの筈だ。
(なのに……どうしてこんなに胸に応えるんだろうね……)
結局その日はろくにニィニと遊んでもやれず、食事も喉を通らなかった。
《つづく》
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